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 特にしたいこともなくなり、取り残されてしまった朱華は一先ず屋敷をぶらぶらと歩き回ることにした。もしかしたら何か出てくるかもしれない、という気持ちが全くない訳ではなかったが、いつまでも同じところに留まっているのもどうかと思ったのだ。

 屋敷には至るところに血痕らしきものが飛び散っていたが、何処もかしこも血まみれ──という訳ではなく、飛んでいる血痕には差異があった。飛び散り方が酷い場所は、多くの人が使用していたということなのだろう。

 改めて見回してみれば、熾野宮邸は見事な造りをしていた。数十人は暮らせても可笑しくはない。

 一体、どれほどの人間が此処で暮らしていたのだろうか。朱華は過去の幻影に思いを馳せる。

熾野宮の人間の中で何が起こっていたのかはわからない。他者の心の内など、わかるはずもない。自分が目に出来るのは、廃墟になってしまった熾野宮邸だけだ。

 朱華は近くに縁側を見つけて、休憩がてら其処に座り込んだ。幸いなことに、縁側はそれほど汚れてはいなかった。


「……虫の音ひとつ聞こえないとはね」


 熾野宮邸にたどり着いてからというもの、鳥や虫の鳴き声がひとつも聞こえない。山歩きをしていた時には、喧しいくらいに賑やかだったというのに。

 創作活動の助けになるような、情緒ある体験が出来るかもしれないと思っていたが、この調子では芳しい結果は得られなさそうだ。朱華は少し後悔する。

 この熾野宮邸では、不思議な程に創作意欲がわき上がって来ない。いつもならば、自然に触れる折に歌のひとつでも思い付くものなのに。熾野宮邸で起こったという惨劇を思い浮かべて、心が無意識のうちに閉じてしまっているのだろうか。


(この屋敷は何かが可笑しい)


 熾野宮邸の深部に入っておらずとも、どうしてか朱華にはそれがわかっていた。

 この屋敷は異常だ。常人を寄せ付けない何かがある。

 朱華は霊感がある方ではない──と自負している。今まで幽霊を見たことはないし、そういったものは怪談の中だけにあるものだ。少なくとも彼はそう考え続けていた。

 それなのに、この屋敷では気を抜くとすぐに寒気や怖気を感じる。ただ空気が変わっている、というだけではない。これは、確かな──。


「──殺意」


 ぞくり、と。

 朱華の背中が粟立つ。慌てて後ろを向いてみれば、其処には彼を此処まで案内した少女が立っていた。


「っ、な──」

「ね、お隣、座っても良い?」


 何だ、と朱華が口にする前に、少女の唇は動いていた。

 問いかけるような口振りではあるが、少女からは決して朱華に拒否させないという意思が表れていた。これには、朱華も首を縦に振るしかない。

 少女はありがとう、と他人事のように礼を述べてから、朱華の隣に座る。そして、何かを探るような目付きで彼の顔を見上げた。


「……ねぇ、あなた。良くないものを、感じているのでしょう?」

「……どうして、それが」

「わかるわよ。だってあなた、わかりやすいのですもの。あなたの考えていることなんて、知ろうと思えばすぐに知ることが出来る」

「……そうかい」


 気味の悪い少女だ、と朱華は思った。

 山中で出会った時は人懐っこかったが、真幌がこの屋敷を探索すると言い出してからというもの、得体の知れない不気味な気配を纏わせている。朱華たちのことを警戒している、というよりは、疎ましく思っているような雰囲気を少女は漂わせていた。

 この少女と長く関わってはいけない。朱華の本能はそう告げている。

 そんな朱華の思惑を知っているのかいないのか、少女は口角をつり上げる。それは微笑みなのだろうが、友好的な風には感じられない。


「そうだ、せっかくなのだから、あなたのお名前を教えて欲しいのだけれど……良いかしら?」

「……それは君にとって、何か利のあることなのかい」

「いいえ、ちっとも。ただ、呼び方がなければ不便だと思ったから聞いてみただけよ。そう警戒する必要はないわ。私は美代みよというの。美しき代で美代。ね、あなたのお名前は?」


 流れるように名乗ってから、美代は朱華の目を真っ直ぐに見据える。

 底の知れない瞳の持ち主。それが、朱華が美代に抱く現在の印象であった。

 美代の真っ黒な瞳の中には、酷く硬い表情をした朱華が映っている。だが、美代の瞳は揺らぐことなく、朱華の姿だけを捉えて離さない。朱華が答えるまで、きっと美代はそのまま動かないのだろう。


