第1章 ムスカリ

 何か。何か書かなければ。書けなければならない。


 発症してから二週間。この時はまだ自分が病気だと自覚していなかった。だからこそ焦燥感だけが僕を襲った。脳内で文は組み立てられるのに、それを書き起こせない苦しさ、もどかしさ。耐えきれなくなって枕に顔をうずめて発狂したこともあった。音声入力機能を使って文を無理矢理作成したこともあったけれど、そこに出来上がった文章は自分のものとは到底思えず、作ってすぐ削除した。


「もし僕/私がこんな状態になったら一日もたたずに親に相談するよ。二週間も放置するなんて何を考えているの?」


 そう思う人が多いだろう。それが出来たら僕はこんな苦労はしていないだろう。僕が相談できなかった理由。それはまた別の機会に綴ろうと思う。

 発症してから二週間も放置していたのにはもう一つ理由がある。偶然にも発症したのが夏休みの序盤で、特に日常生活で困ることが無かったのだ。宿題や自由研究など、やらなければ課題は山のようにあったのだけれど。

 兎にも角にもこのようなイレギュラーな状況下で自我を保てる訳もなく、もはや文など書けなくても良いのではないかと自暴自棄になり、今まで苦労して練習した文字にもならなかった文字が羅列したノートを引き裂いて近くの焼却炉に投げ入れ、誰もいない川辺で喚きだしたこともあった。そんなことをしても何の意味もない、何一つ生み出さないと頭では分かっていながらも、そうするしかなかった。僕にとって感情を表現するツールは文章だけだった。それ以外の方法には目もくれなかった。だからこそ、抑えきれない負の感情を、ただ喉が潰れるまで叫ぶことでしか発散できなかった。

 家と焼却炉の往復しかしていなかった僕は壊れかかっていた。そんな時、家のポストにひらりと一枚の広告が紛れ込んでいた。


「今ならおトクに一人旅!学割サービスも行っております!是非この夏、××会社に足を運んでみてはいかがでしょうか?」


 正直、どこにでもあるありきたりな広告だった。普段の僕だったらすぐに紙ごみとして適当に折りたたんで捨てていただろう。しかし僕は前述の通り精神的に大きなダメージを喰らっていた。折角の夏休みなのに作品どころか文字一つさえも残すことのできない侘しさだけを抱えながら過ごすことにも辟易していた。

 広告に惹かれたわけではない、と言ったら嘘になるだろう。確かに僕はこの広告がきっかけで外に出ようと思うことが出来たのだから。しかし正確に言えば広告のキャッチコピーではなく、申し訳程度に載せられていた一枚の写真に惹かれたのだ。色鮮やかな繁華街から美しい向日葵畑の写真の中に一枚、異様に浮き立っているただの田舎町の写真。見た刹那、懐かしい気持ちが蘇ってきた。……何だっけ。僕は何か、大切なことを忘れている気がする。そしてここにはきっと、その大事な何かがある気がする。


 見つけに行こう。今行かないと、もう一生辿り着けないような気がする。出会えないような気がする。本能的にそう思った。

 そうと決めたら準備に取り掛かるまでは早かった。広告の裏には、運よくその写真の住所も記載されていた。ここから新幹線を使って約三時間、か。活字に飢えていた頃、ぼろぼろになるまで読みふけった電車の時刻表と、旅行に行きたがらない僕にとってあまり縁のなかった新品に等しい地図をリュックに詰める。字は書けないもののマーキング程度なら出来る為、蛍光マーカーで丁寧に目的地に印をつけた。

 後は……そうだな。昔誕生日に父さんに買ってもらったけれどあまり使わなかった一眼レフカメラも持っていこう。毎年誕生日になるとこのカメラの愚痴を零された。「宝の持ち腐れだ」と。心配しないで父さん。きっとこいつは、この旅で最強の宝になるよ。

 他にもいろいろ詰めた。着替えや日用品などは勿論、学校で使っている油彩用の絵具とキャンバスも持っていくことにした。美術には極度の苦手意識があるのだが、文で想いを表現出来ない今、絵で表現するしかなかった。かなり良い絵具を支給されたはずなのに、俺の管理が悪いせいで所々絵具が乾いてしまったり一色足りなかったりと、こちらこそ宝の持ち腐れである。

 しかし文が書けないというのは精神的にも大いなる影響を与えているが日常生活でも何かと不便だ。今時わざわざ駅に出向いて事前にチケットを予約する高校生が何人いるのだろうか。スマートフォンさえあれば五分とかからず予約できるものに三十分もの時間を割く。それくらいのこと、と思うかもしれない。しかしスマートフォンがある時代に生まれてきてしまった僕にとってそれは不便で仕方がなかった。でも少し、ほんの少しだけ自分の足で目的を達成することに満足感を得ることが出来た。まるでこの喜びは自分しか知らないのではないかという宝物を見つけたような少年心が少し垣間見えたのだ。

 家族には適当に旅行へ行ってくると伝え、事前に購入しておいた新幹線のチケットを握りしめ玄関のドアを開ける。自分でも不思議なくらいに気分が高揚していた。


 数年ぶりに乗車する新幹線は、家族連れやカップル、大学生のグループであふれていた。皆割れんばかりの笑顔で互いに何かを話している。そんな中一人で背中を丸めながら駅弁を食べている僕はアンマッチにも程があるが、僕は僕で初めての一人旅に期待を寄せていた。

 事前に買っておいたパンフレットを広げる。リゾート地や観光地が並ぶページは飛ばし、僕が目指している田舎町が載っているところまでページを繰る。たったの一ページしか情報がないけれど、やはりここは不思議と僕を惹きつけた。恐らく行ったことはない。しかし何度も行ったような、故郷のような懐かしさのある奇妙なこの場所。これから起こる「何か」に思いを馳せながら、僕は瞼を閉じた。

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