第13話 追憶(3)


「三回に渡って続けてきた記憶の講義も、今回で一旦の区切りだ」


 レイモン神官は、講義の最後に感慨深げに語り出した。


「人間の記憶は私の一番の関心事であり、できることなら記憶の研究ばかりしていたいが、それでは学問としての均衡を失うからね。次回からは医学に関する記録方法について話したいと思う」


 熱弁を振るった後の神官は、激しい運動のあとのように頬を紅潮させ、乱れた呼吸を整えるために数回深呼吸を繰り返した。


「すべての研究は繋がっているし、記録と記憶は密接に関連している。今まで話してきた言葉、音と聴覚、色と視覚、記憶。そして記録術によって、より発展的な医術が叶うことを理解してもらえれば嬉しいよ」


 記憶の講義はそれまでの主題に比べて、学生の関心を集めたようだ。レイモンが掲げる『記録医学』との結びつきが分かりやすかったこともあるだろう。ここ三回の講義は学生の入れ替わりが減ってきたように見える。


 マティアスは講義が終了し、自分の荷物をまとめたあとも座席に残った。人の少なくなった講堂でレイモン神官と目が合う。

 熱心な学生が数人、今日の講義についての質問をし終えて帰って行く。

 教材を抱えたレイモン神官は、ついに最後の一人になったマティアスに声をかけた。


「まあ、まずは水でも飲むかい?」





 以前この部屋を訪れた時と同じように、神官自ら水を注いでくれた。今回はレイモン自身のカップも用意され、二人は書類の重なった机の傍らで向かい合って椅子に座った。

 今日は廊下に通じるドアは閉じられている。


「うん。かなり調子が悪そうだ」

「はい、あまり、眠れていないのだと思います」


 一口だけ飲んだ水のカップを、机の端に置かせてもらう。

 マティアスの体調は緩やかに悪化していた。


「思います? 曖昧だね」

「横になって目を閉じて、寝ているような気がするのですが」

「眠りが浅い?」


 質問しながら、レイモン神官は用意していた紙にペンを走らせる。一番上にはマティアスの名前と日付。質問した内容と、マティアスが答えたことを書き留めていくが、当然走り書きだ。


「おそらく……それに、夢を見るんです。毎朝のように。今までほとんど夢なんか見なかったのに、急に」

「夢を見なかった?」


 レイモンがかすかに表情を歪めた。


「それは……あまり良くない状態だ」

「夢を見ないことが、ですか?」

「人は通常、眠れば夢を見る。睡眠の研究はまだまだ専門家が少ないが……バザクルに一人、睡眠をよく調べた研究者がいてね。信頼できる結果が出てきている」


 バザクル王国はシュアーディの隣国で、古くから学問が盛んなことで有名だ。


「夢を覚えていないことは誰しも経験があるが、君はもしかして、朝起きて夢を覚えていることの方が稀なのでは?」

「は、はい。その通りで……」


 マティアスは今までに見た夢の内容を話そうとして、喉がつかえて咽せてしまった。水を飲んだばかりなのに。


「ゆっくり話しなさい。息を止めない。吐いて。息を吐くことを意識するんだ」

「は、はい」


 レイモンの力強い声に、マティアスは少し冷静さを取り戻す。一言ずつ、きちんと息をするよう注意しながら話す。呼吸をするんだと思えば、ゆっくりだが言葉は出た。


「妙に鮮明で、ただ昔を思い出すような夢なのに、昔を思い出して、ボクが思ったのが――そうだったのか、と」


 我ながら支離滅裂なことを言っている。

 レイモン神官はそれでもマティアスの言葉をなるべくそのまま書き留めようとする。急いで書くので、文字と文字の間にもインクが伸びて繋がっている。


「思い出しただけなのに、知っていたことなのに、そうだったのかとは、どういうことでしょうか。自分のことなのに、まるで他人事で。それに記憶が……ボクは、幼い頃の記憶が、あまりないんです」

「記憶?」


 ペンが紙を掻く音が止まった。レイモン神官はペン先をインク壷にどっぷりと漬け、再び猛然と紙面に向かう。


 マティアスは一度深く息を吐いた。水を飲むのと同じで、息を吐くと心は落ち着く。少しだが頭も冴える。

 思っていた通り、レイモンは記憶の話に食いついた。生涯をかけて研究していると言うほどだ。きっとマティアスの話を聞きたがるし、彼は何か答えを持っていると確信している。


