君の鼓動はこの手の中に

明星 志

第1話 額に月を宿す馬

 世の中には理不尽な事は沢山ある。

 四月になって最初の登校日、いわゆる新学期初日の朝っぱらから僕は絶望のどん底にいた。

はやて、泣くなよ。俺がいるじゃん」

「お前、優しいよな……」

 幼馴染の幸隆ゆきたかとは今年も同じクラスなのが救いなのだが、憧れの柳田さんとは別のクラスになってしまった。

「なぁ、今思ったんだけど、蹄鉄ってご利益が違うんじゃね?」

 そんな事は分かっている。

「だって、縁結びってどんなもんが良いのかわからなかったんだもん……」

「だから春休み中にあの神社に行けって言ったのに……」

〝あの神社〟とは、学校の近くにある小さな神社で、縁結びのご利益があると噂されているところだ。

 僕の左手が握っている銀色の蹄鉄ていてつは、カーブの真ん中のあたりがすり減っていて、溝や穴には砂の粒なんかが挟まっている。家を出る時に、すがる思いで玄関先にあったのを持ってきた。……これがきれいに洗って磨いてあったら、いや……神社のお守りだったら、結果は違ったかもしれない。

「おはよう! ねぇ、それって蹄鉄? 見せて?」

 あぁ……。もう何の効果もなかった蹄鉄は荷物になるだけだ。

「いいよ、あげる」

「……いいの?」

 ちょっとにおを「はい」と手渡して、手に付いていた砂粒をパッパッとはたいた。

「おい、颯!」

 教室に行こうとする僕の肩を、幸隆が掴む。

「颯!!」

「なんだよ、もう教室行こう——」

 振り向くと、目の前に柳田さん。

「やややや、柳田さん」

 僕は、昨晩ぱっつんと直線に切られてしまった前髪を慌てて隠した。

「これ、本当にもらっっちゃっていいの?」

 さっき、の、蹄鉄を、手、に、持って、る……!

 あぁぁわわ、 そんな汚れたものなんで持っちゃってるの! 馬糞ボロだって踏んづけてるのに!

「いいのいいの、どうせ颯ん家にいっぱいあるから。な!」

 幸隆に肘でどつかれ、顔がカーッと一気に熱くなる。まともに顔も見れないし、言葉も出てこない。

 両手で蹄鉄の両端を持って、鼻に近づけてスンっと息を吸い込んだ。

「ありがとう! お馬さんの匂いがする!」

 いや、それ、馬糞の臭い……。あぁ、やっぱり綺麗に洗って掃除して磨いておけばよかった。


 柳田さんと初めて会ったのは小学3年生の頃。10月のとてもよく晴れた日だったのを覚えている。

 下校する時に、柳田さんがお母さんに連れられて校門をくぐるところだった。すれ違いながら僕と目が合った時、なぜかニコニコと微笑んでいたのを覚えている。とても可愛かったから。

「なんでこんな時間に学校に来たんだろう」

「転校生ってやつじゃない?」

「転校生?」

「俺んちの近所に引っ越してきた家族がいるってママが言ってたから」

「へー」

「でも、小さいからきっと1年生だろ」

「なぁんだ」

「小さいっていったら颯だってチビじゃん」

「チビっていうなよ」

 仲良し4人組でそんな会話をしたのを覚えている。

 その翌日、先生に連れられて教室に入ってきた。

柳田やなぎだ千春ちはるです。どうぶつが大好きです。よろしくお願いします」

 黒板に書かれた名前の前でペコリとお辞儀をする彼女は、今思い出しても本当に小さくて可愛くて……そして今でも小さくてとても可愛い。

 小学生の時は、仲良し4人組でつるんでることが多くて柳田さんのことを特別な目で見ることは無かったんだけど……。

 中学の入学式、制服姿の柳田さんを見て胸がドキドキして止まらなくなってしまった。それからは気が付けば目で追って、目が合うとなぜか恥ずかしくて……今もまだドキドキしている。


