第八話 「人と妖とのみち」


 涼しい雨が降り敷くその日、ハチさんが来なかった。

 雨だから来ないのか、と思ったのだけど、その日からハチさんはぱたりと来なくなった。併せてヒヅキさんも急に顔を見せなくなり、私は一人で過ごすことが多くなった。

 雨の音が鼓膜を揺らすのを感じながら、部屋の中央へ大の字になって寝そべっていた時のこと。誰も尋ねてこないのは寂しくはあったけれど、ヒヅキさんは私の体から黄泉のものが完全に抜けるまで、と最初に言っていた。来なくなったとしたら、私に向こう側と関わる理由がなくなった、ということだけだろう。――一人に戻った、だけだ。

 その、五月蝿いくらいの雨の音だけだった部屋に、かぼそい声が裂いて現れた。


「緋織」


 ざわと肌が粟立った。母の声だった。


「緋織、入っても、いいかな」

「……うん」


 断る言葉が浮かばず、私は素直に彼女を招きいれた。母は少し痩せたようだ。目の下の隈は最後に見たときよりも濃くなっているようで、とても健康そうには見えない。顔色は悪く、唇は青ざめていて、口紅すら塗っていない。三食をともにしているけれど、私があまり顔をあげないから、母の顔を見るのは久しぶりな気がした。


「緋織。私、再婚はやめるわ」

「……は?」


 母は、腰を下ろすとすぐにそう言った。準備してきた言葉はそれだけで、前置きなんてなにも考えていなかったと判断するほかない唐突さで。

 急すぎて、驚いた。何の話だ、と私は素っ頓狂な声が出た。


「私にとって一番大切なのは、あなただから。ちゃんと考えて、あの人ともちゃんと話をして、決めたことなの。私も……あなたのことをちゃんと考えていなかった」

「いや……え? でも、ねえ、待ってよ」

「緋織……?」

「だって、おかあさん、笑って報告したじゃん。私と一緒にいるときよりもずっと幸せそうだったじゃん……!」


 何を言っているんだろうと思う。涙霞の先の母の顔が見えない。

 ただ、言っていることに違和感がなかった。たぶんずっといいたかったことなんだと思った。父と母と、私といたときの母が、再婚を提案した時のような顔はしなかった。記憶にある母は、ずっと笑っていない。だからだ。

 だから、私は逃げ出したのだ。


「ねえ、私がいない方がおかあさん、幸せになれるんじゃないの――」


 ぱしん、と音がした。続いて頬が熱を持ち、叩かれたのだと気付いた。涙がぼろっと零れ落ちて、視界が一瞬クリアになる。母が泣いている。顔をくしゃくしゃにして、泣いていた。

 はっはっ、と息が上がっている。涙がぼろぼろ流れている。


「そんなこと、――そんなばかなこと言わないで。あなたはちゃんと私の娘よ、大事じゃなかったらこんなところまで追いかけてきていないわ」

「あ、おかあ――」

「あのひと……あなたのお父さんとちゃんと話をしたの。あなたをきちんとしあわせにするために、私は再婚することを、あのひととたくさん話し合ったの」


 こんなところ、というその言葉に、母がこの町を好ましく思っていないことを感じた。それよりも、いや、ちゃんと話し合った、ってなんだ。おとうさんは事故で亡くなったんじゃあ、ないの?

 母は、呆ける私の肩を引き寄せ、力いっぱい抱きしめた。私より少しだけ背の高い母の肩口に顔が当たる。それで口がふさがれて、息が苦しくなる。なる、んだけど。バカを言わないで、と重ねて言う。

 そのときの母は怒っているというよりは、悲しんでいるといったほうが正しいかもしれない。声は涙をはらんで、力を入れ過ぎて腕も震えている。

 わからない。わかるわけない。だって母は父と話もしなかった。父は母のほうを向きもしなかった。家の中に声があることは、あまりにも珍しいことだった。それが不和と呼ばずになんだったというのだ。――ずっと私が感じていた寂しさや心細さはいったい、どこへ向かえばいいの!


