第30話『たまにはお姉ちゃんに構ってよぉ~』

 なんとかオムライスを完食し、流し台で皿を洗い終わってリビングで一息吐いていると、先に洗いものを済ませた悠里がコトンと卓の上にチューハイ缶を置いた。


 すでに三本目らしく、本当にほろ酔いなのか疑わしい。そんなに酒が強い方ではないのか、ほんのりと頬を朱に染めて、左右にゆらゆらと揺れている。

 俺はジトッと湿っぽい視線を悠里に向けた。


「ちょっとおたく、飲みすぎじゃないですか……?」


 不味いオムライスを酒で相殺していたせいか、明らかにペースがおかしかったし、かなり酔っていそうな雰囲気だ。


 悠里は突然「ぷふっ」と吹き出し、ケラケラと爆笑しはじめた。それから指先で涙をぬぐい、笑いを噛み殺しながら口にする。


「くくっ、おたく……オタクって湊斗のことじゃんっ! あはは、おっかしい!」

「なんにもおかしくねぇよ。酔っぱらいが」

「酔ってないしー」

「酔っぱらいはみんなそう言うんだよ」


 ふいにぐでっと机に項垂うなだれる悠里。

 睡魔が襲ってきたのか、その体勢のまま動かない。


「おい。寝るなら布団敷くから布団で寝ろよ」

「んむぅ……」


 体を揺すって声を掛けると、悠里はぷいっと顔をそむける。

 すると、船を漕ぐようにうつらうつらとしながらむにゃむにゃ声で呟いた。


「みなとぉ……いつ帰ってくるのよぉ……」


 その言葉を聞いた瞬間、思考が停止してしまう。


 悠里はゆっくりと体を起こし、潤んだ瞳で上目づかいにこちらを見つめてきた。

 それがどのような意図をはらんでいるのか正確にはわからない。もしかしたら意図なんてないのかもしれない。だが、その真っ直ぐな眼差しを無下にすることは出来なかった。


 反応に遅れていると、悠里は顔を伏せて独りよがりに声を漏らす。


「……あたしのせいで湊斗がいなくなっちゃったのはわかってるけど。お母さんと二人きりだと静かで、ちょっと寂しい。ずっと、罪悪感があったんだ……。あたしのせいで、湊斗が家を出て行っちゃったこと。でも湊斗がいなくなって、あたし。あたし……」


 顔を伏せているせいで、その表情をうかがい知ることはできない。


 きっと悠里は俺に歩み寄ろうとしてくれていたんだ。なのに俺は、姉を出し抜くことばかり考えて姉の気持ちなんて全然考えていなかった。


「俺は……」

 喉がつっかえて上手く言葉を吐き出すことができない。

 それでも、なんとか口に出そうと思って俺は絞り出すように声を吐き出した。


「――まだ、帰れない」


 姉の優しさに素直に応じることはできない。


 もし、このままノコノコと実家に戻って、はたして俺は自分を許すことができるだろうか。すべてを姉のせいにしたまま、ぬるま湯に浸かるような真似だけはしたくない。


 これがただの自己満足に過ぎないのは重々承知だ。


 それでも、俺はもう姉に甘えるだけじゃないって決めたんだ。


 俺の言葉に対する反応があまりになく、おそるおそる悠里に視線を向ける。

 すると悠里は「すぅ、すぅ……」と静かな寝息を立てていた。


「はぁ……」と、俺は呆れとも安堵ともつかないと息を吐いたのだった。


   ◆


「おーい。布団敷くから一旦起きろ」

「うぅん……」

「ほら、起きろよ」


 姉が寝息を立て始めてから数十分後。

 俺は床に布団を敷くべく、悠里の手を肩に回して無理やり立ち上がらせようとするが、酔っぱらってフラフラの悠里をなかなか起き上がらせることができない。


「お、も……い……ッ!」

「もぉ~、重いとか言うなぁ~」

「じゃあ自分で立て……ちょ、おい。抱き着くなよ!」

「えぇ~、いいじゃあ~ん。たまにはお姉ちゃんに構ってよぉ~」

「うわぁ、めんどくさい酔い方……って――おわぁ⁉」


 酔っぱらい特有のウザ絡みをしてくる悠里が駄々をこねるように暴れたせいで、床に敷いたカーペットに足を滑らせて転倒してしまった。

 その拍子にベッドの淵で腰をぶつけて、背中が痛い……。


「痛ってぇ……」と、腰をさすりながら顔を上げる。

 気付けば、ギュッと悠里に抱きしめられていた。


 いつも使っているシャンプーの匂いなのに、まるで別物のような甘い香りが漂う。まだ髪が少し湿っており、ちらと上目づかいにこちらを覗き込んでくる悠里の顔がほんのりと赤く染まっている。その表情がやけに艶っぽく、見てはいけないものを見ているような気がしてしまう。


 俺がふいっと顔をそらすと、悠里は手を伸ばして頬に触れてきた。


「みなとぉ~ほっぺ柔らかぁ~。あれれぇ? みなとぉ~いつの間に若返ったのぉ~?」

「は? なに言ってんだよ⁉」


 コイツには俺が小さい子供にでも見えているのだろうか……。

 悠里はゆらゆら揺れながら頬ずりしてくる。


「しゅりしゅりしゅり……このまま可愛いままでいてね。大きくならないで」

「おい、やめろ気持ち悪いっ!」

「またそんなこと言ってぇ~。ほんとはお姉ちゃんのこと大好きなんでしょぉ~?」


 ウゼぇ……。こんな酔い方するのかよ、コイツ……。


 いちいち反論していても意味がなさそうなので、俺は心を無に変えてこの酔っぱらいを介抱する道を選んだ。


 その後。なんとか姉をベッドに座らせて、その間に卓を片付け、今まで一度も出番がなかった来客用の布団を床に敷く。

 このアパートに引っ越してきたばかりの頃。もしかしたら気の合う友達や彼女ができてお泊り会をする日が来るかもしれないと期待し買っておいたが、結局存在すら忘れていた。


 その布団の上に泥酔した姉を寝かせる。


「ふぅ……」


 まったく、苦労かけやがって……。

 少し気を抜いた瞬間、バイトやら最近蓄積していた様々な疲れがどっと襲い掛かってきた。


 姉が寝静まった後、軽くシャワーを浴びて早めに消灯。俺もベッドに入った。

 ズシリ、と体に重りがついたような感覚でベッドに沈み込み、それに連動して意識が深く沈んでいく。そのまま夢の世界へ旅立ちそうになったところで。


 ふいにモゾモゾと布団の中になにかが侵入してきた。


 沈んでいた意識が一気に浮上して、布団の中を見れば悠里がベッドにもぐりこんでいた。

 瞬間、眠気が飛んでしまう。

「え。なにしてんの、お前ッ⁉」

「んむぅ……。こうした方があったかいでしょぉ……」

「いや、そうじゃなくてッ‼」

「……うるさぁい。いいじゃん、昔はよく一緒に寝てたんだし……」


 言いながら、すぅーっと寝息を立て始めた。


「いやいやいや……。何年前の話だよ……」


 仕方なく俺はこっそりとベッドから抜け出し、毛布を強奪された敷布団にくるまって凍えながら一夜を過ごしたのだった。

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