「クラスは別々になったけど、会話できたじゃん」

 始業式とホームルームで自己紹介だけで終わって、帰りの駐輪場。

「僕に予知能力があれば、予め新品を用意しておいたのに……」

「馬の匂いがするって喜んでたじゃんか」

「あれは馬糞ボロの臭いだって。……柳田さんには言うなよ!」

 あぁ、もう……。可愛い柳田さんが汚れた蹄鉄の臭いを嗅ぐなんて。全部僕のせい。

 気を取り直して自転車を引っ張り出す。

「ほら、幸隆乗れよ」

「せんきゅ! いつもスミマセンねぇ」

「いいえー、トレーニングですからぁ」

 僕の家と幸隆の家は隣同士。隣と言っても、うちの両親が経営する乗馬クラブの敷地を挟んでいるから、ドアを出てすぐというわけじゃないけど。

 通学の自転車は、少しでも僕の足腰のトレーニングのためにと、後ろに幸隆を乗せている。

 川沿いの土手の道を走るのは、どの季節でも気持ちがいい。

「こうして颯の自転車に乗るのも、あと1年しかないのかぁ」

「僕が試験2回落ちたら、幸隆の後輩になってまた乗せるよ」

「お前、一発合格するんじゃなかったのかよ」

「万が一の話だよ。ばーか」

 僕の第一志望は、JRAの競馬学校騎手課程だ。親からは試験は2回までと約束させられている。

「とか言って、颯が落ちるわけないだろ」

「……プレッシャーかけるな」

「そうか? お前なんだかんだで乗馬経験あるし、こないだの大会も優勝してたろ」

 ……あれは馬が全部やってくれたからだ。うちのクラブ所有の名馬・ホタルが全部やってくれた。僕は乗ってるだけだ。

「でも学科試験があるから……」

「あー、そっちが切実だねぇ」


 幸隆の家の前で「また明日」と別れて、うちの門をくぐる。敷地内の道のカーブを曲がり切ったところで、駐車場に見慣れた赤い乗用車と、馬運車ばうんしゃが止まっているのが見えた。

「馬運車……? 何かあったのかな……」

 だれかがケガでもしたのだろうか? 心配になって急いで自転車を降りて馬運車を回り込むと、その先にある丸馬場から初めて見る真っ黒な馬がこっちをみていた。

 額の中央の大きな白いホシは大きなまんまるで、星というより満月まんげつのようだ。

「やぁ颯君、良い馬だろう!」

「あ、渋谷さん。こんにちは」

 渋谷さんは父さんの友達で、うちの乗馬クラブのお客さんでもある。東京で会社の社長をしていて、とてもお金持ちな人だ。

「どうしたんですか、この馬」

「どこにも行くあてのない馬でね。私が引き取ったんだ。せっかく見栄えする馬だからもったいないからね」

「すごいかっこいいし、とても大人しそうな馬ですね」

「そう。見た目と血統は良いんだが競走馬にはなれなかったんだ。調教まではしたそうだが、レースに出られないまま引退ときたもんだ」

 たてがみを見ると、首の真ん中あたりの一束が切り取られている。

「あぁ、それは前のオーナーが別れを惜しんで切り取ったんだ」

 話には聴いたことがある。行くあてが決まらないと大体は食肉で……お別れする時にその馬の思い出にと、たてがみを切り取るという話を。

 自分にまつわる不穏な話をしている間に、真っ黒い馬は馬場の真ん中でゴロンと横になって砂浴びを始めた。初めての場所で緊張感もないし、のんびりした性格なのだろうか。

「お前、全然怯えてないなあ」

「さっき宮本君にも調教をお願いしてきたし、颯君も乗ってくれて構わんよ」

「お、やったー!」

 ほとんどの乗馬クラブには、預託馬よたくばという馬がいる。

 会員さんの持ち馬で、クラブでは預かっている馬の餌代と厩舎の家賃として預託料よたくりょうを頂く。希望があれば調教の面倒もみる。調教料は別でもらうんだけど、それは調教師兼インストラクターの宮本さんに入る仕組みだ。


 一度家に帰って着替えてから厩舎の二階にあるクラブハウスに行くと、受付の事務机の上に黄色い表紙の小さな冊子が置いてあった。

 表紙の名前は「ブルーフルムーン」。馬主の名前は渋谷さんに変更されているから、どうやらあの真っ黒い馬の健康手帳のようだ。

 新しい馬は、転校生が来るみたいでワクワクするんだ!

