透明人間

「これは、私が実際に体験したことです」


 暗闇の中に、意図的にトーンを落とした声が響いた。普段から聞き知っている声でも、真っ暗にした部屋の中で、こういう風に言葉を紡ぐと、案外それっぽい雰囲気が出るもんなんだなぁと思う。


 たとえそれが窓に段ボールを立てかけて作った安い造りの暗闇だったとしても。光源がスマホのライトで、光が当たっている所だけが強烈に明るかったとしても。


「はーい、そこぉ! 無粋なツッコミ入れないのっ!」

「いや、そもそも『怪談会しようぜっ!!』って言って集めた人間が私だけって」

「だからこれはそれに向けた練習だって言ったじゃんっ!!」

「練習が必要なのもどうかと思うし、その相手が妹って」

「仕方がないじゃん! 私、元ボッチの陰キャなんだからっ!!」


 ローテーブルを挟んで向こう側に座ったお姉ちゃんは絶叫とともにテーブルを叩いた。ローテーブルの上に乗せられていたスマホが微かに跳ねてガタンッとけたたましい音を立てる。控えめに言ってうるさい。


「大学に入ってようやくできた友達が誘ってくれたんだからっ!! せめて盛り下がらないように頑張りたいのっ!! 分かるっ!?」

「はいはい」

「絶対分かってないでしょっ!? キィィッ!! これだから陽キャはぁっ!!」


 別に私も陽キャというわけではないし、友達もそんなにいない。そこまで頑張って繋ぎ止めたい友人がいないからお姉ちゃんの気持ちが分からない、というだけだ。その点、お姉ちゃんより私の方が重症だと言える。


 でも、そんな内心を素直にお姉ちゃんに言ってしまうと私を心配したお姉ちゃんの方がしんみりしちゃうのは分かっているし、『怪談会の練習』なる物に付き合う対価としてお菓子も受け取ってしまっている。こんなお姉ちゃんだけど大好きな姉ではあるから、お姉ちゃんを悲しませるような真似も不義理になる行動もしたくはない。


 結局私はもう一度大人しく拝聴の姿勢を取る。ベッドにもたれかかるようにして膝を抱えた私の姿からそんな内心を察したのか、お姉ちゃんも軽く咳払いをして姿勢を正した。


「私はある年、透明人間になるという経験をしたのです。……嘘だと思いますか? しかし、これは本当にあったことなのです」


 トーンが落とされた声は、感情がそぎ落とされた分、ヒタリと貼り付くような不気味さに満ちていた。ストンと表情が抜け落ちた顔も迫力がある。


「梅雨が明けて、夏が始まった頃です。高校生だった私は、どこのクラスにでもいる平々凡々な生徒でした」


 透明人間になったきっかけが何だったのかは覚えていない。案外、何もしていなかったのに透明人間になってしまったのかもしれない。


 いつも通りに登校して、いつも通りに教室に入った。いつも通りにクラスメイトに挨拶をしたし、いつも通りに友達とおしゃべりをしようとした。


 それなのに、誰も自分の存在に気付いてくれない。声をかけても、相手に触れても、クラスメイト達は自分の方を振り返ってくれなかった。一人、二人の話ではない。クラスメイト全員が、先生が、隣のクラスの生徒までもが、誰も自分の言動に反応してくれなくなった。


 まるで自分はそこに存在していないかのように。


 まるで最初から自分がここに存在していないことの方が当たり前であるかのように、関わる人間全員が行動し始めたのだ。


「鏡を見れば、いつも通り制服を纏った自分の姿が映る。だけど、クラスの誰もが、そして先生までもが、私がそこにいないのが当たり前であるかのように振る舞い始めたのです」


 初日は自意識過剰からくる自分の勘違いなのではないかと自分に言い聞かせて乗り切った。だが二日目にも同じ状態が続いていることを知った瞬間、もう平静な真似をしていることもできなくなった。


