第2章 転

 先生の家に初めて行ったのは、目が覚めてから三日後だった。本当はその日のうちに行く予定だったのだが、飛び降りによる全身打撲で体中が痛く、その治療に時間がかかってしまったのだ。その間にペーパーテストを行い、解離性健忘であることが正式に判明した。勿論覚悟はしていたが、改めて診断されてしまうとショックも大きかった。辛い現実だが、受け止めて解決の道を探るしかない。


 看護師さんにも準備や手続きを手伝ってもらって先生の車に乗った。先生の家は病院から車で二十分のところにあった。少し遠いのではないかと言うと、このドライブの時間が好きだから問題はないと返された。確かに病院でずっと働いている先生にとって、外の景色は私が思っているよりずっと大切なものなのだろう。


「着いたよ」


 と言って現れた家は、一人暮らしにしては豪華すぎる一軒家だった。

 中に入ると余計にそう感じた。天井は吹き抜け式で高く、高級そうなソファやキッチンがあり、部屋も三・四部屋はありそうである。


「先生、一人暮らしにしては家が豪華すぎませんか」


 すると先生は少し寂しそうに笑ってから訳を語ってくれた。


「実はもともと、この家には三歳下の妹と住んでたんだ。でも十五年前に死んだ。……自殺だった。まさか中学三年生の妹が自殺をするほど思い詰めていたなんて思いもしなかった。自殺の理由はいじめだった。学校を問い詰めたら怯えたような顔をして全部吐いたよ。その内容はあまりにも酷かった。……妹はとても優しい子だった。そして彼女はその優しさに付け込まれていじめられた。私の家は父母が医者で、海外に行って働いていることが多かった。だから私と妹の二人でこの家に住んでいた。それが妹の同級生たちにとっては理解しがたかったのだろう。ブラコンだとからかわれ、それに対して小さく笑っただけの妹の反応を面白くないと思ったそいつらの嫌がらせはどんどんエスカレートし、妹を殺した。こんなにもいじめの内容が明白なのに学校は何の対応もしなかったんだって、怒りや憎しみも強く湧いたよ。その理由は単純だった。いじめていた奴らが、政治家やら弁護士やらのボンボンだったからさ。そのせいで、そんなことのせいで、学校は奴らに強く言いたくても言えなかったらしい。そんなむごいいじめと学校の体裁によって妹は殺された。私にはそれが許せなかった。何であんなにも優しかった妹が死ななければならなかったのか。今でも納得できないし、思い出すだけではらわたが煮えくり返る。でも一生相手を憎んで過ごすのも私には辛かった。そう思って、当時十八歳だった私は精神科医を目指し、死ぬ気で勉強して医学部に入った。そして五年間の臨床経験を経てやっと精神科で指定医として働けるようになり、今に至る。長い道のりだったし辛い思いもしたけど、当時の渚沙の辛さと比べたらどうってことないって思えたよ。実際、この職に就いてから四年経つけど、思っていたより妹のような精神状態にまで追い込まれたり、渚沙ちゃんみたいに入院したりする人も多くて驚いているよ。日本の自殺率は世界で十三位と習ったことを今、毎日嫌でも実感するよ。私は、そんな人たちを一人でも多く救いたい。それだけだよ。

 ……って、長く語りすぎてしまったね。こんな暗い話に付き合わせてしまってすまない。渚沙ちゃんは妹の部屋を使ってくれ。でも十五年間その部屋をあまりいじってないから、気になるようなら別の部屋を使ってくれて構わないよ。色々とすまない」


 私は黙って頷く。


 話している間、先生はすごく辛そうだった。最愛の妹を亡くした先生。そして今、私はその先生によって助けられている。先生がこの職業に就いていなかったら今の私は路頭に迷っていたかもしれない。また自殺を図っていたかもしれない。そう考えると、先生が選んだ道は、先生の望んだとおりの結果を生んでいると思う。


 ……一つ気になったことがある。話の中で、一度だけ先生は「渚沙」と呼んだ人物だ。恐らくこの「渚沙」はきっと私ではない。誰のことだろう。先生の妹の名前だろうか。名前が同じなのは、偶然?


「すっかり遅くなってしまった。夜ご飯にしようか」


 といって先生が冷蔵庫を開けたが中身はほぼ空だった。先生は苦笑して


「今日はカップ麺でいいかな」


 と言った。恐らく先生はまともな食事をとっていないのではないだろうか。こんなにも豪華なキッチンを所有しているのに、自炊をしている跡が全くと言っていいほどない。毎日インスタント食品かコンビニ弁当で済ませていたのだろう。……十五年間、ずっと。


 先生とカップ麺を食べ終えた後、私は風呂掃除をすることにした。先生は私がやるよと言っていたけれど、仕事で疲れている先生にやらせてしまうのは申し訳ないので引き受けた。

