ふたりはともに手をとりあって

西川悠希

第1話 世間はまだまだソーシャル・ディスタンス

 冷房の効いたオフィスの廊下を歩くのは、ため息まじりのみさを。

 夏物のスーツの上に指まで袖で隠れる緑の上着、パーカーに袖を通しており、その足取りは重い。

 左わきに抱えたノートパソコンも小柄の自分にはしんどいし、ただでさえ凝りがちな肩もますます固くなる。

 とはいえ口にすると周囲から、特に女子社員からの視線が刺さってくるため、そんなことは口になんてとても出せない。

 言いたいことも言えない、こんな世の中じゃ。

 マスクの下で、みさをは大きくため息をついた。


 2020年3月からの新型コロナウイルス蔓延に端を発した緊急事態宣言から、2年とちょっと。

 その間、色々なことがあった。

 著名人の死去。人のにぎわいが消えた街。降って湧いたような国民一同マスクでの自粛生活。

 今でも、それは記憶に新しい。

 しかし、それ以前の生活をどのように送っていたのかは、今はもうもやにかかったようにうまく思い出せないというのが正直なところである。

 もやにかかったようにもやもやする記憶。

 ププっとみさをはマスクの下で笑みを浮かべてしまう。

 息苦しいマスクも、こういうときにはありがたい。


 そして始まった、ワクチン接種。

 緊急事態措置もまん延防止等重点措置と形を変えて繰り返され、2022年3月を最後に国民に行動制限を伴う措置は解除され、2022年7月を迎えた今も発令されてはいない。

 少しづつ街は人のにぎわいを取り戻しつつあった。

 社内のオフィスも人のにぎわいを取り戻したものの、もうかつてのように相方の小須戸健児と二人きりというわけにはいかなくなった。


 小須戸コスド健児ケンジ

 やや天然パーマで眼鏡をかけた、大柄のずんぐり体形の男性。

 初対面の第一印象は決していいものではない。

 ましてや周囲からもからかい交じりで〝令和のヒキガエル〟などと悪口を吹き込まれていたのだから、無理もなかったのである。

 とはいえ一緒に仕事をしてみれば、なかなかのもの。

 何から何までフォローをされて、終わってみれば頼り切り。

 本人は謙遜してはいるが、みさをにとってケンジは頼れるカエルの王子様なのだ。


 右手で肩まで伸びた髪をかき上げる。

 正直に言うと髪を伸ばすと夏場は暑いし、手入れも面倒くさい。

 寝る時に髪の毛は背中とベッドに挟まるし、起きると髪の毛が口に入っていたりもする。

 前髪は髪留めで左側に止めるのだけは、以前と変わらない。

 しかし、みさをが目指すは大人の女性。

 だから今は髪留めは黒で何も飾りの無いシンプルなもの。

 大人の女性は手間を惜しまないのだ。

 決して普段のカエルの髪留めが子供っぽいからとか、周囲に色々からかわれるのがシャクだからではない。


「失礼します」


 コホンと咳払いし、みさをは社内のシステムで予約を取っていた会議室のドアを開ける。


「いらっしゃい」


 言葉とともに出迎えたのは、ティーポットを持った小須戸の笑顔。

 広くは無いが狭くもない会議室に四角で囲まれる形で置かれた、右面奥の長机の上に、小須戸が持って来たであろうノートパソコンが置かれていた。


「はい、どうぞ」


 小須戸は自分のノートパソコンが置かれた席とその隣に紙コップを差し込んだカップホルダーを置いて、それぞれティーポットのお茶を注いでいく。

 みさをはそのお茶の透明感のある色彩にはよく覚えがある。


「カモミール?」


「もちろん」


 執事……いや、これは王子喫茶。あくまで自分にとっては、の話だが。

 そうすると、もしかして自分は……お姫様?


「どうしたの、ニヤニヤして」


「別にニヤニヤなんかしてませんっ」


 図星を指摘されたみさをは、あえてつっけんどんに返す。

 小須戸とみさをは、お互いマスクを外して隣りあって席につく。

 誰もいない空間にふたりきり。


「こうすると緊急事態宣言が出たばかりの頃を思い出すね」


 小須戸はなんでもないことのようにつぶやく。

 みさをは席を立ち、ノートパソコンを閉じて、席を移動する。

 移動した先は机の端。会議室に入った正面奥に設置されている机の端である。

 ノートパソコンを席に置いて、戻ってお茶を手に取って、席に座って、みさをは右手でカモミールティーを口にした。もちろん視線はケンジに向けながら。


「……ここ?」


 小須戸はノートパソコンとお茶を手に、右面奥の席に座る。みさをとは斜向かいに座る形となる。


「この方があの頃を再現できてますよね」


「……まあ、そうだけど」


 小須戸はみさをの意図が理解しかねるのか、曖昧な同意を口にした。


「会社の業務なんだし、世間はまだまだソーシャル・ディスタンス。礼節をないがしろはあきませんよ」


 嘘である。

 隣の席ではいちいち視線を横に向けなければ、顔が見れない。快適な冷房の中でべたべたくっつくのも悪くは無いが、京女みやこおんなとしては、つつましく振る舞うのが正解というもの。

 それにこうやって斜向かいに座った方が、小須戸に気づかれずに小須戸の顔を眺めながら自然と業務をすることができる。

 もちろん、既に今回の議題については予習済みである。完璧は対策なのだ。


「じゃあ、始めようか」


 小須戸はノートパソコンを開いて、電源を入れる。

 みさをも同じように開いて、右手で電源スイッチを押した。


「でも、今になって府の専門家会議が開かれるなんて思いませんでしたね」


「2021年の春からワクチンの接種が始まって、この一年でだいたい行き渡って、これからどうするのか。を改めて話し合うというのはいい事だと思うよ」


 小須戸とみさをは緊急事態宣言が出た当初、政府の行っている医療対応について調べることになり、ふたりで政府や自治体の出している資料とにらめっこをしていたのだった。

 2021年春から始まったワクチン接種開始に伴い、感染者数が下がりきった2021年11月で業務自体は一旦解散となり、ふたりはそれぞれ別々の業務を割り当てられていた。

 ところがその後、2022年1月からの第六波で再び感染者は急増。重篤者は割合としては以前より少ないものの、世間を再びコロナ禍の脅威にさらされることとなった。

 そして、6月になって多少、感染が落ち着きを見せ始めたところで、報告書に用いていた府の専門家会議が1年半以上の時を経て再び開かれたため、7月を迎えた現在、ふたりに再び収集がかけられたのである。


「『新型コロナウイルス感染症が府内で確認されまして、そこから2年以上が経過をいたしました。』」


 突然のみさをの発言に小須戸は目を丸くした。みさをのそれは知事の議事録冒頭の発言だからである。

 みさをはイケメン知事の声色で、続きを読み上げる。


「『また2年間という期間が経過する中でワクチンも開発され、そして今となってはもうワクチンが余るような、余って廃棄するような状態ぐらいにまでなっています。そして多くの人がワクチンを打ちたければ十分打てるという環境にもう既にあります。そして薬も開発されまして、一定限定はありますけれども、高齢者の方やリスクの高い方には飲み薬や様々な薬・治療法も一定確立されて参りました。』」


「……さすが」


 ぱち、ぱち、ぱち。と小須戸はみさをに拍手を送った。

 当然です。と言わんばかりに、みさをはエッヘンとひそかに自慢でもある胸を張った。

 お互いに議事録を読み合って、内容を確認しながら報告書としてまとめていくのがふたりのやり方だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る