「おかえり。これから馬房の名札作るところなの。あと、お昼食べたら奥の馬房を掃除して、オガクズを入れといて」

「ただいま。ねぇ、名前はこのまま? 変更するの?」

「渋谷さんが、新しい名前は私のセンスに任せるって!」

 そう言いながら母さんは不敵に笑っている。息子の僕より中二病だからきっとすごい名前を付けるだろう。

 手帳はまだ新品みたいに綺麗。サラブレッドの四歳で青毛と記入してあった。

「青毛だ! 珍しいね!」

 さっきはよく見る前に砂浴びをしてしまって毛色が分からないほど真っ白になってしまったし、後で綺麗に洗ってやって青毛の馬体を確認してみよう。

「渋谷さん、ほとんど見た目だけで引き取っちゃったらしいわよ。あの人も本当に物好きね」

 例えタダでもらえる馬でも、その後の馬の維持費いじひにはお金がかかる。だから見た目だけで引き取るというのは、本当に物好きなことだった。

 特に新馬しんばと言って、これから乗馬の調教をしなきゃならない馬は、ちゃんとお客さんが乗れるようになるにも時間がかかる。でも、競走馬の調教を始める前の〝馴致じゅんち〟は終わっているはずだ。

 渋谷さんは他にもラバーとクローという2頭を所有していて、うちに預けている。1頭あたりの費用は月15万円だから、やっぱりお金持ちだ……。


 将来騎手になるからには、どんな馬でも乗れなければならない。そう思っている。

「うわっ、コイツこわっ!」

 乗った瞬間に大きく踏み込んで走り出した。

「ハハハハ! いきなり1人で乗らなくて良かったね」

「渋谷さんが、大人しいって言ってたからさぁ!」

「新馬といっても、こいつは競走馬として早く走るよう調教されてきてるからね」

 丸馬場の中央に追鞭おいむちを持って立つのは宮本さん。教えるのが上手いと評判の調教師兼イケメンインストラクターだ。

調馬索ちょうばさく〟という長いリードに繋がれて宮本さんを中心に円を描いて走っているのは、蒼月そうげつと名付けられた青毛の馬。

 そして蒼月に跨ってるのはこの僕。

 蒼月に乗ってみなよというので大喜びで準備したものの、初心者みたいに調馬索をつけられて不満に思っていたけど……新馬の調教ってこういう危険もあるってことか。

「でも、新馬ってこんなに暴れるもんなんですか?」

「颯君、ちゃんと手帳見た?」

「えぇっ?」

「こいつは騙馬せんばじゃなくて牡馬ぼばだよ」

 牡馬とはオスの馬。去勢されてない馬だ。

「まだ春だし、発情期フケかもなぁ」

 馬も、恋の季節か……

「うわっ!」

 もう一度大きく飛び跳ねる。

「颯君、集中してないと危ないぞ」

 まだ桜が咲く前の今の時期だから……そういうものなのだろうか。

 宮本さんがチラっと送った目線の先には、隣の馬場でお客さんを乗せた牝馬ひんばのユキコがこちらにお尻を向けて停止と後退の練習をしていた。

 蒼月はその後も時折後ろっ跳ねて、僕を落とせるか試みる。小さい頃から馬に慣れ親しんでいるけれど、こういう馬は初めてだ。

 新馬の調教を1からやるのって本当に大変なんだな……。


「颯君、良い経験だったろ」

「そうですね……」

 何度か本当に落ちそうになったけれど、どうにか無事に終わった。

「ここはお客さんにも馬にも恵まれたクラブだからなあ。まっさらの新馬なんて俺も久しぶりだからちょっと怖いね」

 厩舎の馬房や洗い場では大人しい蒼月は、人間で言うところの二重人格みたい。

 タオルで顔を拭いてやると、馬場での暴れっぷりが信じられないくらいに甘えてくる。額の真ん中にある大きな満月が、競走馬時代につけられたブルーフルムーンの由来だろう。

 青毛はサラブレッドの中でも珍しい毛色で、見た目は真っ黒。四本のあしにも白い模様がないので、蒼月はほぼ全身が漆黒の馬体だ。

 ブラッシングしてやると、馬体はすっかりツヤツヤになった。これは渋谷さんが一目惚れするわけだ。

「お前、なかなかのイケメンだな」

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