第9話

      九


      夫


 十一月になった。年末近くにオフィスを引っ越そうという会社はなかなかないから、私の会社はそれほど忙しくない。新年度開始の少し前に移転が行われるいくつかの案件に合わせて調整をする必要はあったが、うまく仕事を詰めれば少し長くまとまった休みがとれる。

 私たちは夫婦で兵庫県の有馬温泉まで足を延ばした。沙月のアイデアだった。旅行自体は私から誘ったのに、こんなに乗り気になってくれて私はとても嬉しかった。

 少し良いホテルの露天風呂付の部屋をとり、夫婦水入らずでゆったりと過ごす。鉄分を多く含む独特の金泉は、少しの時間入っただけで一気に疲れを取ってくれたが、何日か過ごしていると、沙月の様子がまたおかしくなった。明らかに落ち着きを失っている。目が合わない。返事も上の空だ。私の呼びかけにも気付いていないときもあった。

「大丈夫かい?」と聞いても、何でもないの一点張り。

 病気の母を置いて、自分だけ楽しむのに負い目を感じているのかもしれない。私と結婚するまでは生活を切り詰めて切り詰めて、母に寄り添って自らも共に苦しんできた人だ。

 気分転換のために、今日の夕食後は妻を誘って温泉街にでも出てみることにしよう。有馬温泉の炭酸を使った、炭酸せんべいとサイダーが有名らしい。



      妻


 呉谷と会うことになっていた晩、勝廣が温泉街に行こうと誘ってきた。本来、勝廣は育ちが良いからか夜は早く寝て、一度眠りに落ちると朝まで目覚めない。

 夜にホテルを抜け出して呉谷のところに向かうのは、それを見込んでの計画だった。旅行中も、今までずっと早く寝ていたではないか。

 たとえセックスをしていたって、日付が変わる前には眠りにつく。そんな夫だったからこそ、私は旅行と呉谷との密会をバッティングさせたのだ。それなのに今日に限って誘ってきたことで、沙月は呉谷との密会が知られているのではないかと少し不安になった。

 時刻はもう午後十時半を回っている。今から店を回って、挙句の果てにお酒などを飲み始めると、タクシーを予約している時間が来てしまうだろう。何とか自然な形で断らなくてはならない。沙月は再び頭を悩ませた。


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