第四話 「触れ合うきもち」


 その日は見世の主人の機嫌がよかった。いつもより少しだけ朝餉が豪勢で、久方ぶりの米を食べた。この見世の主人は遊女の体調にはあまり気を遣わないので、食べ物は粗末だ。そのせいで当然見世に並ぶ遊女の体は骨と皮のようなもので、触り心地などいいわけがない。それなのに客は一定数入る。そしてその金は主人の懐に大方が入り、残った分も見目だけをよくするための着物や簪に使われている。

 たまに機嫌がいい日は食事がよくなるものだが、正直なところ、そういう食事は好きではなかった。おいしいものを食べるのは、それだけなら別に良いけれど、それだけではないのだ。おいしいものを食べれば腹がすいていることを知らなければならなくなるし、自分が飢えていることに目を逸らせなくなる。


 なのに次に主人の機嫌のいい日がいつ来るかはわからず、もしかしたら機嫌を損ねてそのまま打ち捨てられることだって考えられる。そうであるのなら、おいしい食事はそうしたことを連想せざるを得ない。ずっと質素な食事のままでいいのだ。たまにいい夢を見させようとなんてしなくていいと思う。

 そのいつ来るかわからない楽しみを待って、これ以上人より下の存在に身を落とすなんてしたくはなかった。機嫌を取るために尻尾を振り、褒めてもらうために、おいしいものにありつくために言うことを聞く。そんなふうになってしまえばこんなに苦しいこともないのだと知っていたけれど、それでもそうなることは選べずにいる。


 ともあれ、今朝だ。機嫌がいい主人は見世の遊女に二刻ばかりの暇を与えた。買い物に行くのも自由、甘味を食べに行くのも自由といえるくらいには小遣いも持たされた。遊女たちは嬉々として外へ出ていった。護衛はわざわざつけていないが、足首に鈴がついている。ひとりひとりに特注で作られた鈴だ。逃げようとすればわかるようにか、ただの享楽かはわからないが、そんな鈴をつけた遊女はこのあたりでこの見世だけだ。この見世はどうにもほかに比べれば随分大きな部類に入るようで、また主人の気の短さで有名だ。その機嫌を損ねるようなことを避けたいと思うのが町の男たちの共通認識であるはずだった。だから鈴のついた遊女は欠けることなく見世へ帰ってくる。まあ、時折。ほんとうに時折、そういう日を狙って駆け落ちする遊女もいるが。どうなったかは知らない。相手の男も、遊女自身も。

 ほんとうであれば、こうした機会もおよそ部屋の中で過ごす。外へ出て、何か見つけてしまったらと思うと怖いし、どうしてか死ぬのは怖かったから、多く望まないようにしていた。所詮は籠の鳥なのだ。夢なんて見るだけ、無駄だ。だからこの日も、部屋の中でぼんやりと過ごすつもりだったのだが――

 なんとなく気が向いて、晴れ渡る空にひかれるようにして外へ出た。

 足が満足に動かなくなって久しく、前に外へ出た日のことなど覚えていないくらいだ。思ったよりも日差しが強く、見世を出てすぐに頭がぐらりと揺れた。やはり出てこないほうがよかった。ねえさんがくれた杖に寄りかかり、引き返そうかと悩む。ほかの遊女はよくもこんな過しづらい外へ出るのだろうか。仲良くなった客とひそやかに逢瀬を重ねる気も知れないし、わざわざ自分で鳥籠に戻るような真似も、好きではない。やはり部屋の中でぼんやりしているほうが性に合っているのだろう。

 帰ろう。出てきたところで、何もなかった。踵を返そうとして、視界の端に違和感を覚えた。生垣の下にある隙間。手入れが行き届いていないのか、雑草が道のほうまで葉を伸ばしてきている。その中に、違和感。

 そこを覗いたのは、魔が差したというほかなかった。なぜか主人の機嫌がよかったように、なぜか晴天だったように、なぜか外へ出てみようと思ったように、そこに理由なんてなかった。それが今日でなければ、気付かなかったかもしれない。それを運命というにはなんでもないようなそれだったし、けれども偶然として片づけるのも不思議な違和が胸の奥をくすぐるような、そんな一瞬だった。

 覗き込んだそこに、ぎらぎらと光る二つの何か。たっぷり数秒眺めて、それが目だと気付いた。青と緑の、左右色の違う目。葉の中は暗く、その目だけが浮いて見えた。あとになって思えば、体が見えなかったのはそれだけが原因でもないような気がするけれど、ともかくそれはじっとこちらを見ていた。犬か猫か、まさか人の子であることはないだろう。こんなところに埋まっていれば誰かしらに見つかって売り飛ばされるなりなんなりするだろう。このあたりの治安の悪さはほんとうにそんなことがまかりとおるのだ。

 これまた、何を思ったのか、手を伸ばした。叢に手を差し込み、おそらく首だろうところを撫でようとした。びりっとした痛みが走る。噛まれた。痛みは慣れている。だから痛いことは別によかった。それよりも。

 その痛みを怯えと、なんの違和感もなく捉えた。どうしてそう思ったのか、たぶん、身に覚えがあるからだろう。だからそれは口をついてでた。


「――おまえも、ひとりかい」


 噛んだ歯は緩まなかったし、血が流れ出る感覚は強くなる一方だった。ただもう片方の手も差し入れて、その存在を生垣の下から引き揚げた。驚くほど小さな子猫だった。薄汚れて、ひどい怪我をしたようだった。ところどころ赤黒いかたまりがこびりついていた。抱えられたことに驚いたのか、一度力が緩んだものの、再び深く牙が刺さる。血が着物を汚していくのも気にせず、その猫を抱えて、自室へと連れ帰った。

