第1話「不思議な人」


 いつもより遅い目覚めに慌てて起きた。

 天気のことなんて、気にする余裕すらなくて。

 今日も晴れると、心のどこかで思っていた――だから、空が泣くまで気づけなかった。



「……雨、だったんだ」



 冷たい水滴が激しく地面に落ちる。

 ザアザア、とリズムよく刻む天の恵み。


 この音に身体がほぐれていく気がした。

 それに気づくと、よくわかる。


 無意識に緊張していたんだ、と。



「……」



 カバンをがさごそとかき回してみても、お目当てのものが見つからない。


 最近使うことがなくて放置されていたそれは、色んなものを取り出しているうちに、奥へと追いやられていたらしい。少し時間をかければ、折りたたみ傘が見つかった。


 バサッと開いて、私にとって優しい雨音の中せかいへ入っていく。



「……ふふっ」



 ザアザアという音にボタボタ、と鈍くて少し低い音が加わる。規則正しそうで不規則なリズムがワクワクする。

 ……でも、雨の日を嫌う人は多い。


 低気圧のせいで頭痛を起こす人や単純に濡れるのが嫌な人、憂鬱な気分になる人。

 そんな人がたくさんいる。


 だから、たぶん、きっと。

 多くの人と分かり合えることは、ない、気がする。

 


 西門を出てすぐ右に曲がると長々と続く道路。その先にある人気のない寂れた公園へと慣れた足は勝手に進んだ。


 西門は最寄り駅から遠い。

 ぐるっと大学を半周することになるから遠回りだけれど、私にはちょうどよかった。


 そうは言っても、じわり、とパンプスに滲む感覚が気持ち悪い。

 一歩、また一歩と歩くたびに広がる不快感に足を速めれば、紫陽花の軍団が見えてきた。


 空から落ちる雫を受ける紫陽花の葉は、喜んでいるように見える。きっと、久しぶりの恵みだからかもしれない。

 この子たちに出会えば、公園はもうすぐそこだ。



「ふふふっ」



 雨にも負けない女性の嬉々とした声が、聞こえてくる。

 いわくつきの公園、と言われていて、なかなか人が来ないスポットなのに、人がいる。


 珍しくて、ひょい、と木々の間から覗き込んだ。



「待ってくれよ」

「ふふっ、待たない」



 楽しげに白いワンピースの裾を揺らす女性に手を伸ばして、追いかけている男性の姿が見える。

 優しい雨音、とは言ったけれど、傘を差さなければ、びしょ濡れになる雨の中を。


 傘もささずに濡れ鼠になって。本気じゃない、戯れの追いかけっこをするカップルがいる――なんて思わなかったから、びっくりした。


 彼らがどうやって終わらせるのか、気になってしまって。パンプスの中が洪水になっていても、足を動かす気にはなれなかった。

 けれど、そんなに時間もかからずに追いかけっこは終わる。


 ずっと、くうを掴んでいた男性の手は彼女の手首を掴んで、後ろから抱きしめていた。

 少し残念そうに笑っている女性は彼に身を預けながらも、抱きしめられている手に手を重ねていて。男性もまた頬をほんのり赤らめて笑っていた。


 彼女たちの思いが繋がっているように、見えてたからかもしれない。

 知り合いでも何でもないのに、私までほっこりしてきた。


 目にした光景に満足して、水を含んで重くなった足を上げようとした瞬間、目を疑った。とても幸せそうに微笑んでいた二人が、消えた。


 跡形もなく、忽然と、消えてしまった。

 先ほどの温かい気持ちは一気に冷めて、ドクンッ、と心臓が強く跳ねる。普通の人間が消えるはずがない、そんなことあり得るはずがない。



(え、幽――……)



 直感が、教えてくれるけれど、信じ難くて、頭を横に振った。

 強く頭を振ったせいでクラッとして、地面が歪む。こんなところで、こんなタイミングで倒れる訳にはいかない、と冷静な私が警告する。


 目をこすって、もう一度、先ほどまでいたはずのカップルを見ようとした。けれど、やっぱり、彼らは、いない。



(っ、待って、待って待って待って……落ち着くのよ、満月…………って、幽霊は見たことないんだけど!)



 きっと、非現実なものを見てしまったせいだ。背筋がゾワッとして、全身、鳥肌が立った。

 鼓動は落ち着かなくて、早まるばかり。



「…………あれ?」



 見間違い、なんてことないかな、と。

 もう一度、勇気を振りしぼって、視線を戻せば、自然と目が大きく開かれた。


 女性が立っていた場所に、追いかけっこしていた男性とは違う、別の男性の姿。

 惹き込まれそうなほど妖しく、深みのある真紅の瞳が黒髪の隙間から、見えた。



「――……」



 天を仰いで、何かを呟いている。

 さすがに距離が遠いから何を言っているのかは、全く聞こえないし、分からない。


 とても神秘的に見えて、息を飲んだ。



「綺麗……」



 この時の私はあることに気づくことすらできなくて。

 雨に打たれてる姿が儚げで、ただ、目を奪われていた。


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