二 熾野宮邸

1

「解せぬ! 全くもって解せぬ!」


 まだ太陽が顔を出して間もない時間帯。千世ヶ辻の山中に、朗々とした声がこだました。


「おい、五月蝿いぞ。騙されたのは皆同じだ。お前が叫んだところでどうにもならない」

「騙された、だなんて……酷い言い方をするのだね、和比古。ボクはただ、手付かずのお屋敷をどうにかしたいだけなのに……」

「富ノ森殿、真幌様に無礼ではないのか!」

「いや、俺はお前を慰めようとだな……!」


 雪乃丞もまた、真幌から熾野宮邸について知らされていなかった。それゆえに、朝から解せぬ解せぬと繰り返していたが、真幌を恨んではいないようだ。

 そんな彼に同情しようとしたところで、真幌様を貶すなど言語道断と逆に叱り付けられる始末である。理不尽だ、と和比古はぷりぷりご立腹であった。彼にだけは言われたくない言葉であろうが、今はそういった指摘はしないでおくのが賢明である。

 ぎゃんぎゃんと騒いでいる良家の子息たちを前に、朱華は汗を拭いながら歩いていた。隣には和比古の荷物を持たされた平太が、時折よろめきながら歩を進めている。


「平太君、大丈夫かい? もう片方のお荷物も僕が持とうか?」

「い、いえ……! 私は、旦那様の従者でございますので……!」


 和比古が諸々の荷物を詰め込んだ木製の鞄二つは、細身で小柄な平太が持つにしてはそこそこの重量があった。

 最初は両手に鞄を持っていた平太だったが、その重さからどんどん遅れを取っていった。それを見かねた朱華が片方の鞄を持つことを提案して、今に至るという訳だ。

 筆を持ち机に向かうことの多い朱華ではあるが、こう見えて力仕事も苦手ではない。木製の鞄二つを持つことも苦ではないが、それは平太が許してくれなかった。従者たるもの、任された仕事は己の力で遂行したいようだ。

 しかし、平太は明らかに無理をしているように見える。昨日はよく眠れなかったのか、顔色だって悪い。

 下手すれば倒れてしまうのではないか。そう思わせる程に、平太は疲労困憊していた。医術の心得に疎い朱華も、これはさすがに心配になってくる。


(先方の者たちは、熾野宮邸に向かうことで気が一杯か。せめて己の従者くらいは見ていて欲しいものだがね)


 平太をそっちのけで先を行く和比古を、朱華は嘆かわしく思う。これでは和比古が家の跡を継いだところで、使用人たちから一斉に反感を買いそうでならない。もう買っているのかもしれないが。

 何はともあれ、このままでは平太が参ってしまう。朱華はすぅ、と息を吸ってから先方の三人に向けて声を上げる。


「三人とも、少し待ってくれないか! 先程から休憩もなしに歩き続けて、倒れたらどうするのだい。そろそろ一休みしようじゃないか」

「駄目だよ」


 真っ先に反論してくるのは和比古かと思っていた朱華だが、誰よりも早く振り返ったのは真幌だった。


「地図によれば、熾野宮邸までもう少しなんだ。休むのは熾野宮邸に到着してからで良い」

「しかし、このままでは」

「歩けないのなら、先に休んでおけば良いだろう。ボクは急いでいるんだ。休んでいる暇などないんだよ」

「真幌様のおっしゃる通りだ。この程度の山道で消耗するなど、軟弱にも程がある。貴様らの足並みに揃えていれば、日が暮れてしまうぞ」


 いつになく冷徹な眼差しの真幌と、それに同意する雪乃丞。そして、此方にちらりとも視線を送らない和比古。

 誰も、朱華や平太のことなど見てはいない。彼らは自分たちだけが熾野宮邸に到着出来れば良いと思っているのだ。

 何と嘆かわしいことか。朱華は唇を噛む。身分というものは少なからず人間性に影響を与えるのだと理解はしていたが、こうもまざまざと目の当たりにさせられると怒りを通り越して怖気おぞけすら覚える。


「平太君。もう少し、もう少し頑張ろう。この辺りは空気が綺麗だから、きっと美味しい湧水や、澄みきった清流があるかもしれない。熾野宮邸に到着したら、君の主人や真幌君に休憩を取れないかと掛け合ってみよう。だからあと少し、辛抱してくれ」


 今にも倒れてしまいそうな平太の背中を、朱華は優しく擦る。平太はもう話す余裕もないのか、小さくうなずくだけだった。

 それから、一行は黙々と山中を進んだ。

 近永の屋敷ではにこやかな言動の持ち主だった真幌は、唇を真一文字に引き結び、始終険しい表情をしていた。まるで違う人間のようだ、と朱華は眉を潜めた。

 彼の従者である雪乃丞は、訝しく思わないのだろうか。朱華はそう考えようとして、すぐにやめた。

 忠誠心の深いあの従者は、何があろうと真幌に付いていくことだろう。今だって、雪乃丞は先頭を切って歩いていく真幌に従って黙々と足を動かしている。此方を振り返る気などなさそうだ。