 遊女が猫を飼うのは珍しいことではない。見た目の優雅さを追求すれば体の冷えとは常に戦わなければならず、体温の高い猫はそういう点で相性がよかった。また、猫は『寝子』に通じ、ある種の共通点といえる。実際見世の中にも何人か猫を飼っている遊女がいて、そこにまたひとり、猫を飼う遊女が増えたところで、気にする者はいなかった。

 その猫は、異国の猫だった。血や泥を洗い流すと、その身は真っ白だった。両眼は青と緑。初めて見る色に、最初こそ驚いたし、触らせもしないかわいげのなさも相まっていい印象はなかった。けれども数日も寝床を共にする頃には

抵抗なく食事をするようになった。触ると噛みつかれるのは変わらなかったが、部屋にもうひとつの気配があるということは思いの外悪いものではなかった。

 その猫には、もうひとつ、他の猫とは違う点があった。


「おまえ、尾が二又なんだね」


 猫は手の届かないところに丸くなって、目線だけをじろりと寄越した。最初に連れ帰ったときから気付いてはいたが、口に出したのはそのときが初めてだった。猫はどうも言葉を解しているようで、それを言ったとたんに良くも悪くもなかった機嫌が明らかに悪い方へと振り切れた。

 ただまあ、そんなふうに機嫌が急降下することはたまにある。猫は気分屋だとも聞いたから、さして気にせずに続けた。


「――まあ、尾なんて二本あろうが、変わらないな」


 ほんとうに尾の数なんて興味はなく、だからこそなんとなく口をついて出た言葉だった。

 あとで、本人に聞いてみると、この言葉が彼の琴線に触れたと言っていた。その日を境に、彼とは打ち解けた。言葉こそわからなかったけれど、凍った心にぬくもりを与えたことは確かだった。



  *



 朝ごはんのいい匂いで、目が覚める。今日も味噌汁のようだ。腹がきゅうと鳴る。

 私は布団から出て、くらりと襲う眩暈を堪える。治まってからその布団をたたんで、部屋の隅へ置いた。寝巻もその上に畳んで重ね、着替える。

 着替えは、ヒヅキさんが貸してくれた浴衣だ。紫陽花柄で、紫と青の浴衣。浴衣くらいなら、着崩すことなくなんとか一人で着られるようになった。


「おはようございます」

「ん、おはよう。どう、体の調子は」

「問題ないです」


 台所でヒヅキさんは味噌汁の味見をしながら、卵を焼いていた。今日はその下にハムが敷かれている。マヨネーズも見たけれど、こうして加工食が出てくるとヒヅキさんが妖であることを忘れかけてしまう。フライパンを握るヒヅキさんの右手の目玉と目が合って、すぐに思い出すけれど。


「あの、化け猫さんは?」

「まだ寝てる。あ、その、そこの皿取ってくれる?」

「そうなんですか……。はい、これですか?」


 皿は二枚、卵も二つ。化け猫さんの分はないようだ。たぶん、あとで化け猫さん用に作るのだろう。

 ヒヅキさんは器用にフライパンの上でくっついた白身を切り、皿に乗せる。それを私に手渡すと、次にまた違う皿を取り出して、漬物を盛り付けた。さらに魚の切り身を焼いたものも追加で出てきた。

 私は目玉焼きを運ぶと、腰を下ろして待つ。しばらくと経たないうちに、ヒヅキさんはお盆に乗せて全部運んでくる。


「いただきます」

「ん」


 ヒヅキさんは細い見た目にそぐわず、よく食べる。今だって、私の倍くらいはある茶碗で米を食べている。食べるのは好きなようだ。あっという間に無くなる。最初に言っていた、食べる楽しみ、ということだろう。

 自分で食べるからだろうか、ヒヅキさんの作るごはんはおいしい。ただ、食べていると無性に胸の中心あたりがざわざわして、おいしいのに苦しくなるのだ。おいしいけれど、なぜだろう――


「昨日、あのひとに名前をあげたんだって?」

「あ……はい。すえひろがりの、ハチさんと」

「安直だねえ」

「はあ、すみません」


 昨日、社の中へハチさんを運び入れると、ヒヅキさんは祭壇の上に座って出迎えてくれた。どうやら、心配して待っていてくれたらしかった。

 ヒヅキさんは、意識のないハチさんを軽々と抱え、部屋へと運んだ。

 ――「今は気を失っているけれど、たぶん大丈夫。あなたが気負うことはないよ」

 と、それだけを言って、ヒヅキさんはそのあとを深く尋ねなかった。私は居間で待ち、しばらくして戻ってきたヒヅキさんは何事もなかったようにしていた。そのまま一緒に夕食を摂り、ヒヅキさんはハチさんの分まで、けろっと食べつくしていた。


「ハチさんが自分で、ヒヅキさんに?」

「そう、あのひとがね、夢うつつのまま嬉しそうに教えてくれた」


 よかった、これでしばらくは大丈夫だと、ヒヅキさんは味噌汁を啜った。

 ヒヅキさんも、同じことを言っている。


「あの、ヒヅキさん。もうしばらくは、ってどういうことですか」


 そう尋ねると、ヒヅキさんは口に丸めたハムを入れようとしていた手を止める。ぎょろ、と露わになっている目玉が一斉にこちらを見た。

 ヒヅキさんの体の目玉は瞬きのタイミングはてんでばらばらだし、きょろきょろと揺れていることのほうが多い。だけど、本人の意識が向いた時に一瞬、顔の二つの目と額の目に合わせて、体の目玉も一斉に同じ方向を向く。

