3

 富ノ森主従と共に熾野宮邸に戻った朱華は、和比古のほぼ命令じみた提案で書庫に向かった。

 朱華としては、昨日矢を射掛けられたということもあったので、何故書庫なのかと一応意見はした。しかし、和比古はそれに答えることもなくずんずんと進んでいく。平太は主人に逆らえないようだったので、多数決で書庫行きが決定した。

 しっかりと扉を閉めてから、和比古は連れてきた二人を睨む。平太はびくりと怯えた様子を見せたが、朱華は今更和比古を怖がる理由もないので毅然としていた。


「昨日、お前たちは此処の調査をしていたようだな。そのことに間違いはないか?」

「ないよ。居場所を偽らなければならない程のことはなかったからね」

「ふん、そうか。では、斯波朱華──お前は昨日此処で、白木院が傾倒していると思われる『熾野宮家に伝わる信仰』に関する手掛かりを見たことがあるか?」


 ずい、と和比古に顔を近付けられて、朱華は少々面食らった。

 恐らく、和比古はそういった独特の信仰に関する資料があるならば書庫に違いないと考えたのだろう。何だかんだ言いつつ彼は真幌のことを放っておけないようだったし、彼の傾倒しているものについて知りたいと思っていても可笑しくはない。

 しかし、朱華はすぐに是とはうなずけない。和比古のしかめっ面から少し離れて、彼は首を横に振る。


「少なくとも、僕の見ていた辺りの書物は皆処分する他ないようなものばかりだったよ。それに、そういった資料があったとして、だ。万が一君にまで悪影響が及ぶことになったら、一体どうするつもりなんだい?」

「斯波朱華。お前は俺が怪しげな信仰に引きずり込まれるような、脆い精神の持ち主だと思っているのか? だとすれば失礼にも程があるぞ」


 いや、だって君は僕に叱られて漏らしていたじゃないか──とは、口が裂けても言えない。そのようなことを言おうものなら、朱華は今度こそこの屋敷での居場所を失ってしまう。


「だが、真幌君は君が見た限り、品行方正な優等生だったのだろう? そんな彼でさえもああなってしまうのだから、不可解な出来事ばかりが起こっているこの状況でそういった信仰について知るのは危険だと思わないかい」

「お前がどうかは知らないが、少なくとも俺は平気だ。富ノ森家は貿易商として名高く、開国してからは諸外国との貿易も多く執り行っている。その証に、俺の母は英吉利エゲレス人だ。故に、一神教には慣れている。俺は直接信仰しているという訳ではないが、身近にあるものだからな。その壮大で緻密な信仰体系をある程度知っているから、今更秘境の異教に傾ける自信はない」


 いくら強固な信仰体系を維持している一神教についての造詣が深いからといって、異教にたぶらかされないという理由にはならないのではないか。そんな気持ちがない訳ではなかったが、和比古とこれ以上揉めるのは面倒だったので口は挟まなかった。

 とにもかくにも、和比古は真幌の様子が可笑しくなってしまった原因について知りたいようだった。躍起になっているのはそのせいだろう。

 学友のことを和比古なりに案じているという点に関しては、朱華としても好感が持てる。しかし、それで木乃伊ミイラ取りが木乃伊になっては元も子もない。和比古は精神的にそう強い訳ではなさそうだし、少し弱味を掴まれたら付け入られてずるずると──なんてことにも発展しそうで恐ろしい。

 此処で、ずっと黙って二人のやり取りを聞いていた平太が、あの、と控えめに声を上げた。何か伝えたいことがあるようだ。

 和比古は平太の声を耳に入れると、わかりやすく顔をしかめた。もともとしかめっ面だったのが、より一層不機嫌そうな顔付きになる。


「何だ? 俺は今斯波朱華と話しているのだ。くだらん話であれば後にしろ」

「いや、あの……。斯波様の探していたところのことは私もよく存じ上げないのですが……。旦那様のお求めになっているような書物を、私は幾つか目にしたことがありますもので……」