「学校だけではありません。私の家族も、私の存在を無視……というよりも、『私』という存在は最初からいなかったかのように、行動し始めたのです」


 誰も話しかけてこないし、相手の視界に入っているはずなのに自分に視線が留まることもない。話しかけても、無理やり振り向かせてみても、誰も自分の存在に目を留めてくれない。


 そんな状態が学校だけではなく自分の家でも……家族との間にも生まれて、ようやく自分は『これは絶対におかしい。何かよく分からないことが起きている』と自覚できた。


「自分の分だけ用意されなくなった食事。それを誰も疑問に思わない家族。同じ食卓に着いているのに、視線が向くことさえない私。……学校だけだったらイジメか、何かのドッキリ企画なのかと考えますが、家族にまで、となると、さすがにどうしてなのかが分かりません」


 考えて、考えて、考え抜いた。こんな不自然な状態は一体どうして生まれたのか。一体自分と周囲に何が起きているのか。


「そこでようやく私は気付いたのです。……私は、透明人間になったのだと」


 話し終わったお姉ちゃんは、余韻を残してから『ご清聴ありがとうございました』と頭を下げる。


 だけど私は軽く首を傾げた。


「……オチは?」

「へ?」

「話のオチは?」

「え、オチ、付いたでしょ。『私は透明人間になったのであった』って」

「……それがオチ?」

「……ダメ?」

「正直、『だから?』ってなった」

「キィィッ!!」


 お姉ちゃんはまたローテーブルを叩いて悔しがった。だから、うるさいってば。


「透明人間になったから何をどうしたとかさ、何をやったら元に戻れたとかさ。……もっとこう、色々話の膨らませ方があるじゃん? それに……」


 ──その話って、高校時代にイジメられてた経験から作った、創作話なんでしょ?


 という言葉を、私はすんでの所で飲み込んだ。


 とりわけ容姿が悪いということもない。性格が悪いとも思えないし、一際ウザいとか、トロいとか、そういう所もないと思う。は私と似ている所があるけど、それだって私よりは強くなくてほとんどであるはず。強いて言うならば、世間一般よりちょっと飛び出たオタクではあるけれど。


 とにかく、そんな『普通の人間』であるはずなのに、高校時代のお姉ちゃんは結構酷いイジメにあっていたらしい。殴られたり、私物に危害を加えられるとかいう実害はなかったみたいだけど、クラス全員から無視されたり、それを教師も見て見ぬフリをしていたとか、そういう話を後になってから私は知った。どうやらクラスの女ボス……というよりも、教師ですらむやみに逆らえない『学年の女ボス』みたいな人間の気に障ることをしでかしてしまったらしい。


 私は当時、詳しいことを教えられていなかったし、お姉ちゃんも私に語って聞かせるようなことはなかったから全然事情は知らなかったけれど、学校から帰ってきたお姉ちゃんがいつも肩を落としていたことは知っていた。通学に片道2時間かかるちょっと遠い大学に入ったのを契機にはっちゃけちゃったのが功を奏したのか、今は友達もいて楽しい学生生活をエンジョイしているみたいだけど、高校時代のお姉ちゃんは見ていてちょっとしんどいものがあった。


「それに?」


 ひとしきり悔しがったお姉ちゃんは素直にアドバイスを求めてくる。妹の言葉でも素直に耳を傾けて受け入れてくれる所がお姉ちゃんの凄い所だと思う。


 私は少し考えて、続くはずだった言葉をすり替えることにした。


「それに、その話を『自分が体験したことです』って語るには無理があるよ。透明人間なんて、人はなりっこないんだから」

「えぇっ!? 何言ってんのよっ!!」


 でも、珍しいことに今回のお姉ちゃんは私の言葉を受け入れてくれなかった。


 いや、私の方が、お姉ちゃんの言葉を受け入れていなかったのか。


「これは正真正銘、私が実際に体験したことなんだって!」

「……え?」

「一昨年の梅雨明けくらいに、私、本当に透明人間になってたんだって! 一週間くらい誰も私に気付いてくんないし、家族のみんなさえ私の存在を忘れたみたいに行動してたし、ほんっと私焦ったんだからっ!!」