 と、そのことに気づいても、いざ見られると緊張する。ヒヅキさんはそんな私の様子を知っているようで、すぐに体の目玉はあらぬ方を向くのだが。


「……名前はとても大切なものだって、言ったよね」

「はい」

「だから、人の子は名前を縛って、妖を縛ることがある。いわゆる術が、多くこれにあたる」


 ヒヅキさんは箸を置いて、私の目をひたと見据える。


「前も言ったように、名前に関する縛りは人と妖の間でしか成立しない。神がかかわってくるとまた別だけれどね。そもそも術が、人の生み出したものであるから。それでね、あなたが昨日、あのひとに名前を与えた行為だけど」

「――――」

「それは、式の契約。自分の配下として操ることのできる契約だ」

「え、あの、ちょ、ちょっと待ってください!」


 なに、それ。私はそんなつもりは微塵もなかった。ハチさんを使役したいだなんて――思ってもいない。


「落ち着いて、それはわかってるよ。ほんとうに式の契約が完了していたらあのひとはもっと力強く存在している」

「でも、ほんとうに」

「うん、だからね、あなたのした契約は一方的で不完全なんだ。あのひとが消えてしまうことを一時的には防げるけれど、ずっとはもたない。あなたが名前を憶えているだけよりは、幾分ましだけど」


 ヒヅキさんはゆっくり言葉を紡ぎ、わかりやすく言ってくれる。


「ほんとうは、俺も名前を聞き出してくれたらいいなって思ってたんだけど……まさか本人も憶えていないなんて」

「ヒヅキさんも、ハチさんが名前を忘れてること、知らなかったんですか?」

「あー、うん。まさかこの十数年で名前まで忘れちゃうとは思いも……」

「十数年?」

「……いや、それより、先に式の話をしよう」


 余計なことを喋ったとばかりに口を抑える素振りを見せ、ヒヅキさんは話題を変えた。

 私も、気になりはするけど、ヒヅキさんが隠そうとすることまで首を突っ込む気はなかった。隠すのには理由がある。


「大切なことだから、ちゃんと覚えていて。最初に言ったとおり、あなたの名前、ちゃんと隠しておくんだよ。式の契約は、あなたの名前を教えることで成立してしまう。その選択権はあなたにあって、あのひとにはないんだ」


 最初に言われたとおり、己の身を守るために名前は隠すべきだ。そして、ハチさんを式にする気がないのなら、名前を教えるなと。名前はいっそう隠すべきである、と自覚する。

 ――だけれど。


「その、名前を教えたら、式の契約は成立するけれど、ハチさんは、しばらくじゃなくて、生きられますか」


 アカガネさんに言われたからではない。私も、あの時、考えなしだったと思うのだ。

 名前は大切なものだと聞いて。それよりも前に――ハチさんが、ほんとうに助かって嬉しかったかを、私はまだちゃんと聞いていない。


「生きられる、だろうね。少なくとも、あなたが死ぬまでは」


 その答えに顔を上げる。何ら変わらないヒヅキさんが無表情のまま言う。「ただし」


「だけど、あなたは術師になれるまでの才はない。力のない術師が自らの式に殺されることだって少なくはない。もしもそうなれば、それは、あのひとが一番望まない結末だ」

「望まない結末……」

「うん、そう。だから、名前を教えないこととあのひとを忘れないでいることだけちゃんと守って」


 そろそろあのひとを起こさないと、と言って、ヒヅキさんは食べ損ねたハムと残りの卵をぺろりと頬張り、咀嚼もそこそこに飲み下した。ハチさんを起こしに居間を出て、私はひとり残された。

 皿に残った卵を一口大に分けて、ちからなく咀嚼する。どろりと半熟の黄身がこぼれ出した。皿の上に広がり、醤油と混ざり合う。

 アカガネさんの言っていたことが、じくじくと耳の奥に蘇えり、膿んでいく。


 ――「でも君に会えたから、わずかばかりに命が伸びた。生きたくもないのに命が伸びた」

 ――「今もそうだ、君は永遠に彼を助ける方法など持ちはしないのに、不用意に名を上げた」

 ――「それがどれほどつらいことなのか、君は知らないのにな」


 ハチさんは嬉しそうにしていたけれど、私は、余計なことをしたのだろうか。やはり私が出来ることなど、なかったのかもしれない。ヒヅキさんはきっと、人なら誰でも良かった。

 ヒヅキさんが戻ってくる前に、朝食を食べ終えた。皿をヒヅキさんの分も一まとめにして、流し台に置く。ほんとうなら洗い物もしておくべきなんだと思うけれど、ヒヅキさんはあんまりものに触って欲しくなさそうだったから、やめておく。

 居間を出て、祭壇の横を抜け、外へ出た。



  *


 寒い。

 家の中にいる。暖房も付いている。布団にもくるまった。それなのに、寒い。

 病院特有の消毒液のにおいが鼻の奥へ残っていて、息もし辛い。苦しい。おかあさん、と小さく呟いてみても、返事はない。当然だ、おかあさんは今、病院だ。

 青白いおとうさんの顔。瞼の裏に濃く焼き付いている。よく眠っているようだ、なんていうけれど、おとうさんの顔はまるで生きているようには見えなかった。あれは、確かに、死人の顔だった。