 お風呂も広く、ホテルのようだった。掃除するのが楽しい。お風呂掃除をしながら私は、ぼんやりと昔の記憶に思いを馳せた。と言っても何も覚えていないので、ほとんどは疑問形で終わってしまったけれど。私はどんな性格だったのだろう。家では?友達とはどんな会話をしていたのだろうか。中学生活はどのようなものだったのだろうか。……自殺当日はどんな思いだったのだろう。そんなことを考えながら風呂掃除と入浴を済ませた。

 先生がお風呂に入っている間、私は先生の妹の部屋を掃除することにした。しかしその前にやっておきたいことがあった。この部屋の隅から隅までを写真に収めることである。私がこの部屋の状態を崩さないように細心の注意を払って使っても、いつの間にかこの部屋は『私色』に染まってしまうと思う。そうなってからでは遅い。そう思って私はこの部屋の至る所を写真に収めながら掃除と自分の荷物の整理をした。勉強机の引き出しを写真に収めようと開いたとき、一冊のノートが目に留まった。まず驚いたのは彼女の名前である。


坂西渚沙。


 苗字こそ違うが、漢字まで同じだった。やはり先ほど先生が言っていた「渚沙」は聞き間違いではなかったのだ。渚沙という名前はあまり珍しくはないが、先生の妹の名前が渚沙であることに何か意味があるのではと考えてしまう。そして次に驚いたのはそのノートに書かれている内容だった。これはおそらく日記帳で、四月に中学三年生になってから、彼女が自殺によって亡くなるまでの約三か月間が記されていた。見ようか見まいか散々悩んだ末に少しだけ見ることにした。



四月八日(水)

今日から中三。仲のいいさっちゃんとクラスが離れてしまってショック。しかも追い打ちをかけるようにあまり好きじゃない慶太けいた君とクラスが一緒。この一年、うまく過ごせるか不安だな。でも、お兄ちゃんに心配はかけたくないから、早くお友達を作って楽しい学校生活にしたい。



 恐らくこの日は始業式だったのだろう。ここに登場している慶太という人物は、渚沙ちゃんをいじめ、そして死に追いやった主犯格であったことが、後に続く日記で分かった。読んでみると、四月までは楽しそうな内容ばかりが記されていた。……雲行きが怪しくなったのは五月からだった。



五月十二日(火)

今日、慶太君にお兄ちゃんと二人だけで住んでいることをからかわれた。何も分かってないのにブラコンだとか言われて悔しかったけど、言い返しても何にもならないと思って笑ってやり過ごした。お父さんとお母さん、早く帰って来ないかな。



 その一週間後から、彼女の悲劇が綴られていた。



五月十九日(火)

靴がないと思ったら、ごみ箱に捨てられていた。誰の仕業かは大体わかるけど。ごみ箱から靴を引っ張り出すと「汚え!」と叫ぶ慶太の声。悔しくて涙が出そうになった。でもここで泣いたらもっと笑われると思って、黙って靴を履いて帰った。慶太は面白くなさそうにしていた。



 この日から、渚沙ちゃんは「慶太君」ではなく「慶太」と書くようになった。本気で嫌いな存在になったのだろう。

少し飛んで六月の中旬。修学旅行が終わってから、いじめはさらにエスカレートしていた。



六月十七日(水)

修学旅行が終わった。修学旅行は修学旅行でつまらなかった。でもお兄ちゃんには楽しかったって言った。お兄ちゃんに心配かけるのは辛いから。昨日は修学旅行休みで、今日からまた学校。いじめはエスカレート。慶太を取り巻く奴らだけでなくクラスの全員が私を嫌ってくる。女子まで。ぶつかってきたり、無視したり。今日はバケツの水をかけられた。体操着で帰ったらお兄ちゃんが心配していたので、体育が六時間目にあって、着替えるのが面倒だったって伝えた。信じてもらえたかな。辛い。生きていたくない。何で私なの?何にも悪いことしてないのに。お父さんとお母さんはお医者さんで、海外で忙しくて、だからお兄ちゃんと二人暮らしなのに。何も知らないくせに。



 ……そのあとの内容を読めるほど、今の私は精神状態が良くなかった。しかし醜い好奇心にも勝てず、私は最後の日までページを飛ばす。



七月十七日(金)

もう、限界。私はこの世に別れを告げようと思う。もうすぐで夏休みとか、そんなことはどうでもいい。もう生きたくない。さようなら。お兄ちゃん。ごめんね。嘘ついててごめんね。でも、お兄ちゃんの悲しい顔を見たくなかったの。私が死んだら、お兄ちゃんはきっとすごく悲しむと思う。でも、もう耐えられないや。ごめんね。お兄ちゃん。大好き。

お父さん、お母さん。二人より先に死んじゃってごめんなさい。私はとんでもない親不孝者だね。でも、私が死を選んだのは決して二人のせいじゃないの。だから、どうか自分たちのせいだと思わないでほしいな。思わないか。自意識過剰でごめんね。お父さんもお母さんも大好き。