 いっそ雨でも降ってしまえば良いのに、と朱華は胸中で独りごちた。野分のような激しい雨は御免だが、しとしとと降る雨であれば慈雨ともなり得る。

 木々で太陽光が遮られているからと言っても、暑いことに変わりはない。身体中の水分は次第に奪い取られていく。

 時間が経てば経つ程、太陽光は厳しくなっていく。出来れば太陽が南に昇りきる前に熾野宮邸へ到着したいものだった。


「……平太君?」


 一人で物思いに耽っていた朱華は、ふと隣を歩いていた平太の姿がないことに気付いた。

 慌てて後方を振り返る。しかし、其処には歩いてきた道があるだけだった。


「皆、平太君が──」


 朱華は前を歩く三人に、平太がいないことを伝えようとする。しかし、今度は誰も振り返ることはなかった。

 いくら何でも、これはあんまりだ。朱華は奥歯を噛み締めて、ずんずんと大股で歩く。そして和比古の肩をがしりと掴んだ。


「和比古君! 平太君……君のところの従者がはぐれてしまったと言っているんだ! 話くらいは聞いたらどうなんだい!」

「下々の民ごときが、この俺の身体に軽々しく触れるな! 汚らわしいッ!」


 和比古の肩を掴んだ朱華の手は、凄まじい勢いで振り払われた。振り返った和比古の顔は、苛立ちに歪んでいる。

 ぴしり、と朱華の中の何かにひびが入った。穏やかな文化人であろうと努めていたが、こればかりは我慢がならない。

 朱華は振り払われた手を直ぐ様伸ばすと、和比古の胸ぐらを掴んで持ち上げた。決して上背の低くない和比古の爪先が、地を離れて虚しく空を蹴る。


「が、はっ……! な、何をする……!」

「貴様、己が立場を少しは弁えたまえよ」


 苦しげに咳き込み、朱華を睨み付けようとする和比古。しかし、朱華は怯む様子を微塵も見せなかった。むしろ、眉をつり上げ、目を見開いて、和比古を叱責する。


「従者の体調管理は主人の仕事だろうに、従者を放り出して先行するとは言語道断! 貴様は従者を使い捨ての駒のひとつとでも思っているようだが、あれもまた一人の人間だということを忘れるな! 貴様が主人である以上、従者の保護責任は貴様にあるのだからな!」

「お、お前には関係ないだろう……!」

「いいや、大いにあるとも。あの従者がこの山で命を落としたのなら、それは彼に目を向けなかった貴様の責任だ。貴様の軽率な行動が、人の命を奪うのだ! 人の上に立つとは何たるかを知らぬままに、主人の位に座していられると思うな!」


 切り裂くような朱華の怒号に、和比古は身を震わせた。彼の目は涙に潤んでいる。

 ぽたり、ぽたり、と。地面に水滴が染み込んでいく。和比古が失禁したのだということを、朱華は瞬時に理解する。そして、慌てて彼から手を離した。


(やってしまった……!)


 いくら相手が悪いからといっても、此処まで怯えさせるつもりはなかった。和比古のような男ならば、睨み返してくるくらいの気概を持ち合わせていると思っていたのだ。

 良家の子息に暴行を働き、しかも失禁させたとなれば、朱華はどうなるか知れない。先程まで憤怒に赤く染めていた彼の顔は、今や真っ青になっていた。


「……話は終わった?」


 呆然と座り込む和比古の後ろから、驚く程冷えきった声が降りかかる。

 そちらに視線を向けてみれば、全くの無表情で立つ真幌と、彼に付き従う雪乃丞の姿があった。


「こんなところで揉めている場合じゃないって、お前たちもわかっているよね? 大の男がそのように尿を垂れ流し、怒号を上げてみっともない。此処に何をしに来たのか、たった一日で忘れてしまったのかな?」

「……っ、すまない、真幌君。しかし」

「言い訳はいらないんだよ。これ以上ボクの邪魔をしてくれるなと言っているんだ。次に揉め事を起こしたのなら、何処であろうと置いていくからね。それが嫌ならおとなしく付いてくることだ」


 それだけ言うと、真幌はふいと顔を背けて再び歩き出した。雪乃丞は何も言わずに真幌へ付いていく。

 平太のことは気がかりだが、此処で立ち止まろうものなら本当に置き去りにされてしまう。そうなれば、平太がどうこうと言っている場合ではなくなる。

 朱華は胸中で平太に謝罪してから、真幌たちの背中を追いかける。後ろから、和比古のものと思われる盛大な舌打ちが聞こえたが、朱華は聞こえないふりをして歩を進めた。

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