そう。電話を受けたおかあさんが真っ青な顔をして、言ったのだ。

 ――「おとうさんが、事故で亡くなったって」

 そのあと覚えているのは、病院の白と、おとうさんの顔の白と、そのおとうさんが着ていた白だ。

 部屋の中が寒い。どうしてこうも寒いのか――心細いからか。

 おかあさんは立ち尽くす私をこうして家へ帰した。これからいろいろすることがあるからと。

 いわれるままに帰ってきたけれど、やはり、一緒にいけばよかった。一人でいるせいか、思い出したくないことまで思い出されてしまう。

 おとうさんの白い顔。

 寒い。




 寒い。

 寒くて、怖くて、初めて震えている。物好きな男が欲しいというのは、言ってもらえるのは光栄だということも分かる。こんなところ早く抜け出して、自分のことをいとしく思ってくれる相手に買われたいと願っていたのは誰でもない自分だった。そしてそれは訪れるはずのない奇跡で、欲しいと言い寄る男は穏やかで優しい男だった。ほんとうに、願ってもない奇跡のはず、だったのに。

 でもだめだ。こわい。こわくて、こわくて、こわくてどうしようもない。あの男に買われてしまえば、すべてが色褪せる。なんの意味も、なくなってしまう。そんな焦燥が恐怖とせめぎあって、息ができなくなる。

 抱えたぬくもりが、慰めるように身を捩る。その小さなぬくもりをぎゅうと抱きしめ、恐ろしさに耐える。

 寒い。




 寒い。

 真っ白な空間にいた。

 ぼそぼそと話し声があって、人の気配が空気を波立たせている。それと同じように、視線が私の周りに絡みついてくる。それにきゅうと首を握られたようで、息が詰まる。

 話し声の後ろにずっとあった平坦な音がお経であることに気付くと、次いで木魚の音が大きくなった。話し声と混ざって反響して、ぐわんぐわんと鼓膜と視界を揺らした。私は立っていられなくなり、その場へ倒れこむ。

 倒れこんだそこにあったのは、白い棺。知らないうちに着ていたものが白い着物になっていた。白い着物、左前――死装束だ。

 棺に敷き詰められた白い花がずぼっと沈む。足の先から花に包まれていく。花の下には底などないかのようだった。あっという間に花の中へ落ちてしまい、視界は真っ白に戻る。

 寒い。




 寒い。

 体は抱えたぬくもりすらも感じられなくなるくらい冷え切った。指先の感覚も、足が地に着いている感覚すらも怪しく、かろうじて意識があると自覚できるだけまだよかった。ここに留まってもいられない。

 履いてきた草履は雪と泥と枯れ木によってぼろぼろになったから捨てた。そのせいで足は霜焼けなのか血なのか、真っ赤になってしまっている。持ってきたわずかばかりの銭も底を着いた。町を抜けて、しんしんと雪の積もる林の中を走るうちに着物は水分を吸って、重さを増し、体力と体温を容赦なく奪っていく。破けた裾が木の枝に引っ掛かり、破け、冷たい空気が肌を刺す。

 けれども、それでも、止まることは許されない。止まれば終い、終いは即ち死。自分だけではなく、もう一つ分。走らなければと、躓きながらも足を出す。

 寒い。




 寒い。

「――ちゃん」

 意識が浮上する。呼ばれている。とても優しい声音だ。なんとなく心地よくて、呼ばれるままに目を開いた。

 そこには、穏やかに微笑むおばあちゃんがいた。おばあちゃんは冷えたお茶のポットを片手に持ち、ちゃぶ台の上には見慣れたお茶菓子が並んでいる。私の好きなものもちゃんとあって、そういえばおなかがすいたかも、と思い至る。むくりと体を起こした。

 おばあちゃんが氷の入ったコップにお茶を注ぐ。こぽこぽという音に、風鈴の音。おばあちゃんの向こうの縁側は夏らしい緑に満ちている。

 おばあちゃんがかけてくれたのだろうか、羽織を肩から落とす――

「……ッ」

 肌に鳥肌が立つほどの、寒さを感じた。慌てて羽織りなおした私を、おばあちゃんが不思議そうに見る。今度は、羽織に袖を通しても、寒さは消えなかった。寒い。

 寒い。おばあちゃんが首をかしげる。

 寒い。はっきりとした光を受けるコップは汗をかいているのに。

 寒い。おばあちゃんの目が金色に光る。

 寒い。ざわ、と風が吹き込んだ。

 寒い、寒い、寒い寒い寒い寒い――




「――……おい、起きろ。おい、おまえ」


 がくん、と、衝撃が体に伝わった。その反動で目蓋が開いた。詰まっていた息が風船が破裂するように喉を抜けた。苦しさに涙が出て、げほげほと咳き込む。反動で閉じた目蓋をうっすら開けると、そこに、木漏れ日を受けてやわらかく光る白い髪が飛び込んできた。次いで、緑と青の目と目が合う。


「はち、さん」

「大丈夫か。ゆっくり息を吸え」


 ハチさんが体を起こすように言ってくれ、体を起こすと咳き込みはいくらか楽になった。だが、頭が痛い。内側から頭が割れそうだ。治まった咳の代わりに吐き気が込み上げてくる。苦しい。苦しい。

「だいじょうぶか。こんなところで寝てると思ったら……」

「寝て、た」


 首をわずかに回すと、石畳が見えた。階段だ。神社の前の、階段。私はこんなところへ倒れていたらしい。

 神社を出て、それで、そのあとの記憶がない。気付いたらここで眠ってしまっていたようだ。日が高い。林の木は背が高いので、正確にはわからないが、正午はとうに過ぎているようだ。

