第29話 ブックマン④

風太ふうた君、グリモアの表紙を見てください。読めますか?」


 促されるままざらつく表紙を見つめた。これまで日本語以外に触れたことのない風太は、当然ヒエログリフなど読めるはずはなかった。


 が、その謎めいた文字を目でなぞると、本から語りかけてくるように言葉が頭に入ってきた。


「……たぶに坐す多々良水たたらみず


 表紙に書いてあるタイトルを口にすると、風太の背後に気配が立ち昇った。振り向くと、異形が静かに佇んでいる。


 鼻から上は【双石そうこく】の面影が残る顔があるのだが、それより下は黒いタールのようなもので覆われていた。胴は水に絵の具を垂らしたように闇が渦巻いて幾重にも重なり、胴から切り離されて浮遊する4本の手と2本の足もやはり黒かった。


「すんげえ姿だなーおい」


 顕現していた頃の姿からかけ離れた異形に、風太は少なからず驚いた。しかし、グリモア化を通して深く【双石】を感じた風太にとって、目の前の異形はやはり【双石】そのものだった。


真名マナ――神の本質を捉えた真実の名とでも言いましょうか。これは真名を呼ばれた【双石】本来の姿なんです」


「【双石】本来の姿ねえ……」

ジンと真名。この2つが揃うことで刹那の時間ではありますが、情報体となった神は本来の姿を取り戻すんです」


 茄子なすの説明は間違ってはいないが正しくない。正確には、ジンを操ることのできるヒュームが真名を唱えたとき、神はグリモアから解き放たれて本来の姿を現すのだ。


 肉体にも精神にも信仰という活動が根づいているヒュームは、内在的に神と繋がりやすい。そういうわけで身体的な強度はナノンとリュカオンより大きく劣るが、ジンの扱いに関してはヒューム以上に適した者はいないのだ。


「いつぶりだろうね。お前のその姿は」


 白狩背を出てからこれまで、ほとんど言葉を発さなかったクロが喉を鳴らした。


「……」


 【双石】は無言で風太の足元に顔を向けた。その表情からは感情を汲み取れないが、確かにクロを認識しているようだ。


「わしは今でも枷なぞとは思っておらんからな」


 グリモア化によってクロと【双石】の間で成り立っていた合祀は消えたらしい。だが、少し軽くなった体をむしろ寂しく思うクロだった。


「……」


 相変わらず無愛想な【双石】だったが、ひとつ大きく頷いた。


「ずいぶんと無口になったもんだなぁ、こら」


 風太はかつての大入道に向き合った。もし【双石】と再び言葉を交わせたら言ってやりたいことが山ほどあった。


(かっこつけて俺を庇ったくせによぉ、やられてんじゃねえっつーの。何が不滅だよ。俺さえ生きてりゃいいだと? 自分のこと押しつけてんじゃねえ)


 グリモア化の最中でさえ次から次に憎まれ口が溢れてきたが、【双石】を深く知り、取り戻した今は、どこか爽やかで温かな心持ちだった。


「あんがとよ」


 風太がこざっぱりした様子で礼を言うと、【双石】は驚いたように風太に顔を向けて固まった。異形の神は嫌味や文句こそ覚悟していたが、お礼を言われるとは思っていなかった。


「なんだよ。文句あんのかよ」


 言葉を介さずとも、風太は【双石】が何を思っているのか手に取るようにわかった。


「そんならよぉ」


 お望み通り口汚く罵ってやろうか。【双石】の口は黒いタールに隠されていつもの小言を取り上げられているらしいし、これは願ってもいないチャンスだった。まだ【双石】が大入道の姿だった頃、一度でいいからサンドバッグにしてやりたいと思っていた。


 風太の顔に邪悪な笑みが広がっていく。大丈夫、なにも本気で罵詈雑言を浴びせてやろうというわけじゃない。戯れの範疇だ。


 しかしよからぬ何かを感じ取った【双石】は呆れたという風に首を振り、天井から注ぐ光のプリズムに姿を溶かしていった。


 消えた光の帯を呆気に取られて見つめていたが、やがてハハと笑って茄子を振り向いた。


「あのやろー、逃げやがった」

「ええ、逃げちゃいましたね」


 蓬莱とこよに住んでいるというだけで、こうも人と神の垣根なく接することができるのだろうか。


 茄子は風太の類まれな資質に、少ながらず驚いた。しかしそれ以上に嬉しかった。ブックマンとしての初仕事を終え、その深奥に降り立ってなお屈託なく【双石】と接する風太につられ、茄子も朗らかに笑んだ。