「何故それを先に言わない! 良いから早くそれらを持ってこい!」


 鬱陶しそうにしていた和比古だったが、平太の言葉を聞いてその態度は一変した。

 どん、と彼が床を殴り付けると、気弱な従者は鉄砲玉のような速度で昨日自分がいた辺りまで駆けていった。

 それから平太が戻ってくるまで、それほどの時間はかからなかった。恐らく急ぎに急いで探してきたのだろう。資料を持ってきた平太は、倒れ込むようにして転がり込んだ。


「ふん、ご苦労。早速拝見させてもらうぞ」


 和比古は息切れし過ぎて最早過呼吸にも近い状態になっている平太を一瞥しただけで、さっさと彼の持ってきた資料の検分に移ってしまった。

 放っておかれた平太があまりにも不憫で可哀想なので、朱華は彼の背中を擦ってやる。呼吸困難で倒れられたらそれこそ洒落にならない。

 和比古はふんふん、と時折うなずいたり首をかしげたりしながら書物を読んでいた。朱華は平太の呼吸が整っていくのを確認しながら、和比古に目を向ける。


「どうだい、熾野宮の信仰とやらは。真幌君の言っている、救世主だとか何とかについてわかったことはあるかい」

「……まあ、なくはない。ただ、これはあまりにも不愉快だ」

「不愉快……?」


 眉根を寄せる和比古に、朱華は疑問を覚える。

 不可解ではなく、不愉快とはどういうことだろうか。


「その……恐らく、旦那様は耶蘇やそ教を知っていらっしゃるので、そのように思われているのかもしれません。熾野宮家はもともと、迫害から逃れてきたキリシタンのようですから」


 朱華の言葉に答えたのは、やっと呼吸を落ち着かせた平太だった。彼はふぅ、と息を吐いてから話に戻る。


「それらの資料によれば、もともとは千世ヶ辻に逃れてきた熾野宮の者たちも耶蘇教を信仰していたらしいのです。実際に、耶蘇教に関する記述のある書物も幾つかありました。もしかしたら、この屋敷には耶蘇教の祭具が残っているかもしれません」

「しかし、だとすれば何故白木院は自らが救世主となると言っていたのだ? 耶蘇教は父なる神、耶蘇、そして聖霊なる存在を信仰しているが、信者が救世主になるなどという話は聞いたことがない。百歩譲っても聖人になるくらいだろう。白木院の馬鹿は、聖人にでもなるつもりなのか?」


 それは朱華に対して向けられた言葉だったが、いち早く拾ったのは和比古であった。

 彼は書物から顔を上げて、平太を睨み付ける。早く話せ、とその目が告げている。

 平太は一瞬目を伏せてから、「それが……」と自信なさげな声で続けた。


「その、書物にも載っていると思うのですけれど……。どうやら、熾野宮の耶蘇教信仰は、時を経るごとにねじ曲がっていったようなのです。このような山間に、耶蘇教を伝える宣教師はおりません。ですから、彼らの耶蘇教信仰は残りこそすれどそれ以上進展することはなかったのだと思います。そんな中で、月日は過ぎ、熾野宮の者たちの信仰姿勢は徐々に変化していった」

「……本来あるべき耶蘇教の教義から外れてしまったということかい?」

「はい。彼らはどうやら、この地まで耶蘇教の教えを守り生きてきた熾野宮の者こそが真なる救世主だと考えるようになったそうです。熾野宮の人間は耶蘇の生まれ変わりだ──と、書物のどれかに記されていました。それで、熾野宮家の男児は、代々救世主として密かに祀り上げられていたみたいなのです」

「それは──最早、耶蘇教ではないぞ」


 和比古が瞠目する。

 耶蘇教に触れてきた彼にとっては、信じられない話であろう。生きている人間が救世主として崇められるなど、前代未聞である。


「熾野宮の者たちの信仰については大方理解出来た。しかし、ならば真幌君は何処でそれを知ったのだ? 千世ヶ辻は外部からやって来る人間がとても限られている地だ。村人たちから離れている、熾野宮の者なら尚更だろう。本来ならば、その信仰が外部に漏れることはないと思うが」