 いったいどれほど寝ていたのだろう。


「なんか、気付いたら」

「気付いたらあ?」

「それで、なんか、夢見ていたような気がします。あと……寒い、です」


 夢の内容は、覚えていないけれど。それどころではない、吐き気の苦しさは留まるところを知らず、ひどくなる一方だ。口を開けば戻してしまいそうになるくらいだ。

 それから、なんだかとても寒かった。夏だというのに寒気が背中を走ってやまない。見れば、袖の下の腕がひどく粟立っていた。

 ハチさんは、顎に手を当て、神妙な顔をした。そうして「まずいな」と口の中で呟いた。


「社へ帰れ。それで、可能なら人の世へ帰った方がいい」

「え……」

「いいから行くぞ」


 ハチさんは、無理をしてでも立てと強い語気で言う。口に手を当てて、なるべく頭を揺らさないようにして歩く。「おまえが先を歩け」と手で示されて、先に立たされたのはよかった。私は素直に従い、階段を上る。ハチさんは猫だからだろうか、足音がほとんどしないのだけど、来ていることはなんとなくわかる。

 境内に上がり、社へ入る。祭壇の横を抜けて、居間へ入ると、ふわっと甘い匂いがした。吐き気を助長させるかと覚悟したが、ほとんどそんなことはなかった。


「あれ、おかえり。どこ行ってたの?」

「ヒヅキ。こいつ、もうまずい。さっさと返さねえと、オレと縁が出来ちまったから」

「……ああ」


 私の代わりに、ハチさんが答える。ヒヅキさんはすっと目を細め、「まあ、とりあえず座って」と促した。

 一度台所へ戻ったヒヅキさんは、甘い匂いのする皿をもってきた。


「暇だったからおやつにと思って、パイ焼いたから。食べながら話しよう」

「……アップルパイ、ですか?」

「そうそう。食べて。わりと上手く焼けた」

「食べて、って……」


 吐き気がしている中でそんなものはとてもじゃないが――しかし、ヒヅキさんはそれでも推して来るので、一口、ほんとうに一口だけ含んだ。戻したらどうしよう、ここで吐くわけにはいかない、お手洗いまで持つか、いや外の方が早いか――と巡らせた思考は無駄に終わった。しっとりと甘い林檎の風味が舌に乗り、飲み込めばせり上げてきていた吐き気が嘘のように消えるのが分かった。


「そういう妖の事情なら、人の世のものを食べて誤魔化すのは上策だからね。食べられるなら、たくさん食べな」

「あの、ヒヅキさん、なんでも作れますね……」

「ここにいると、食べたいものは自分でなんとかしないとだからね」


 一つ、熱々のアップルパイをいただく。今度は果肉も含めて頬張る。じゅわと熱い角切りの林檎が口の中へあふれる。舌が熱さに驚き、次いでとけるような優しい甘さが幸福感を満たす。と平行して、吐き気は甘さに溶けてなくなっていくのが分かる。


「吐き気はない? 味は?」

「あ、おいしいです。甘いし、すごく」

「そう、ならだいじょうぶだ」


 ヒヅキさんのその判定に、ハチさんがほっと息を吐く。その意味が分からない私は首を傾げる。


「ほんとうにこちら側に近付きすぎてると人の世の食べ物に味を感じなくなるんだよ。まあ、もう毎食食べてるから体自体は人の世のものになれているみたいだし、だいじょうぶ。――問題は縁のほうかな」


 そういえば最初にご飯を食べたときもきちんと美味しく食べられた。ということは、アカガネさんによる暴飲暴食でも確かに一晩では変えてしまうのは無理だったのだろう。


「さて、あなたのことだけれど」


 ヒヅキさんが二切れ目をぺろりと食べ終わったところで、話は本題へ入った。私が一切れ食べる間に二つだ。熱くなかったんだろうか、と場違いにも思ってしまう。


「まあ、早い話が、あなたをここへ留まらせるほうが危なくなったみたい。あなたと妖との縁が出来てしまったから。幸いあなたの中から幽世のものはある程度抜けたし、これならもう帰っても大丈夫だと思う」

「はあ……そうなんですか」


 あまり話に理解が追いついていない私。ヒヅキさんは「このまま残ると危険がいっぱいなんだよ」と重ねて言う。


 ヒヅキさんは自分の皿に三切れ目のアップルパイを確保した。


「さっき、社を出てすぐに意識なくなったって言ってただろ。それは、こっちにおまえが馴染み始めて、土地そのものに誘われてるんだ」

「土地、そのもの」


 ハチさんは一切れのアップルパイを確保したきりまだ手を付けていない。熱くて食べられないのだろう。

 土地に誘われる、と言われてもどういう状況なのかいまいち想像できない。

 踏み入れた島が実は鯨の背でした――とか、そういうことだろうか。


「このかがみの土地は昔から禍(まが)つ土地なのに、ここのところはずっと力不足だからな。力のある人の子を取り込もうとするんだ。だからこそここはもう人が簡単には入れないようになっている。おまえもここへ来るとき、古びた木戸を通っただろ」


 アカガネさんの背中しか覚えていない――ということはなく、確かに私は古びた木戸を通ってこちらへやってきた。暗くてよくわからなかったけれど、あれは木戸だった。人気の無い、灯りもない、そんな道の先。

「昔はもっと重なってたんだ、人の世と妖の世。だから簡単に行き来も出来た。だけど、ここの主がそれを切り離して――でも完全に分けてしまうのは無理だったから、あの木戸で繋げた。それからは、不安定なんだ。力を求めている。主の力は住まう妖たちにはいいが、土地には足りてない」