「ボクは七歳で今の家に引き取られましたが、その前後の記憶がほとんどありません。どうして養子になったのかも知らないし、家を移った日のことも思い出せません。しかもつい最近まで、それを気にも留めていなかった。おかしいでしょう?」


 オディロンと出会ったのはそれよりもっと前のことだ。それが五歳、養子になったのは七歳。いくら幼かったとしても、覚えていることが少なすぎる。


「これは、病なのでしょうか……治るのでしょうか」


 マティアスの問いかけのあと、しばしペンの音だけが部屋に響いた。レイモンは自分の書いた文字を追い、さらにいくつかの単語を書き足した。それからまたしばらく紙を睨んでから顔を上げた。


「考えうる可能性のひとつだが、幼少期に何か衝撃を受けた……事故や暴力、近しい人間の死。そういった原因があって、記憶を手放す人間は、珍しいことでもない」


 レイモン神官の声音は淡々としていた。彼は声を荒げることも、言葉に詰まることすらない。その動じなさを不気味と取るか、頼もしいと取るかは人による。

 マティアスは頼もしいと感じていた。

 冷静で的確。話に矛盾がない。分からないことは分からないと言う。だから彼と話す時は、マティアスもあまり感情的にならずに済むのだ。


「珍しくないのですか」

「正直、ありふれているよ。記憶を手放した本人には分からないから、巷に溢れていることに気付きにくいだけだ。誰しも大なり小なり、嫌なことを忘れ、悲しみを薄めて、時には幸福な思い出すら捨て去って生きている。ああ、君は今、そんなささいな事ではない、自分の悩みはもっと大きな事件だと思ったね?」


 思考を言い当てられ、マティアスは小さく肩を跳ねさせた。


「どうして、分かるのですか」

「数多の記録の蓄積のおかげさ。私はたくさんの患者を見てきた。そして記録を取った。その記録を並べてみると、およそ人間はみな同じような悩みを持ち、同じように考え、時に記憶を捨てたり、時に誇大させたりしている。異様に話を盛るホラ吹きがいるだろう? あれも人間の記憶の、ひとつの典型的な在り方なんだ。要するに思い込みだ。彼らは自分の言っていることを真実だと思い込んでいる。ホラ吹きは珍しくない。記憶を無くすのも、別段珍しくないんだよ」


 まるで書物と話しているような気分だ。しかし、だからこそ安心もする。


「今度は、自分だけじゃないのだと知って安心したね」

「はい」


 またも見事に言い当てられてしまった。

 まるで魔法のようだが、記録と統計によるものだと言われれば、マティアスは十分に納得ができた。納得できれば、それは信頼できる。相談する相手は、レイモン神官で正しかった。


「それも、ありがちなことさ。自分だけじゃないと知ると途端に気が楽になる。何故そう感じるのかはまだ解明できていないが、多くの人間がそう思うということまでは分かっている」


 マティアスはレイモンに倣って、感情をなるべく織り交ぜず、自分の中にある知識と情報に向き合うよう努めた。


「記憶を取り戻すことはできるのでしょうか?」

「ふむ。物忘れの症状を緩和する方法はあるが、忘れてしまった記憶を取り戻す方法は、私にもまだ分からない。しかし、君の場合は多少手がありそうだ。まず、失った記憶の時期が分かっている。はっきりと思い出せるかはともかく、何があったか調べることは容易い」

「調べる……」


 天啓を受けた気持ちだった。


「記録や、他人から聞いた情報がきっかけで何か思い出すかもしれない。そういうことは多いんだ」


 記憶をなくしていると自覚した時、それはもう絶対に戻ってこないかもしれないと、絶望すらした。

 自分の頭の中はスカスカの歯抜けで、それに気付きもせずに生きてきて、この先もまともに生きることはできないのではという、果てしない不安と焦燥。


「ガーランドには、各家に記録があります」

「それが一番いいだろうね。あれだろう、アルシェヴェシェ神殿が管理している、貴士族の生没記録」


 マティアスは深く頷く。

 伯爵の城のふもと、城壁内の街の中心部にあるアルシェヴェシェ神殿は、ガーランド一門代々の菩提だ。そこではどの家に、いつ、誰が生まれ、誰が死んだか。病気や怪我、その他さまざまな記録を取っている。


「私も一度見てみたかったんだが、研究目的では貸し出してくれなくてね。ありがとうマティアス君。君のおかげで貴重な資料が手に入るよ」





































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