第2話

      二


      夫


 地下の駐車場に車を停め、自分の部署がある九階でエレベーターを降りると、待ちかまえていたように数人の部下が駆け寄ってきた。

「課長、M商事との業務提携の件ですが、条件面で新たな要望が出ました」

「K社の製品にネット上で悪評が出始めています。まだ炎上には至っておらず、K社もまだ対応を開始していませんが、上層部からは早めに対処しろと。こちらが同様の製品を販売している会社のリストです」

 資料を受け取って自分のブースに入り、パソコンを起動させコーヒーを入れに行く。戻ってきてからメールを確認すると、私の家の近くにある取引先に今日の午後三時から訪問する必要が生じたことを知った。その後のスケジュールも空いている。沙月のことが気がかりだった私は、一度帰宅することにした。



      妻


 午後二時、誰かが見ているわけでもないのに、沙月はそっと家を出た。車は勝廣が通勤で使っているので、最寄り駅まで十五分ほど歩く。そもそも沙月はペーパードライバーだった。

 電車に揺られながら、まぶしいくらいの日光を浴びる郊外の田園の青々とした風景を見ても、沙月の気持ちは少しも晴れなかった。

 私は夫によって生かされている、その思いは常に持っていた。数ヶ月前にふとしたきっかけで昔付き合っていた勝廣に再会したのは、沙月にとってまさに首の皮一枚つながった、と言える出来事だった。

 父親が亡くなり、その葬儀には思わぬ額がかかった。多くもない参列者から得られる香典の額ははっきり言って少なかったし、どれだけ規模を小さくしても普段数万円、数千円レベルをやりくりしている身としては、頭の痛くなるような額の出費だった。

 もうこの頃にはだいぶ節約のコツをつかみ、万引きに走らなくても日常生活であればなんとかやっていけるようにはなっていたが、この急な出費のせいで世間的に見れば少額と言われるような額かもしれないが、負債を抱えてしまっていた。

 死んだ父の分の浮いた治療費で返せばいい、そういった軽い気持ちで作った借金だった。しかし、ちょうどそのタイミングで母の治療法と薬が変わって、父の治療費分の金はあっけなく消えていった。沙月は借金を返すあてを失い、少額でも着々と増えていく利息を途方に暮れた表情で見つめることしかできなくなってしまった。

 勝廣との再会は、そういうタイミングでの出来事だった。勝廣は彼の祖父が創設した、様々な企業相手にオフィスで使う備品などの販売やリースを行っている会社で役員を務めているが、まだ若いこともあり、実際に現場で陣頭指揮をとることが多かった。

 彼の会社が昨年の秋に、沙月の勤めていた会社のオフィスの模様替えを担当した時に、高校卒業以来、十数年ぶりに再会したのである。

 最初は旧交を温めるだけだと思っていた。しかし、昔とは違う、彼の落ち着いた雰囲気からくる安心感と、優しさが滲み出る話し声につられ、二度目の食事の時に現在の困窮している状況を話してしまった。

 彼はずいぶん親身になって聞いてくれて、自分で良ければいくらでも援助すると言った。その時はまさかそんな虫の良い話はないだろうと冗談半分で聞いていたが、その日の帰りのタクシーの中で、勝廣は沙月に求婚した。

 十数年も会っていなくて現在のお互いを何も知らない中、交際期間も経ずにプロポーズを受けることなどありえない。沙月の理性はそう告げていたが、正直もう限界だった。彼の家が会社を経営していることは昔から知っていたし、その時身に付けていた時計や小物も、派手さはないものの明らかな高級品だった。

 これは今まで苦難に耐え続けた自分に対する救済なのだ。そう自らを納得させ、沙月は車を降りる直前、その求婚を受け入れた。

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