「十年くらい前まではあなたが遭った百鬼夜行もできないくらい、明確に分けられていたんだけどねえ」

「ええと、つまり、その、土地に誘われるって、どういうことですか」


 土地の成り立ちはなんとなくわかったけれど、実際誘われるということに皆目見当がつかない。


「まあ、一言でいえば、土地に喰われる――この土地に吸収されて養分になる、みたいなことかな」


 土地と完全に一体化し、生まれ変わることも許されない。それなのに自我は残るから、永遠この地でどこへも行けずに囚われることとなる。その苦しみたるや、きっと誰の想像も絶するだろう――と。

 ヒヅキさんは語る。

 どこにも行けないというのは、どういうことだろう、とふと考える。

どこにも帰れないのと、どちらがつらいのか。私はどこにも帰る場所がない、ないならば、帰れなくても、さして変わらないのではないか、と。


「そういうふうに取り込まれえちゃったひとって、いたんですか?」

「いるよ。そこそこ、それなりの人数、十年もあればそれはそうもなるよ。外の林は、そういう人のこころが落ちて、沈んで、根を張っている。だから俺もあんまり入らないんだ、のまれちゃうから」


 暗い闇の底のような階段の底の見えない黒を思い出す。もしかしたら、あれはそういうひとの苦しみがどろりと染み出していたのではないだろうか。このあたりには詳しいだろうヒヅキさんが私を向かわせたから、あの時間帯にいること自体は別段問題はないのだろうけど、あれは、触れてはいけないものだったのかもしれない。

 そこで、私はあることを思い出す。林が土地に飲まれた人たちのこころがあるなら、あの時のあれは。


「ヒヅキさん、あの、私ハチさんを迎えに行ったとき、あの林でアカガネさんを見ました。ヒヅキさんが、話しかけられても返事するなって言っていたので、私、返事はしなかったんですけど」

「アカガネ?」


 ヒヅキさんと化け猫さんは同じように目を見開き、顔を見合わせて、「それか」とどちらともなくつぶやき、ため息を吐いた。


「あなたが急速にここへ誘われ始めたことの意味が分かった。それは確かにそうだ、あなた、ここで最初に縁を持ったのはアカガネだったね」


 ヒヅキさんは押入れのほうをちらと見遣り、再度ため息を吐く。その視線の先には、鮮やかな赤がはみでていた。見覚えがある。アカガネさんの羽織だ。私が借りた、羽織。返されずにあんな雑に仕舞われていたのか。


「やっぱり先に返しとくんだったかなあ。祭壇より内側にあいつのもの入れちゃだめだね、やっぱり」

「ヒヅキ、おまえそういう抜けてる癖どうにかしろよ、いまに取り返しつかなくなるぞ」

「まったくだ」


 ヒヅキさんはおもむろに立ち上がり、その雑に突っ込まれた羽織を強引に引っ張り出す。しわの寄ったそれを軽く何度かはたくと、ヒヅキさんは居間の外へ放り出した。

 話の流れから察するに、あの羽織を返さなかったことも関係しているらしい。


「そうはいってもねえ。そうして林のアカガネが言葉をしゃべるくらいだと、出歩いてるほうには会えないんだよね」

「おまえ、探し物は得意だろ」

「得意だよ。いろいろよく見えるからね。でも、アカガネは違う」


 ヒヅキさんは、はあと三度ため息をつく。アカガネさんの名前の件といい、アカガネさんはどうも異例づくめのようだ。

「アカガネはねえ」


 祭壇と今との間の戸を、立てつけが悪いにもかかわらず、勢いよく扉を閉めた。ばあんという音が強く部屋の中へ響き、びりと肌が強張った。


「アカガネは、鬼だって言ったけど。ほんとうは鬼神と人との相の子なんだ」

「半分人、ってことですか?」

「昔はね。今は、もう鬼だよ、ああやって出歩いているほうは。人のほうは早々に――この地に食べられてしまった」


 ヒヅキさん曰く。

 アカガネさんは、鬼神と人の男との間に生まれた子なのだそうだ。父親は人の子だから、アカガネさんが満足に成長する前に亡くなってしまった。会ったことがないはずはないけれど、彼は父の顔を覚えていないという。今となっては、彼がなくした人の部分にそういうものがあったのかもしれないが、鬼となったほうには何も残っていない。

 母も、人々に忘れられ、その力を失い、消えた。

 鬼神といっても、どちらかといえば妖に近しい存在だった母親は、人々に覚えていられて、信仰を受けることで力を保っていたのだ。

 一人残されたアカガネさんは自分もそうなることを――ひどく恐れている。


「人の部分をこの地へ与えてしまうことで、アカガネは完全に鬼となった。かがみの地から出ることは叶わなくなったけれど、かがみの地にとってなくてはならない存在になったから、あの子が消えるのはかがみの地の死の時。あの子はそれが信じられないから、名前は隠さないし、自己主張も激しいんだけど」

「だから、あの林にいたんですね」

「そう。あなたが返事をしなくてよかった。人の子なら、返事をしただけであの林に引き込まれただろうから。俺が羽織を返してないせいで縁が弱まらなかった、っていうのもあるけれど……それは、ごめんね」

「あ、いいえ……」


 ヒヅキさんが頭を下げるのにつられて私も頭を下げる。

 どうも、納得がいった。アカガネさんは力を求める土地に半身を上げてしまったから、喰らえる存在を探しているのではないだろうか。だからきっと私も、連れてきたのではないだろうか。