「お父さんと、おかあさん……仲、良くなかったんじゃないの。いつも話のひとつもしないし、顔だって見てなかった」

「あのひとは恥ずかしがりだったから……いえ、いいえ。そういうことじゃないのね。あなたを、私たちはずっと幸せにしたかったのに、肝心のあなたのことをきちんと考えてあげられなかったのね」


 違う。違う。だって、おかあさんはおとうさんと仲が良くなかった。楽しそうにしているところなんて見たことがない。

 母の薄い肩を突き飛ばし、距離を取る。触らないでほしい。今頃優しくされても耐えられない。待ってよ。むりだよ、怖い。怖い、怖い怖い――

 母は一瞬、痛そうに顔を歪めた。けれどそんなもの、関係なかった。ずっとずっとこころの底で凝(こご)っていたものがやっと融解して、止まれなかった。


「信じられるわけない! だって私、寂しかった! おかあさんもおとうさんもいるのに、どっちも他人みたいで、ずっとずっと、一人でいるようなものだったのに!」

「緋織……」

「なのに、なのに、いまさらそんな――私が一番大切、なんて信じられない!」


 叫び声は裏返り、息も上がる。いつの間にか涙もぼろぼろ零れていて、さっきとは立場が逆転していた。頭がぐらぐらする。苦しくて、唇も勝手に震えてしまって、もう話すのも涙声になってしまう。

 母は、きっとつられて泣くのだろうと思っていた。母はひどく弱い人だから、きっとこんなふうに怒鳴ってしまえば私と母の仲にもひどい不和が生まれてしまうのだろう、と。

 ――けれど。


「ごめんなさい、そんなになるまで何も言えなかった……言わせない環境にして、ごめんなさい」


 触らないでと突き放した腕ごと、優しく、母は再び私を抱きしめた。

 一度目よりも緩やかに、その緩んだ分は頭を撫でるために使われた。


「お父さんと仲が悪かったなんてことはなかったのよ、あれが私たちに一番合った在り方だっただけ。けれど、あなたに寂しい思いをさせていたのね。気づいてあげられなくてごめんなさい――ああ、そうやって抱え込んでしまうところも、あのひとそっくり。気づいてしかるべきだったわ」

「な……んで、おかあさんが、なくの」

「お父さんはね、もう長く患っていたの。いなくなってしまうことを知れば、あなたが長く寂しい思いをする。だから、ずっと黙っていたのよ」


 そんなこと、突然言われても困る。おとうさんは、患っていた? 何を? なんで、いつから、どうして?


