第5話 違和(3)


 午後の医学の講義は、街の南側のドミティア神殿の講堂で行われる。教師がその神殿の神官なのだ。半年前にフォンフロワドに赴任してきて、先月から講義を行う新しい教授だ。

 南側とは、伯都の城壁の外側。小さな川を渡った先の街区を指す。つまり街のはずれだ。ゼブラノール邸のある城壁の中心部から歩いて三十分ほどの距離だ。


 春の昼の日差しは眩しく暖かいが、マティアスは足元の石畳ばかりを見ながら神殿に入った。

 お気に入りの赤い靴を履いてきたが、あまり気分は上がらない。

 講堂の席についたマティアスが小さくため息を吐くと、そんな憂鬱とは対極にある陽気な人物がズンズンと石造りの床を踏み鳴らしながら登場した。

 この神殿で教鞭を取るレイモン神官だ。


「やあやあ、学生諸君。今日も張り切って『記録医学』の講義を始めよう」


 痩せた小柄な男で、真っ白な法衣の上に濃い青色の肩掛けを垂らしている。肩掛けの色は神官の階級ごとに決まっているので、彼が高位の神官であることが一目で分かる。

 彼はその真っ黒な瞳で、広い講堂をギョロリと見渡した。


「ああ、初めての人がたくさんいるね。私の語る医学は、新しく、普遍的で、とても面白いから、存分に学んでくれたまえ」


 レイモン神官は大げさな身振り手振りで、法衣の袖や裾をバサバサと翻す。

 年はおそらく三十代の後半。私塾を開くには若いが、神殿を間借りして研究と講義をするという立場なら、このくらいの年齢の教授もいないわけではない。

 位が高いことからしても優秀な人物であることは確かだが、いささか振る舞いが奇抜だ。質素、清貧、寡黙をよしとする神官とは思えない、弁論士か、芸人一座の司会のように、躍動感たっぷりの講義を展開していく。


「さて、今日は人間の目について話をしよう。己の目で見たものしか信じない、なんて言う人がいるが、これを聞いたら、もう自分の目で見たものも信じられなくなるかもしれないね!」


 初めてこの講義に来た若者たちから、明らかに動揺した空気が発せられた。なんだこの教師は、と言いたいのだろう。

 分かる。マティアスも初めて講義に来た日、唖然とするあまり最初から最後まで口が開きっぱなしになっていた。


「そこの君。これは何色に見える?」


 神官は教壇から一枚の布を取って掲げた。

 突然指名された学生は、狼狽えながらも「緑色です」と答えた。顔を覆う程度の大きさの布は、少し黄味がかったうすい緑色だ。


「そうだね。私にも緑色に見える。今はね」


 レイモン神官は講堂の隅から木箱を持ってきた。そう大きくはない、両手で抱えられるほどのもので、その中に持っていた布を放り込む。さらに箱を教壇の足元、窓の反対側の影の中に置いた。


「では、今度はそっちの君。そう、金髪の君だよ。箱の中の布は何色に見える? 今、君の目に映っている色だ。さっき日の光の下で緑色に見えていたからといって、果たして同じに見えるかな?」


 神官の視線を辿って、マティアスは上半身をひねって後ろを向く。

 指名されたのは、マティアスのすぐ後ろの席に座っていた学生だった。


「暗くて、よく見えません」

「そう! よく見えない、それが肝心なんだ。緑色のものも、暗闇では緑色に見えない。これはどうしたことだろう?」

「それは、暗いところでは、よく見えないからで……別に色が変わったとかでは、ないはずですが」

「そう! 布の色は変わっていない。でも、今は緑色には見えない。なぜだろうね。我々の目は、緑色のものが緑色に見えなくなってしまうことがあると、そういうことだよね」

「はあ、まあ、そうですが」

「ではそちらの君! 色以外で、己の目が信じられなくなる事例は思いつくかな?」


 こんな調子で、レイモン神官は次々と学生を指名し、突拍子のない質問を繰り返した。


「これが、医学?」


 先ほどの金髪の学生が、マティアスの背中との間にひどく落胆した声を吐き出した。

 これが最新医学だと言われて、なるほどこれで病や怪我の苦しみから解放されると喜べる人間は、そういないだろう。


 でも、マティアスはなぜかこの教師の話が面白くて、講義が開かれるたびに参加している。

 講堂の席の半分ほどは、マティアスと同じ常連たちだ。呆れ返って二度と来ない学生がいてもかえってそれが噂となって新たな学生を呼び寄せる。この街で今一番話題の医学講義だ。


「次回はいよいよ、私が生涯をかけて研究に勤しむ、人間の記憶についての講義を始めるとしよう。今までに話した目、耳、言葉の研究とよくよく繋がっていることが、分かってもらえると思うよ。我々はなんでもあっさり忘れてしまうのに、どうでもいい下らないことを何年でも覚えていたりする。そんな話をするから、楽しみにしていてくれたまえ」


 レイモン神官は満足げに講義を締めくくった。


 学生の中にはずっと首を捻り続けていた者、意味が分からず退屈だったのか、机に突っ伏して居眠りを決めこむ者もいたが、やはり半数ほどは興味深げに目を輝かせている。訳がわからないことも多いが、レイモン神官の話は面白いのだ。


 ただ、マティアスはこの講義を受け続けるかどうか悩んでいた。

 レイモンの講義はおそらく道楽の範疇だ。伝統的でも実用的でもない。詩歌や絵画のように、職務の傍らで趣味とするなら良いだろう。そういう学問を極めんとする教授は少なからずいる。

 だが自分もそのような道に進むのかと問われれば、否だ。


 ゼブラノール本家の次代は三人。長子シャルロットはすでに婿を迎えて家督を継ぐことが決まっており、第二子のオディロンが先日正式に騎士となった。

 しかしマティアスは、すべきことがない。

 幼い頃は自分も騎士になるのだと思っていたが、体が小さく、剣術も馬術も凡才。勤勉な性格で勉強は得意な方だが、高官を目指せるかと言われれば、そこまで突出しているわけでもない。様々な私塾に通っているが、身を立てられそうな学問もまだ見つかっていない。


 自分はどこへ行くのだろう。

 このところ、そんな漠然とした焦燥に苛まれている。


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