「そろそろ帰って、人の世に触れたほうが早い。だから、今夜にでも、送り届けるよ」

「はい……」


 帰るのは少しばかり憂鬱ではあるが。

 ふたりは私を案じてくれているのだ。無碍にするわけにはいかず――まして、ずっと世話になるわけにもいかない。

 帰るのは今夜、日付が変わるか否かのときだという。あの木戸があちら側と繋がるのが夜中の数時間だけなのだそうだ。向こう側も同じく夜中だけど、それは仕方ない。

 夜中を待つまで、私は社の中にいるよう言われた。あの、アカガネさんだけれどアカガネさんではないあれは土地そのものと言って差し支えはなく、一人でいるのは危ない。だけど主の眠るこの社の中は土地の干渉を受けないという。

 夜まで、暇だ。荷物らしい荷物などない。来たときの寝巻きくらいだ。

 居間でぽけっとしていると、ハチさんが来た。外へ出ていたらしい。口元を覆う布を外し、袂へ仕舞う。


「暇そうだな」

「暇です。やること何にもないです……どうせなら宿題でも、持ってくればよかった」

「しゅくだい?」

「あ、学校の、夏休みの……」


 いや、何を言っているのだ。私、宿題は/なんて全部実家においてきてしまったじゃないか。ろくな荷物も持たずに飛び出してきたのを、忘れたのか。


「どうした?」

「いえ、宿題は、そもそも祖母のうちに持ってきてもいませんでした」


 ハチさんは首を傾げる。


「やらないと困るものか」

「……学校に、提出しなくちゃいけないですし」

「学校」


 ふむ、と頷くと、ハチさんは私の正面の席に座った。机の上の、茶菓子に手を伸ばす。ヒヅキさんが置いて行ったものだ。今回はこしあんの薄皮まんじゅうだった。


「いい傾向だ」

「いい?」

「そりゃそうだろう、帰ったあとのことをちゃんと考えている」


 小さなまんじゅうを口へまるまる放り込んで咀嚼する。

 帰ったあとの心配――といえば、そうか。そうだ。少し安堵する。一応、私は、帰る気でいられているらしい。あれほど帰れないことに安心していたのに。

 母と顔を合わせられるかは、わからない。母と対峙するときの自分の姿が、想像つかない。

 考えてみればそうだ。夏休みが終われば学校がある。母が学費を出して、行かせて貰っている学校だ。夏休みだけだ。このひと月ほどが、好きに出来る唯一だった。

 きっと、帰れば私は母の再婚に反対できない。母がそうするというのなら従うほかはないのだ。私は反対した後の重圧に耐えられまい。


「ま、深く考えんな。この三日くらい忘れるくらいひとの世界のことを考えたらいいさ」

「それ、ハチさんのことも忘れちゃうじゃないですか。そしたら、ハチさん、消えちゃうんでしょ」

「オレはもうだいぶ生きたしな」


 とはいうけど、ハチさんは今精神が落ち着いているのだろうと思う。名前が存在を確定するなら、忘れていたときはたぶん、すごい不安定だったはずだ。私がこのひとのことを忘れることがあれば、きっとこんなふうにはいえなくなる。


「……忘れません」

「ありがたいけどな」


 ふは、と笑みを零す。最初はこんな優しい笑い方はしなかった。反面、穏やかなこの姿こそ、彼の本来の姿なのだろうとも思う。本来の自分で在れることはきっといいことなのだろうけれど、私がそうさせてしまったと思うと、少しだけ怖くなる。私が影響を与えてしまってよかったのだろうか、と。いや、ハチさんがいなくなることよりもずっとよいのは確かだから、気にしても仕方ないのだ。そういう考えを脳の端に追いやり、蓋をした。

 湯のみに視線を落とし、お茶に映る私を見た。私は、どこへ行けばいいのだろう。ハチさんのことを忘れずにいられるだろうか。母とまだ、一緒に暮らせるだろうか。結局私は何をすれば――と、思っていると、私の背後に移動し、腰を下ろした。ハチさんの体温が、背中合わせに伝わってくる。あたたかい。


「ハチさん?」

「だいじょうぶだ」


 あとはずっと、ただ無言がそこに在った。不思議と居心地のいい、あたたかな無言。背中に感じるぬくもりに、少し安堵した。



 その夜。

 「オレはここへ残る」と、留守番を申し出たハチさんに見送られて、私は社を後にした。ほんとうならここには社守であるヒヅキさんを補佐するひとがいるらしいのだけど、私がいたから、ここ数日はずっと席を外しているらしい。だからハチさんが代わりに留守番をするのだ。

 昨日とは打って変わって、道を彩る灯篭が明るく、林の方はほとんど見えない。この灯篭は、ヒヅキさんが毎晩つけているのだそうだ。朝になるとひとりでに消えるが、夜はつけて、林の魂に惑わされないようにするためらしい。

 昨日はアカガネさんが出てきたために、日暮れがすこしばかり早まっていたのだという。実際の時間ではなくて、あの林の周辺だけが。


「さて、俺の袖掴んでいてね。はぐれると面倒だし」

「あ、はい」


 ヒヅキさんの袈裟の袖を小さく掴む。「じゃあ行こう」と、ヒヅキさんが歩き出し、提灯を持っているのとは反対側の脇に抱えた錫杖がしゃらんと鳴った。

 ヒヅキさんに借りた羽織には袖を通さず、頭に被っているため、落としそうだ。これも人の子の匂いを隠すためのものらしく、いい匂いのする香が焚き染められている。最初に貸してくれた着物と同じ匂いがする。あれも魔除けの香だったのだろう。

