鬼女

 ドロリと夕日が差し込む中に、人影がいくつも踊っていた。


「ねぇ、あいつってさ」

「そう、もう鬱陶しいったら」

「視界にも入れたくないよね」

「言えてるー」


 窓から入った光が教室を透過して、廊下側まで赤い光をこぼしている。その中を踊る影はみんな真っ黒だから、誰の影なのかまでは分からない。


 だけどその中に鬼の姿を見た私は、呼吸の音を殺すために口元を両手で覆ってそっと廊下にしゃがみ込んだ。


「今度のテストさ」

「あの先生って」

「親が、塾が」

「言えてるー」


 ヒラリと揺れるスカートの影。見慣れた影は、彼女達が私と同じ制服を纏っていることを示している。だけど頭部にあたる部分には見慣れない尖った影があった。


 そう、まるで。


 古典の教科書で見た、般若の面をつけているかのような。


「ほんっとムカつく」

「マジでウザイ」

「死んでほしい」

「言えてるー」


 彼女達が鈴を転がすような声でさえずるたびに、夕日はどす黒く染まり、影の角は伸びる。その毒気に群がるモノ達がケタケタケタと笑っている声が聞こえる。


 それでも彼女達は囀ることをやめない。


 ──他人の不幸は蜜の味。陰口の味も、蜜の味。


 私は口元を覆う手に力を込めると、体をさらに柱の陰に寄せた。


 ──一度味わってしまったら、たやすく帰ってはこられない。


 彼女達は、きっと気付いていない。自分達の顔が女から般若に変わっていることも、自分達が撒き散らす毒に自分達がすっかり浸かりきって酔っていることも。その毒に引き寄せられたモノ達が、自分達をではない暗がりにさらに引きずり込もうとしていることも。


 決して、決して、気付けない。


 毒が自分自身の中を回りきった後も。自分自身が夜叉に堕ちた後も。


 ──毒を甘露だと思っている間は、自分自身の影は見えないものだから。


 薄く漂う暗闇は、決して夜のとばりがもたらすものだけではない。ユラリ、ユラリとストールを揺らすように漂う闇は、その中で遊ぶ仲間を増やそうと四方八方に触手を伸ばしていく。


 だから、息を殺し、身を潜める。


 鬼は、おぬ。目に見えないモノの総称。


 目に見える者と見えないモノ。互いに見つかってしまったら、ただで済むことはない。


 私が柱の陰にしゃがみ込んでいる間に、真っ赤な光はスルスルと引いていった。薄い闇に満たされた廊下に、もう影は踊らない。


「うわ、ヤッバ! もうこんな時間!」

「帰らなきゃ」

「塾行かなきゃ」

「言えてるー」


 そうなってようやく彼女達は囀るのをやめた。ガタガタと帰宅の準備を急ぐ彼女達の音を聞いた私は、そっと隣の教室の中に滑り込み、今度はドアの陰に身を隠す。しゃがみ込んで口元を覆った所でガラリと隣の教室のドアが開いて、軽やかな足音が廊下に響いた。再び囀りながら廊下を進む彼女達は、私の存在に気付かないまま私が隠れたドアの前を通り過ぎる。


 私は息を殺したまま、視線だけを上げて彼女達を眺めた。


 同じ制服に身を包んだクラスメイト。声で分かっていたけれど、やっぱり毎日教室で顔を合わせる彼女達だった。


 ただ、一人だけ。


「……!!」


 額から鋭く突き出た二本の角。振り乱された髪。カッと見開かれた瞳は金と黒。もはやヒトを忘れた色彩に彩られた顔の中、大きく裂けた口元からは獣のような牙が覗いている。


 一瞬、本当に能面を被っているのかと思ったけれど、それにしては周囲の反応があまりにもすぎた。


 ──帰って、これなくなったんだ。


 私が一瞬こぼした吐息が聞こえてしまったのか、最後尾を歩く鬼がグリンッと顔だけを振り向かせる。とっさに口元を押さえる力を強くして彼女から視線をそらした私は、ドクドクと騒ぐ心臓を必死になだめながらうつむいた。サラリと私の髪がこぼれて、私の顔を周囲から隠す。


「かおりー? どーしたのー?」

「帰るよぉー?」


 廊下の向こうから、クラスメイト達の声が聞こえた。


 それでも鬼はしばらく私の姿を探していたようだった。音が消えた数秒が、私にはひどく長い。


 やがてペタ、パタ、という上履きの音は仲間達の方へと消えていった。それでも私は動けなくて、じっとドアの陰に身を隠し続ける。


 ──能面における『般若』は、嫉妬や恨みによって女が鬼に変わった姿だとされている。


 甘い甘い蜜が毒だとも気付かず、酔って、堕ちてしまったモノの成れの果て。知らない間に戻れなくなっていたのか、己からヒトの姿を捨てたのか、そこまでは分からないけれども。


 ──でも、きっと彼女は、あの子達も連れていく。


 だって、一人で堕ちるのは不公平だから。


 他でもない彼女達が、ずっとそうやって毒の囀りを上げていたから。


 だからきっと、他の達も遠からず。戻れなくなった彼女に気付いていないのは、彼女達の中身がすでに鬼に変わっているいい証拠だ。


「……怖い」


 私が力なく床に座り込んでやっと両手を口元から離せた時には、すでにとっぷり日も暮れて周囲は真っ暗になっていた。ヒトの気配も、毒の気配も、闇に押し潰されて何も分からない。


「鬼よりも、ヒトの方が、ずっと怖い」


 帰り支度をする力も湧かなくて、私はその場にへたり込む。


 ──明日も学校ってことは、あの子達と嫌でも顔を合わせるってことかぁ……


 願わくば、日の光の中で見る彼女達の姿はヒトの姿をしていますように。


 たとえ中身が、すでにヒトの皮を被っただけの鬼女と化していたとしても。


「視界はせめて、平和であってほしい……」


 小さくぼやいて、私はズルズルとドアに背中を預けたのだった。

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