第9話 もぬけの

剋苑こくえんを決して世に話してはならぬと言う程度の事、愚かなお前でも分かると思っておったが、とんだ間違いだったようだな。剋苑こくえんがどれほど危険で、どれほど扱えぬか。今は早急に斎藤さいとう様の元へ参り報告せねばならぬゆえに捨て置くが。帰ってきたとき、その命あると思うな」

 貞虎さだとらは鋭い視線を震えて小さく縮こまる貞家さだいえに向け、冷たく言い放ってその場を後にした。

 城の中は騒然とし、そのざわつきは次第に大きくなっていったが、貞家さだいえの耳にその音が入ってくることはない。

 兄の乗る馬のひづめの音が遠ざかる音だけを聞き、その後は周囲の音などまるで耳に入らず、貞家さだいえはブルブルと今まで以上に震えた。

 頭を抱え込んでうずくまり、大きな体を小さく小さく折りたたんで、ただ震える貞家さだいえは時間がたつほどに、貞虎さだとらの最後の冷たい一言が、明らかに脅しでは無いと確信する。

「こ、殺される。兄上に殺される!」

 ブツブツと同じことを繰り返す貞家さだいえは、部屋の片隅であたりの変化に気づくことはない。

 貞虎さだとらが城を後にした瞬間からその変化は起こり続け、やがて城は静まり返る。

 ひとしきり怯えた貞家さだいえがやっと城の異変に気づき、両腕で抱え込んでいた頭を上げたのは兄が怒鳴り帰ってから半日は経っていた。

「ど、どうしたのだ? 城が、静かじゃ」

 未だ小さく震える体で立ち上がり、ふすまから廊下に出てみれば、一の気配はおろか、小さなネズミの気配さえしないほど静まりかえっている

勝家かついえ? 神津こうづ? 皆、何処に居る?」

 冷や汗を額から流しながら、家来の名を呼び、足元が覚束ないまま人影を探して貞家さだいえは城を駆け回る。

 始めはゆっくりと、しかし、徐々に焦りとともに速くなり、城中を探し回ってやっと、貞家さだいえの足は止まった。

「ハ、ハハッ……。ハハハハ!」

 その場に崩れるように膝を地に付け、上体を大きく反らして貞家さだいえは声の限り笑う。

「なんと、なんと、誰もおらぬ。誰一人!」

 人の居ない城内に貞家さだいえの大きな笑いが響き渡った。ひとしきり笑い、喉がかれはてた貞家は大きく息を吸って吐き出す。

「なんとも人とは怖いものじゃな。あのように我を持ち上げて、楽しい日々を過ごしておったと思うのに、兄が我を見限れば我についてくるものなど誰もおらぬとはな」

 貞家さだいえが兄に怯え、頭を抱えているうちに城の家来たちは皆、その身を兄である貞虎さだとらの城へと寄せたのだ。

「そうか、元々そういうことだったのかもしれぬな。言っても元は父と、そして兄の家来達だ。我に対して忠誠心などあるはずも無い。金払いの良い阿呆と思われておったのだろうな」

 自身への嘲笑を浮かべながら、貞家さだいえは自分の身がその程度のものだったと痛感し、荷物をある程度まとめると馬小屋へ行く。

 しかし、既に馬の姿はそこには無かった。

「フッ、馬までもか。なんていうヤツラじゃ」

 深く溜息をつき、何も無くなった城を振り返って微笑した貞家さだいえはゆっくりと歩いて城を出る。

「どうなろうとも、兄に殺されることだけはお断りじゃ。最後ぐらい自分の死にたい場所で死にたい方法で死ぬ」

 涅音ねおんが閉じ込められていた、周防すおう貞家さだいえが治めていた城はたった一通の手紙と、たった一人の男の言葉で人っ子一人いない静かな無人の城へと変貌した。

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