「わた、し……そんなこと知らなかった。おとうさんが急にいなくなって、新しいひとが来るなんて、急にで、何にも飲み込めなかったのに……」

「ええ、ごめんなさい。おとうさんともたくさん話をして、大きく生活が変わってしまわないようにと思ってのことだった」


 変わったってよかった。おとうさんとの残りの時間が決まっているのなら、もっとしたいことだってあったかもしれない。たくさん話をしたかもしれない。

 母はいとおしそうに髪を撫で、涙を厚く湛えた瞳のまま「ごめんなさい」と繰り返す。


「知りたかった。私、ちゃんとふたりに話をしてほしかったよ」

「ええ、あなたはもう、ちいさな子どもじゃないのよね。ごめんなさい、緋織」


 母は――おかあさんは、三度強く私を抱きしめた。今まで足りなかった分を埋めるかのように、ぎゅうと痛いくらいに抱きしめられた。


「緋織、話をしましょう。これまでのことも、これからのこともひとつずつ。ずいぶん気付くのが遅くなってしまったけど、今日までの分も」


「あ――おかあ、さん。おかあさん、おかあさん」


 もっと、もっとはやくそうしたかった。そうしてほしかった。

 欲しかったのは対話だった。一人除け者にされていると感じずに済むように、たくさん話がしたかったのだ。

 とめどなく流れる涙は熱かったけど、ふしぎと心は軽くしてくれた。



 *



 風呂を済ませ、居間で冷えた麦茶をちみちみと飲んでいた。祖母は寝支度をしに寝室、母は風呂だ。網戸の外からはカエルの合唱が聞こえる。

 ずっと降りしきっていた雨は今は少し止み、地面が濡れた分入ってくる風も心地よかった。温まった体がゆっくりと冷まされていく。

 と、そのとき。

 ぴんぽーん、と軽い呼び鈴が鳴った。祖母から「出てくれる?」と声がかかって、それに「はあい」と返事をした。母が持ってきてくれた寝間着は普段着とさして変わらないので、よかった。


「はい、どちらさまでしょう――」

「――こんばんは、夜分遅くにごめんね、緋織さん?」


 にっこりと人当たりのいい笑みを浮かべた女性。艶やかな黒髪を高い位置で二つに結び、ゴシックロリータに身を包んだその姿は見覚えがあった。

 ざっと全身の血の気が引く音がした。この人は化け猫さんを連れて行き、椿の木精が私を匿ってくれたあの日向の人間だ。


「ご理解が早いようで何より。ボクは日向(ひなた)幸音(さきね)。キミの赤い目を貰いに来た」


 腰が抜ける――だめだ、抜けてちゃだめだ。逃げないと、ここに居たらおかあさんやおばあちゃんにも迷惑がかかる。心配もかける。抜けるな、力を抜くな。両手で足を叩き、硬直する筋肉を無理に起こした。

 それを皮切りに後ろへ跳び、廊下をまっすぐに駆け抜ける。この奥の間には家の裏に出る窓がある。そこから出て、走ればいくらかの時間稼ぎにはなる。


「ちょっと、手間かけさせないでくれる!? ボク走るの苦手なんだから!」


 苦手だというなら好都合だ。まさか家の中を追ってはこないだろうから、後ろは振り返らない。走って、窓を開け放つ。祖母の驚いた声が聞こえた気がしたけれど、返事をする暇はない。

 土の感触が足に直接伝わって、裸足で来てしまったことを後悔するも遅い。耳に蘇るのはハチさんの言葉だ。


――「この町にいる間、オレやヒヅキがそばにいなくて、何かあったとき。あの寺に逃げ込め、幸いそう遠くないから、走れば二分としないで着けるはずだ」


 二分、二分。大丈夫、そのくらい走れる。撒けるはずだ。幸音と名乗った彼女は家の玄関から回ってくる。その分のロスと、私が足を緩めなければ追いつかれないと思う。

 濡れたアスファルトの感触は当然のように最悪だ。凹凸や小石で足は痛い。けれど、追いつかれたらもっと痛い。


「はっ、はぁっ、はっ――――」


 あと少し。暗い雨の夜でもはっきりと佇む椿の木が見えた。その隣を抜けて階段を上がって、門を潜って――


「ちょっと、ここに逃げるなんて最ッ高にイラつくんだけど?」


 耳元。走っているのに距離など感じないほど近く、圧倒的な存在感が背後にぴったりと張り付いていた。手足が冷え、一気に恐怖に足が竦む。走るのが得意じゃない、というのははったりだったのか。

 肩越しに振り返り、反射的に追いついて来ている女を確認しようとして――


「――足を止めない、振り返らずこちらに来なさい!」


 凜と響く声に引っ張られるように、振り返ることなく走れた。あと数歩で木の陰に入る、というところでふわりと花の香りとともに現れた木精に腕を引かれる。そのまま木精の後ろへ体が放り出され、勢いよく転げた。