 ポカンと目も口も開いたまま固まった私に、お姉ちゃんは身振り手振りも加えて説明を続ける。『詳しい日付は忘れてしまったけど、多分7月下旬のことだったはずだ』とか『家族のみんなはこんなことを話していた』とか『夕飯に出てた海鮮チラシ寿司が本当においしそうだったのに私の分がなくて、いまだにそれを怨んでいる』とか、そんな言葉がポンポンと飛んでくる。


「え。ちょ……ちょっと待ってよ。学校関係者が総シカトかましたことを『透明人間』って言うならあれだけど、家族であるうちらがそんなこと……」

「でも実際にあったんだからっ!!」


 詰め寄るお姉ちゃんの剣幕を前に、私は必死に記憶をさかのぼる。


 お姉ちゃんは『海鮮チラシ寿司が夕飯に出た』と言った。うちは夕飯に海鮮チラシは滅多に並ばない。お母さんが作らないから。おばあちゃん家からもらうか、買うしかないと……


『お姉ちゃんはねぇ、今、ちょっとおばあちゃんの家で預かってるからねぇ』


 必死に記憶をたどった瞬間。


 ふと、耳に蘇った声があった。


『だからねぇ、しばらく帰ってこれないんだよぉ』


 ……妙に間延びした声。


 そう、あの声の主が、海鮮チラシを手土産に持ってきて、それをお母さん達は『おばあちゃん』と認識したから家に上げて、一緒に夕飯を……


 ──でもを、私は、『おばあちゃん』だと、思ったんだっけ?


「……お姉ちゃん」


 軋む記憶は、なぜか酷く曖昧だった。


「何よ?」

「その、『海鮮チラシが出た夕飯』、私……いた?」

「え。……えー、あー……?」


 凄みかかるようなトーンで答えたお姉ちゃんは、私からの質問に意表を突かれたのか、いつもと同じトーンに戻った声で『あー』とか『うー』とか唸り始めた。


 腕を組んで考え込んだお姉ちゃんは、しばらく経ってから自信がなさそうに口を開く。


「言われてみたら、あんたはあの一週間、ずっと姿を見かけなかった……かも」


 その言葉に、私はヒュッと息を呑んだ。


 透明人間になったというお姉ちゃん。そんなお姉ちゃんをその期間預かっていたという、記憶の中にいる『おばあちゃん』と名乗ったモノ。酷く曖昧な記憶。両親はおばあちゃんだと言ったモノを、私は多分『おばあちゃん』だと思えなかった。だから私は、その期間ずっと、から逃げ続けて……


 ──お姉ちゃんが透明人間になっていたと思っている期間が、私の記憶の中にあるあの時期と重なっているならば。


 ……もしかしたらお姉ちゃんは、本物の透明人間になるよりも、ずっと状況にあったのかもしれない。


「あ~、でもダメかぁ、この話。力作だと思ったのになぁ~」


 凍り付いた私に気付かないお姉ちゃんはガサゴソと立ち上がると照明のスイッチを押した。パッと明るくなった視界の先には窓に立てかけた段ボールを外すべく行動を始めたお姉ちゃんがいる。


「ねぇ、お姉ちゃん……」


 ──どうやって透明人間から普通の人間に戻ったの?


 ──その後、なる前と比べて何かが変わったとか、そういうことってなかったの?


「ん?」


 ……そう問いかけたかったのに、穏やかな笑みとともに振り返ったお姉ちゃんを前にすると何も言えなかった。深く問いただすと、何かが壊れてしまって、良くないことが起こりそうな気がしたから。


「……や。……手伝う、よ」

「お、助かるぅ、ありがとー! じゃあそっち側剥がしてくれる?」


 お姉ちゃんはニカッと笑ってくれた。過去を感じさせない、カラッと気持ちのいい顔で。


 その笑顔があればいい。これからも、そうやってずっと笑っていてくれればいい。


 私はそうやって無理やり自分を納得させると、段ボールの撤去に精を出した。

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