「僕はぜひキミに神の深くに触れてほしかった。キミが感じたように、里でひとり暮らす孤独も決して無駄じゃない。神を失うことも、それ自体に囚われすぎてはいけません。大きな流れの中で僕たちは繋がっている」


 茄子もグリモア化を通して自分と世界の繋がりを認識し、孤独から救われたひとりだった。


「茄子さんの言いたいこたぁわかるぜ。奪われちまっても、それでも【磐戸いわど】たちは白狩背の一部っつーこったろ。これから紡いでくもんに乗っかってる。でもな、やっぱあいつらも取り返してやりてえ。センセーの手に置いたままにはしたくねえんだわ」


 風太がここに来た理由は2つある。ひとつは【双石】と【夢見むけん】を自分の手でグリモアにするため。そしてもうひとつは黄昏たそがれから奪われたシジルを取り戻すためだ。


「そのためにゃなんだってするぜえ。俺も戦える」


 【双石】をグリモア化した今、クロとの合祀によるジンの供給を頼らなくても、グリモアを駆使して戦うことができるようになった。扱えるかどうかは別の話ではあるが、少なくともクロに負担をかけない形で武器を手に入れたのだ。


 【双石】と【夢見】を自分の武器にする。葛藤はあったが、風太のエゴという名の決意が選び取った白狩背のその未来さきだった。もうこれまで通りの生活なんて送れない。ならばそこから自分の望む方向へ突き進むのみだ。


 白狩背しらかせに閉じこもっているうちに、いつの間にか青年の言動は衰退を受け入れ、寄り添うという思考理念に囚われてしまっていた。


 滅びゆく里を思うあまり、風太自身も終末に絡め取られていたと言っていい。しかし神性の力に触れたことで現実に抗う意志が宿り、その意志を具現化するという思考の突破を果たした。


 ようするに、図らずしもセンセーに【夢見】をぶっ放したことで風太は吹っ切れたのだった。


 だから風太は戦いを望む。例えノーを突きつけられてもわがままを貫き通す覚悟だった。


「実はですね、今キミの採用願いを人事の方に出していて」

「ん?」


 そんな風太の思いを知ってか知らずか茄子は唐突に話を切り出した。もちろん風太は初耳だ。


「採用された暁には僕の班に配属されるよう、言い含めています」

「んん?」

「え! そうなんですか!」


 風太だけでなく、文音あやねも聞かされていなかったらしい。


「だってキミ、グリモア作れちゃうんだもの。僕が言うのもなんですが、ブックマンて貴重な人材なんですよ」


 ジンの扱いに長けたヒュームであっても望んでなれるものではない。神性なものを高次元で認識する資質がないと、その本質を捉えて情報体に落とし込むことはできない。言ってしまえば生まれ持ってのものなのだ。


「だからフリーのブックマンなんて危ないですよー。黄昏みたいな組織は大小様々、巷に溢れてますからね。力尽くで組織に入れるなんて当たり前にあります」


 それならモノリスに属してしまえばいい。給料をもらいながらジンの扱いや戦い方を学ぶことができるし、気に食わないときは辞めたっていい。不埒な輩に対抗できる術を身につけたあとならば、今よりは安心して生活を送れるだろう。


 それがブックマン茄子の言い分だった。


「何より、白狩背に限らず様々な神に出会えます。危険もつきまといますがね」


 キミは守られる側より、守る側の方が似合ってますよ。消えゆく神とその背景にあった人々の想いをキミが守るんです。


「んー、今他んことはわからねえ。とにかくよ、モノリスに入りゃどーなんだよ? あいつら奪い返すの手伝ってくれんのか?」


「そうですね、当面僕たちはたちばなたちの動向を追うことになるでしょう。白狩背のアーカイブ化、まだ途中ですしね」


 先のことはわからないが、今の自分の目的には合致しているらしい。


「んじゃま、とりあえずはよろしく頼むわ」


 風太は茄子に向かって軽く頷いた。茄子も満足そうに笑みを返す。


「場所を移しましょう。これからのことを話さなければ」

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