家族のみんなは本当に大好き。十五年間ありがとう。そして永遠に、さようなら。もし、私が生まれ変われたらまた会えるといいな。



 この日で日記は終わっていた。この日のページにも、そしてほかの日にも、涙でぬれた跡がいくつもあった。それが酷く悲しみを表していて、胸が締め付けられた。日記を読み終わった私は愕然がくぜんとしていた。そして、兄である先生の気持ちを思うとやるせなかった。二人とも、お互いを大事に、大切に思っていた。今もそうであると思う。だからこそ、相手を守るために自分を犠牲にしてしまったのだと思う。


 何故、良い人が報われない世の中なのだろう。何故、悪い人が平然とのさばれる世の中なのだろう。ふと私はそんなことを考えた。  


 そして、憎しみに駆られて行動をしなかった先生を心から尊敬した。私なら、憤慨して相手を殺してしまったかもしれない。その憎悪の気持ちを飲み込んで、渚沙ちゃんのように苦しんでいる人を助けようと努力する先生。私にはそのような生き方は到底できない気がする。そしてその弱さが、私自身が自殺を図った原因なのではないかとも思う。


「……もしかして、読んじゃった?」


 お風呂から上がった先生が、いつの間にか部屋に来ていた。


「ごめんなさい。許可も取らずに勝手に妹さんの日記を読んでしまって……。妹さんの部屋の全てを写真に残そうと思って引き出しを開けたら、この日記帳が目に入って、名前が同じだったことに驚いて、それで、中まで見てしまって……」


 言い訳をしている自分が酷く惨めで泣きたくなる。申し訳なさと自分の愚かさに気づかされ、合わせる顔がない。


「いや、中身を見たことは全く気にしてないよ。ごめんね。急に入ってきたりして。それに、妹の部屋を記録に残そうとしてくれてありがとう。……日記は全部読んだ?」

「かいつまんで……」

「そうか……。本当にごめんね。私が言っておけば、渚沙ちゃんにショックを与えることもなかったのに……。辛い思いをしたよね。渚沙ちゃん自身も自殺を図って記憶を失って辛いのに、さらに追い打ちをかけてしまった。本当に申し訳ない……」


 何故先生が謝るの?悪いのは私なのに。勝手に見た私が悪いのに。


「先生、ごめんなさい。先生のせいじゃない。ごめんなさい。ごめんなさい」


先生の優しさが私の良心に深くしみ込んで、私は我を忘れたように泣いた。



 ……三十分ほど泣いた後、泣き疲れて眠ってしまったらしい。起きたら朝になっていた。先生が、私が一人で寝るのは危険だと思って先生のベッドで一緒に寝たらしい。先生の優しさにまた涙が出そうだった。


「あ、目覚めた?おはよう。昨日はごめんね。それに、勝手に一緒のベッドで寝てしまって……。ただ、昨日の渚沙ちゃんの状態は一人で寝るには危険だったから」

「初日から迷惑をかけてしまって本当にすみません。ずっと傍に付いてもらって、本当に、本当にありがとうございました」

「今の精神状態はどう?気持ち悪いとかはない?」

「昨日よりは安定しています。ですが、若干の倦怠感があるんです。体調不良とはまた違う感じで……」

「そうか、何となく分かるよ。今日はゆっくりしよう。幸い私も今日は休みだからね。気晴らしに、どこか景色のいいところにでも行く?辛ければ無理しないでね」


 先生の誘いは嬉しかったが、今は体を動かすのも億劫だった。何もしたくない。感じるのは虚無感とそれに対する罪悪感だけ。このままではまた自殺をしてしまうのではないかとおぼろげに考える。本当にそうなってしまいそうで怖かった。


「すみません。今日は外に行けそうにありません」


力なく言う私を、先生は黙って、でも優しく見つめた。


「分かった。無理して行くのも逆効果だからね。今日は私の仕事内容を見ているのはどうかな?あいにく医者は休日でも学ぶことがたくさんあるんだ。今日は何も知識をつけようなんて思わなくていい。ただ眺めていればいいよ。今の渚沙ちゃんが一人で部屋にいるのは、渚沙ちゃんを壊すことになるからね」

「分かりました。何から何まですみません……。ありがとうございます」

「気にしないでくれ。それより朝ご飯にしようか。実はさっきまで朝食を作っていたんだ。あまりいい出来とは言えないけれど、味はそこそこだと思うよ」


 ああ。先生は私の昨日の発言を気にして朝食を作ったのだろうか。だめだ。何を言われても自分のせいだとしか思えなくなっている。先生を苦しめているのは自分のせい。優兄ちゃんや百合香、それにお父さんやお母さんを苦しめているのも私のせい。私が生きているから皆に迷惑をかけてしまう。それは、自分が傷つくよりももっと辛いことだった。


 息が苦しい。泣きたくもないのに涙がとめどなく溢れてくる。


もし、神様がいるのだとしたら、今ならこう願う。














私を殺してくださいと。

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