 擦り傷をたくさん作り、服をどろどろにしたまま見上げると、幸音と相対する椿の木精の背中があった。


「……チッ、一歩遅れたか」


 日向幸音は不愉快そうに顔を歪めたのも一瞬、すぐににこやかに笑みを作った。ヒールの高いブーツに跳ねた泥を拭き、裾を軽く払う。


「まあいいや、木精ごとき怖くもなんともないし」

「あら、悲しいこと言うのね。ここがどこだか、わかっていないのかしら」


 木精も穏やかに言い返す。殺伐とした雰囲気を纏いつつ、口調は穏やかなのが怖かった。

 座っていては逃げられるものも逃げられなくなる。私はじっと幸音から目を離さないままよろよろと立つ。服が水を吸って重い。傷がひりひり痛む。


「わかってるさ。でもボクはその女の目が欲しい。そしてまだその女は中にまでは入っていない……分かっていないのはそっちなんじゃあ、ないのッ」


 幸音は人型の和紙を数枚、宙に張り付けるように投げた。青い焔が付いたかと思えば瞬時に姿を変えて、鳥の姿へと変貌した。青い焔の鳥が間髪入れずに木精に向かって突進する。

 木精は植物だ。燃やされてはひとたまりもない。悲鳴も上げられず、私はびゅっと目を瞑った。


「――ほんとうに、なめられたものだわ」


 嘆息気味に呟いた木精。次の瞬間、幸音の息を呑む気配があった。そうっと片目だけ瞼をあげ、様子を見ればたったの一払いで焔の鳥を消し飛ばした木精の後ろ姿があるだけだった。傷どころか、煤の一つもついていない。


「……どうやったのかな。木精なんだから大人しく燃えるはず――」

「だから、それをなめていると言ったのよ。これだから何も知らない人の子は嫌ね、まったく」


 木精は怒っている、というよりは苛立っている様子だ。今に童女の愛らしい見た目に似合わない舌打ちでもしかねない。

 でも妙だ。苛立っている相手は幸音ではなさそうである。幸音はどちらかというと、八つ当たりをされているだけのような……。

 というか、木精は助けてくれたけれど、その理由はなかったはずだ。まさかハチさんは彼女のことを知っていて、彼女を頼れという意味で言ったのだろうか。彼女はこんなにも露骨に人嫌いだと主張しているのに。

 一度ならず、二度までも。なぜだ、と問おうと口を開くも振り返る木精が鋭く睨めつけてきた。


「あなたもあなたよ、早く街を出て行きなさいと言ったでしょう? ちんたらしているからこんな出来損ないにも見つかるのよ、おばか」

「でッ!?」


 出来損ないと評された幸音のこめかみがびきっと青筋を立てる。木精は特段気にも留めず、私に「聞いているの?」なんて続けるものだから、私は冷や汗が止まらない。木精の威圧も、相手にされない幸音の殺気も怖い。


「ああ、そう、ボクは出来損ないなんだね? もー怒った、たかが木精だし遊んでやろうかと思っていたけどやめやめ! 大方さっきのも結界みたいなもんなんだろうけど、結局は木精だ」


 すっと笑みを消した幸音は純粋に怒っていると見て取れた。よほど自分に自信があるのだろう、木精に悪気があるかはさておき、否定されたことがさぞ腹立たしいらしい。悪気はたぶん、あるのだが。


「地力はたかが知れてる。――なら、やることは一つでしょ!」

「うそ……!」


 展開された青い焔の鳥は先ほどのおよそ五倍。街灯よりも明るく、雨にも打ち消されずに煌々と鮮やかに舞っている。青い光に濡れた幸音の顔が凄惨に歪む。

 あの口ぶりとこの鳥の数。私でさえも何を狙ってのことか、理解に時間はかからなかった。


「たかが木精、長く生きただけ命をため込んだ程度の妖! なら結界が解れるまで打ち込めばいいだけのこと!」


 ――つまるところ。

 木精というのは本来戦う力も攻撃を受け流す力も持たないのだと思う。だから幸音はなめてかかったし、適当なお遊び程度で負かせると判断した。多少長く生きていて攻撃を阻まれようとも使い切らせてしまえばそれで終いだ。


「木精さん……ッ!」

「情けない声出さないでくれるかしら。耳障りだわ」

「でも……!」


 へんに焦りを感じない木精の姿を青い焔が縁取る。

 視界が青一色に染まり、その光の中に木精も飲み込まれる。焔である以上私も木精もまとめて焦がされてしまう。自分の身体を抱く暇もない、覚悟を決める暇もない――!