 和比古の問いかけは尤もなものだった。朱華も口に出しはしなかったが、うなずくことで同意を示す。

 平太はええと、と首を捻る。そして、記憶の糸を手繰り寄せるような風で語った。


「救世主になれるのは、熾野宮家に生まれた男児──それも、嫡子でなければなりませんでした。ですから、女児が生まれた場合は、使用人と共に山の外に出るのです。千世ヶ辻を通らず、幾多の山々を渡り歩いて、町へ出るのだとか」

「へえ、大変なのだね」

「それで下界に行く者は、細々と布教をするそうです。幕府があった頃は信仰に縛りがありましたから、それこそ初めは土着の風習を装い、相手が興味を示したらここぞとばかりに一気に引きずり込むような形を取っていたみたいですよ。それで捕まえた人間を熾野宮邸に送り込んで、使用人として働かせるらしいです。村との関わりがないのに熾野宮邸に仕える人間がいたのは、そういった活動があったからだと思いますよ」

「質が悪いったらありゃしないね」


 和比古は書物に視線を落としてしまったので、しばらくの間は朱華が平太に相槌を打ってやっていた。誰も反応してくれない中で話すのはなかなかに辛い。

 しかし、何とまあ、熾野宮は良い立地を得たものである。このような辺鄙な山間部であれば幕府の目も届かず、また呪いやら何やらと曰く付きの土地であったから、容易に立ち入ることも難しい。耶蘇教を根底に置いているとは言えども、その耶蘇教の原型がほとんど残っていないから田舎の土着信仰のようなものにも見せかけられる。

 それを真幌がいつ知ったのかはわからないが、止めるならば早いうちに止めた方が早い。このままでは真幌が熾野宮の布教者になってしまいかねない。


「……そういえば、白木院様は太刀がどうとかおっしゃっておられましたよね。太刀がなければ救世主になれない──って。耶蘇教の影響を受けた信仰なのに、どうして太刀がいるのでしょう」


 ふと思い出したように、平太が首をかしげる。

 たしかに、真幌は太刀がなければ救世主にはなれないというようなことを言っていた。初めに見つけたものは損傷が酷く、とても太刀として使えるようには見えなかった。それゆえに、真幌は新たな太刀を探しているのだろう。

 平太は彼が何故、いや熾野宮の救世主になるために太刀が必要なのかわからないようだった。黙々と書物を検分している和比古に、遠慮がちな視線を送る。


「あの、旦那様。旦那様の方で、何か──」

「さあ、知らんな。それはお前が己で知るべきことだ」


 和比古はすげない答えを寄越すだけだった。そして、目線を上げることもなく続ける。


「俺はしばらく此処にいる。色々と調べたいことがあるからな。お前たちは白木院を探せ。当事者を連れてこないことには何も始まらない」


 酷く横柄な口調で、和比古は二人に命令する。朱華も知らず知らずのうちに従者か小間使い辺りの役所を与えられてしまったらしい。

 朱華は明らかに腑に落ちない、といった顔付きで和比古を見る。そんな彼の着物の袖を、平太が控えめに引っ張る。


「旦那様は、一度物事に集中し出すとてこでも動かないご性分のお方なのです。此処は白木院様の捜索に参りましょう」

「……そうかい。それなら、書物の検分は和比古君に任せるとしようかな」


 この中で最も和比古に近しい存在である平太に言われてはぐうの音も出ない。和比古を一人にしておくのは不安だったが、此処にいても彼の邪魔になるだけだろう。

 書庫を出ていく平太に続いて、朱華も退室しようとする。──が、一度だけ振り返って和比古に告げる。


「和比古君。いくら興味深いものが見つかったとしても、それをこの屋敷から持ち出してはいけないよ。持ち主やその関係者を怒らせてしまうからね」

「……? まあ、頭には入れておいてやる」


 朱華の忠告を和比古はよくわかっていないようだったが、一先ず聞いてはくれたらしい。

 朱華は少し安堵した表情を浮かべてから、今度こそ書庫を後にした。

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