 妖であるヒヅキさんがどうしてそういうものを扱っているのかは、疑問ではある。


「ヒヅキさん、その錫杖はなんですか」

「これは俺の武器みたいなものかな。たたいたりすると少し強いよ」

「たたくんですか」

「冗談」


 冗談だった。叩くものでもないから騙される私も私か。


「俺がそこにいないと認識させる――まあ、一種の結界を張るための媒体かな」

「結界」

「そう。俺は道具なしに結界張るのはにがてだから」


 そうしてヒヅキさんはしゃらんと音を鳴らした。

 遠くで祭りの喧騒が聞こえる。

 今日は広場の方を通らず、暗くて人通りのない裏道を通っている。うっすらと空が広場の篝火を映して明るく、その所為か目の前が暗く感じる。ヒヅキさんは迷いなく進んでいくけれど。


「こっちは広場の方と違って不安定だからねえ。俺とか、よっぽど妖力強いひとじゃないと迷うの。あなたも俺と離れたら一瞬で迷子になるよ」

「離れないようにします……。ヒヅキさんは妖力、強いんですか?」

「俺? 俺はぜんぜん。すごい弱いわけでもないけどね。俺は、ほら、百目だから。いろいろよく見えるんだよ」

「なるほど」


 一つ角を曲がる。石畳が剥がれかけた細い道が続いている。


「それと、あんまり喋らない方がいいよ。この錫杖の音がちゃんと響かないと、意味がない」


 と言われ、私は口を閉じた。遠い笑い声と涼やかな錫杖の音に縁取られた沈黙が降りる。

 角をもう一つ曲がる。緩やかな坂を下り、二、三段の段差を降りた。暫く行くとまた少し坂は上を向いた。入り組んだ道だ。確かに、一人であれば一瞬で帰る道も行く道も分からなくなるだろう。

 空を見たり、続く道を見たりするだけで意識がぐらついてヒヅキさんの袖を掴んでいる感覚も見失いそうになる。視界も揺れて、吐き気を覚えてしまう。それは困る。だから、ヒヅキさんの足だけをじっと見つめることにした。

 しゃらん、と錫杖の鳴る音がする。ざり、と土を踏む音がする。

 そうして進む。

 やがて、件の木戸へ辿りつく。

 ヒヅキさんが、ぎいと押し開ける。生温い風が、頬を撫でた。

 先にヒヅキさんが潜り、私が通り、木戸は閉じられた。しん、と静まり返る。この辺りは誰も住んでいないのだ。文字通り、夜の静けさがそこにあった。

 空き屋街を抜け、人の気配がする町へ帰ってきた。人の気配というのは、意外と分かるものなんだな、と思う。アカガネさんや、ハチさんとはぜんぜん違う。みんな眠っている時間だというのに、その寝息すらも感じられるような気さえする。

 足が少し、重くなる。あと、二キロほどだ。歩けばすぐ着いてしまう。一歩出す足が重くなるのは、必然だった。ヒヅキさんとの歩幅にズレが生じる。それに気付いたヒヅキさんが、一度足を止めた。


「だいじょうぶ」


 と、ハチさんが言ったのと似たトーンで、言う。

「だいじょうぶ。あなたはちゃんと愛されているよ、だから、安心してお帰り」

「……はい」


 ヒヅキさんが私に歩幅を合わせて、ゆっくりと歩き出した。

 ヒヅキさんも、ハチさんも。

 どうして分かったように大丈夫だなんていうのだろう。

 祖母の家が近づく。祖母の家だけ、電気がついていた。深夜もいいところだ、この時間に祖母が起きているなんて――

 ヒヅキさんが躊躇なく、インターフォンを押す。それはもう、ほんとうに一切の躊躇なく、私が覚悟を決めるとかそんな時間さえも与えることなく。

 ばたばたと足音が近づいてくる。たぶん、居間にいたのだろう。思わずヒヅキさんの後ろへ隠れる。

 勢いよく戸が開けられる。ヒヅキさんの背中から覗き込んで、泣き腫らした目が、まず見えた。次いで、濃い隈。その目が、大きく見開かれる。


「緋織……!」

「お、かあ、さん」


 盾にしたヒヅキさんがいつの間にか横へずれ、私は覚えのある匂いに包まれた。化粧の残り香が混じったそれは、紛れもなく母のものだった。母はただ泣いていた。泣いて、私を軋むほど抱きしめた。

 なんで母がここにいるのか、私はわからず、ただ呆然と、「おかあさん」と呟いた。母は実家が好きではなかった。家を出てから一度も帰ったことがないと、結婚したときでさえ、帰りはしなかったと言っていた。それなのに。

 祖母が遅れて出てくる。母が私を抱きしめているのを見て、祖母も安堵したかのように眉尻を下げた。ぼろぼろと涙を零し、顔を覆った――

 視界の外にいたはずの、ヒヅキさんがふらりと祖母の傍へ行った。零れる涙をその指で掬い、いや、その涙はヒヅキさんの指をすり抜ける。それを見てヒヅキさんはわずかに目を細めて、

「あなたの孫は、ちゃんと帰ってきた。ごめんね、三日も借りて」

 と、囁くような声で、実際祖母にだけ聞かせるように囁いたのだ。当然祖母には聞こえていない。祖母は隣にいるヒヅキさんにはぜんぜん気付かない。顔を俯かせ、髪に表情隠したまま「ごめん」と呟く。そうして、ふわりと離れ、私に「あなたの体がもとに戻るまで何度かまた来るね」とひそやかに告げ、帰っていった。

 私はそれらをただぼーっと眺めていた。だって、それよりも疑問があった。




「おかあさん、なんでここに」


 




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