 だが、その瞬間はいつまで経ってもやってこなかった。

 いつの間にか周囲に夜が戻り、ただ街灯の心許ない光があるに留まった。


「わたしが見鬼の娘を一人で守りきるなんて、はじめからするわけないわ。あなたの言う通りわたし、か弱い木精だもの。野蛮な焔の鳥なんて一度防ぐだけでせいいっぱいだわ」

「な、ん――――――」

「わたしは時間稼ぎだけすればよかったの。ねえ、あなたは知らないのよ」


 あれだけ苛立っていた木精はもはや苛立ちなど微塵もない穏やかで優しくて、慈しむような、愛おしげな、そんな声音で語る。

「この寺がどうして不可侵なのか、どうして化け猫がこの見鬼の娘にここを教えたのか」

「こ、こは――中立だから、って――」

「いいえ、違うわ。ここはね、あの子が生まれて生きた場所。そしてわたしたち・ ・ ・ ・ ・はあの子の幸せだけを願っている。あの子は自分と似たような境遇の子があなたたちみたいな野蛮な輩に理不尽に恐怖を植えつけられることを嫌がるからわたしたちはあなたたちの介入を拒むの」


 だから、と言葉を結ぶ間もなく。

 木精と幸音の間に立ち上る焔を文字通り割って入り、消し去ったその人物がゆらりと立ち上がる。その姿にはひどく見覚えがあった。

 暗くても分かる派手な緋色の袈裟。うなじがすっきり見えるように切られた黒髪。しゃんと鳴る錫杖。そして――袖から、裾から、襟首から覗く無数の目。


「ねえ――――緋月(ヒヅキ)」

「うん、遅くなってごめんね、美珠(みたま)」


 ふふ、と花が咲き零れるように破顔する木精――美珠さん。やっと愛らしい顔に合った笑みを惜しげもなくヒヅキさんに見せ、ヒヅキさんも彼女の頭を優しく撫でた。

 それだけで、二人の間に一言や二言では語りきれない『特別』があるのだと悟る。ヒヅキさんは相も変わらず希薄な顔だが、いくらか柔らかく見えた。

「なんで、百目が……!」

「なんでもなにも。ここは不可侵って話を破ろうとしたのはそっちでしょう。契約違反は当然、抵抗しても文句はないはずだ」

「それにしても――あ、な、名前……ッ」


 そうだ、名前。人と妖間でしか成立しない術の鍵となるのは名前だと、教えてくれたのはヒヅキさんだったではないか。

 ヒヅキさんは名前を隠さないし、今も美珠さんが言ってしまった。このままではヒヅキさんに、幸音は術を掛けられるという状況だ。そのことに気付いた幸音も手早く指先で何か文字を描き、息を吸う。


「あ、ヒヅキさ――っ!」

「ヒヅキ――縛ッ!」


 私が叫び、ヒヅキさんに手を伸ばす。

 同時に幸音が名と術を言い放つ。

 遅かったと私は膝を折り、幸音がやったと確信に満ちた勝利を浮かべる。

 沈黙。術が掛かり、口ひとつ動かせないヒヅキさんに視線が集まる。ただひとり、はあ、とため息を吐いてみせたのは美珠さんだった。


「……こればっかりは、あの娘に感謝、なのかしらね」

「それは、どういう意味ですか、美珠、さん」

「その名をあなたに呼ばれる筋合いはないわ、不愉快だからやめて」


 私を一蹴、美珠さんはぎろりと鋭い視線をくれる。ヒヅキさん以外に許す心はないようだ。それよりも、微動だにしないヒヅキさんのことを知りたい、と、ヒヅキさんに視線を移す。


「――あ、なんで」


 この日何度目になるかももう分からない、幸音の疑問。なぜ、と問う以外の能力を失ってしまった口を無理矢理動かして話している。顔は青ざめ、指差す先は焦点が定まらない。

 それは私も同じだ。だってヒヅキさんはいつもと同じゆったりした動作で、欠伸なんかしている!


