第2話 開口

 数瞬遅れてあちらこちらで絶叫が上がる。立ち尽くす俺の横を無数の足音が過ぎていく。

 ------逃げなくては。


 怪獣に背を向けて逃げ出そうとしたその時、足に何やら柔らかい感触があった。そこにいたのは例の白いアイツ。どうにも猫には見えないが、じゃあ何の動物なのかと言われるとそれもわからないので、とりあえず抱き抱えて駆け出した。


 意味はないと、どこかで分かっていた。


 大勢の逃げ惑う人々に混じって、走る。

 どこまで? それは分からないが、近くにいるよりはマシだろう。にしてもさっきから走りっぱなしだ。流石にそろそろ疲れてきた。これではあの八つ又の怪獣に何かされる前に死んでしまう。意識もだんだんぼやけてきた。


「い。あ」


 不意に。短く声がした。

 しかしそれは意識を揺り起こすには十分に足る声だった。すなわち-----断末魔。


 真横を走る若い女性が、上半身を無くしていた。喰われていた。


 黒光りする鱗を不気味に煽動させ、竜はさぞかしうまそうにそれを食している。


 脳裏に染みつく。

 はみ出した内臓。てらてらと光るあぶらとリンパ液、それらが鮮血と混ざり合って、俺はいつか図工の授業で作ったマーブル色を思い出していた。


 本能的な恐怖。吐き気。それらが俺の歩みを止める。


 黄金の目は俺を一瞥し、そして興味をなくしたように通り過ぎていった。


 俺は放心したまま。白い何かを抱えたまま。それをただ見ていた。


 標的は女性のようだった。

 喰われる。食われる。呑まれる。裂かれる。潰される。嬲られる。

 臓腑が、血液が、乾いたアスファルトに恵みを与える。

 なぜ彼らは女性だけを狙うのか。回らない思考回路は、それでも答えを弾き出す。

 怪獣は、人が伝承し、恐れてきた神話の怪物や恐怖の象徴を具現化したものだという。であればあれは日本神話に出てくる八つ又の竜。八岐大蛇。伝説によれば八岐大蛇は女性の肉を好んで食したという。

 だから、女性の肉しか喰らわない。はずだ。

 でもどうやら見当違いだったらしい。

 目の前には、大蛇の血の糸を引いた大口。

 ああ。そうか。-----食い尽くしたのか。


「……死んだな」


 そんな言葉が口をつく。

 死ぬけれど、どうということもない。七年前死ななかった。死ぬはずだったのに、死ななかった。だからこれはその埋め合わせだ。

 口が開く。

 漂う臭気に意識が眩む。

 竜がその首を動かす。その刹那。

 鼓膜をつんざく「音」が、俺の体を融解させた。

 何もかもが溶けて行く世界の中で、どこか懐かしい光を見た。

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