「……斯波朱華だ。これで満足かい」


 故に、朱華は名乗った。名乗る他なかった。それ以外の選択肢を、美代の眼差しは悉く潰していた。

 望む通りの答えを得られた美代は、嬉しそうに表情を綻ばせた。それは二十歳にも満たない少女が浮かべるにしては、天衣無縫に過ぎる笑みだった。


「嬉しいわ、とても嬉しい! 朱華、かぁ。うふふ、とても良いお名前ね!」

「……君が気に入ってくれたのなら、僕としても嬉しい限りだよ」

「あら、そう? その割に、あなたったら全然嬉しそうではないわよ?」


 顔を強張らせたままの朱華を揶揄うように、美代は覗き込んでくる。

 市松人形のように整った顔立ち。だが、それは作り物めいた無機質さを帯びており、今の朱華にとっては警戒すべき対象としてしか見ることが出来ない。


「……君が縁起でもないことを言うからだろう」


 それゆえに、朱華は美代から目を逸らした。これ以上、この黒曜石の瞳に見つめられていたくはなかった。

 美代は少しの間、ぱちぱちと瞬きをする。そして、くすりと密やかに笑む。


「この屋敷には良くない空気が漂っている……という話? 朱華ったら、怖がりさんなのね」

「そりゃ、誰だって怖がるに決まっているだろう。人気のない山中の屋敷、しかもかつて惨劇が繰り広げられたというじゃないか。望まなくとも嫌なものを感じてしまうものだと、僕は思うがね」

「朱華は想像力が豊かなのね。たしかに、この屋敷ではかつて良くないことがあったわ。たくさんの人が血を流して死んでいった、忌まれるべき地よ」


 美代は、まるで昔語りでもするかのような口調で話す。


「でもね、朱華。此処に亡霊はいないわ。私にはわかるの。此処で惨たらしく殺された者は、この地に残ってはいない。きっと、彼らの魂は此処ではない何処かに行ってしまったのよ」

「……此処の住人は皆、成仏したと。君はそう言いたいのかい?」

「何も其処までは言い切れないわ。だって、私は死後の世界を知らないのだもの。死した魂が何処へ行くのかなんて、人によって違うでしょう。私たちは皆同じ信仰を貫いているのではないのだから」


 そうでしょう、と美代は首をかしげる。朱華からの同意を求めているのだろう。

 朱華は美代の問いかけに答えることはなかった。代わりに、彼女へと聞き返す。


「では、この屋敷の殺意は何だ? 僕たちに害のあるものならば、どのようなものであれ放ってはおけないよ」

「さあ、其処までは私だって話せないわ。私はあなたたちの味方ではないの。倒れていた子は可哀想だから助けてあげたけれど、所詮はそれきりよ。出来ることなら、余所者には速やかに帰って欲しいところだわ」


 つんと突き放すように美代は言う。


「この地が求めているのは、この屋敷の持ち主たる人間だけ。それ以外の人間なんて、邪魔なだけに決まっているわ。そもそも、外からの人間にはろくな者がいないのよ。私は熾野宮とは全く関係がないけれど、そういった連中のことは気に食わないわ。一刻も早く出ていって欲しいところよ」

「……ならば、この屋敷の持ち主が連れてきた人間はどうなるのだい? 今、熾野宮邸は熾野宮家の人間のものではない。僕は不本意ながらこの屋敷にやって来たけれど、熾野宮邸の持ち主の血を引く者──千世ヶ辻の近永家の親類の者は、熾野宮邸の探索に乗り気のようだよ。そんな人間をも、熾野宮邸は追い返そうとするのかい?」

「ええ、するでしょうね。余所者ならば尚更、この地に足を踏み入れさせたくはないことでしょう。この地は余所者に荒らされ続けてきた。貪欲な略奪者たちにね。また同じように略奪するというのなら、彼らには相応の報いが訪れることでしょう」


 冷たく言い放ってから、美代はおもむろに立ち上がる。薄い色合いの袿がふわりと揺れた。


「二度は言わないわ。余所者は、此処で余計なことをしない方が良い。何を求めているかは知らないけれど、忌むべき地に立ち入ってはろくな目に遭わないわよ」


 朱華が言葉を次ぐ前に、美代の姿はまたしても消え去っていた。足音も、痕跡もないままに。

 自分はまやかしを見ていたのだろうか。朱華は己の頬をつねる。鈍い痛みが訪れたことから、これは夢でないのだとわかった。


(まるで警告だ)


 美代の言葉を思い出しながら、朱華は一人思案する。

 この屋敷に亡霊はいない、と美代は口にしていた。ならば、何が自分たちの来訪を疎むのだろうか。

 熾野宮の者が此処に住居を構えてから、武家の墓荒らしはなくなり、生首が里に転がることもなくなったという。武家の呪いはなくなったと見て良いだろう。

 そして、熾野宮家もまた滅びた。彼らの霊魂はこの地にあらず、何処か遠いところへ飛び去ったか、この世から消えてしまったかのどちらかだ。ならば、この地への来訪者を拒むモノはうないようなものではないか。


「斯波朱華」


 一人で考えていたところ、急に背後から声をかけられた。朱華は慌てて振り返る。

 見れば、其処にはしかめっ面をした背の高い男が立っていた。言うまでもなく、真幌の従者である雪乃丞である。


「どうしたのだい、雪乃丞君。真幌君はいっしょではないのかい」

「真幌様は別室でお待ちだ。皆を集めて重要なお話しをなさるという。残っているのは貴様だけだ、付いてこい」


 相変わらずのお堅い口調で言いたいことを言ってから、雪乃丞は朱華をぎろりと睨む。早く立ち上がれということなのだろう。

 彼の命令じみた頼みを断ったところで、自分には何の利もない。朱華はわかった、と短く答えて、雪乃丞と共に真幌のもとへ向かうべく立ち上がった。

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