「ヒヅキさん!? え、なんで!?」

「いやあ、あんまり張り切る若者を見ると自分がいかに年老いたか、考えちゃって」

「言うほど老いてないわ、まだまだ子どもよ」

「そりゃあ木精に比べればね」


 軽口まで叩いて、こちらまで気が抜けてしまう。ひとり置いてけぼりの幸音が茫然と口が開いたままぽかんとしている。私もぽかんとしたい。


「まあ、あなたもいい術師にはなるだろうけど、まだまだ未熟だねってことでひとつ」

「そ、そんなことじゃ納得いかないだろ! 妖は名前さえ縛れば!」

「当人の技量、相性その他あるけど。というか知識の劣化を感じるなあ……関わらなくなって久しいから、仕方ないのかな」

「なんの、話」


 眉間に指を当て、ヒヅキさんはううんと唸る。その腕にある目玉も落ち着かなくぐるぐると見渡し、最後には揃って幸音を見つめる。多くの目玉に圧倒されたわけではないだろうが、幸音が一歩引く。


「妖を名で縛るのは正解、ただし俺は例外」


 ヒヅキさんは語る。名は確たるからだを持たない妖にとって命も同然、あやふやな存在だからこそ、そんな簡単な話がまかり通るのだと。それも実態たる体を持つ人間から妖へのつながりだからこそ出来る技なのだ。

 そのあたりは、私もよくよく知っている。ハチさんが心臓部たる名前を忘れ、自我もきちんと保てず情緒不安定になっていた。仮名といえど名をあげてからはよく笑うようになったし、穏やかで優しい性格が見えるようになった。


『――――よく似合っている』


 ふいに思い出した、夏の木漏れ日の中。柔らかい、愛しむような笑顔。向けられたのは私なのに、ひどく心が締め付けられた。ハチさんが会いに来なくなった、というのならそれは彼にとって私がその程度だった、ということだ。

 そうと知っても胸が痛むのは誤魔化しきれるものではなくなっているということ。いなくても会えなくても募っていく想いがあるのだ。痛くても、なんとも思わないのならこんなに必死に逃げたりはしない。

 ハチさんが会いに来てくれないなら、私はきっとこのまま会わずに帰るだろう。けれど、会えるかもしれない可能性を捨てきれない。今はもう私を見てもいない幸音を見遣り、えぐられていたかもしれない目を抑えた。

 私は、やっぱりハチさんが好きなのだ。

 ヒヅキさんは錫杖をくるりと手首で回し、鈴と金輪がしゃんと音を立てる。美珠さんと幸音の両方が見えるように斜めに構え、錫杖を抱える。


「俺はほとんど実体ありだから名前だけで縛れはしないよ。あなたはもっと実力をつけないと難しいね」

「じ、実体あり……?」

「それともう一つ。――俺のね、名前はもうあの子にあげてしまった。名前も心も、ぜんぶ。あの子以外に膝を折るつもりはない、だから俺を緋月の名で縛りたいなら先に心を壊せよ」


 ざっと血の気が引く、低音。普段は隠れた額の目が、前髪が落ちたことで露わになる。街灯を背負い、影が出来た端正な顔は見たことがないほど凄惨だ。翠玉の瞳が炯々と光り、幸音はついに腰を抜かす。

 ぺたんとへたり込んだ幸音をよそに、いつの間にか傍へ来ていた美珠さんが囁く。


「よく見ておくことね。あなたにあれほどの覚悟がある? 全てを捨てて、他の誰にも譲らない想いだと、あなたのそれはほんとうに言える?」


 ハチさんへの想いのことを、彼女は言っていた。

 何も言えず、木精へ振り返ることも出来ず。

 ただヒヅキさんの心の在り方をそのまま映したような背をただ眺めた。



 

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