第二話 「真っ白な猫、赤い鬼 後編」


 ずきずきと脳の奥が痛む。吐き気がせり上がってくる。

 この感覚はなんだったか。私はよく知っているように思う。そうだ、半年前の、葬式会場だ。あそこで、私は――


 ふいに意識が浮上して、ああ目が覚めたのかと思った。瞼の裏まで届く薄明りが夜の終わりを知らせた。体を起こす。

ずきっとこめかみが痛んだ。思わず目を強くつむる。ひどい頭痛だ。喉も強く乾いている。先に冷たい水を――


「ああ、起きたの」


 知らない声に、すっと目が冴える。

 よく見れば朝陽がちゃんと入るあの部屋じゃない。朝だということはわかるが、暗い。畳ではなく板の間で、布団も薄い。ここはどこだ。昨日の夜、何があったんだっけ。思考を巡らせるよりも早く、声の主がするりと視界に入ってきた。


「具合はどう、昨日アカガネの奴にひどく呑まされたみたいだから、二日酔いだと思うけど」


 着物を適当に纏い、壁際で胡坐をかく男。鴉の濡れ羽のような黒髪が印象的で、それ以上に――露出した肌にあるたくさんの目玉が、意識を覚醒へと誘う。


「俺の見た目が怖いのはわかるけど、まあ、それで意識がはっきりするなら手間がはぶけていいね。どう、昨日のことはわかる?」

「アカガネ……さん」


 その目玉がたくさんある男の人は、何かを切りながら問う。

 先の名前と思われる単語を、繰り返すように口に出してみると、その名はとても呼び慣れた感じがした。

 そうだ。アカガネさん。昨日は彼に連れられて、妖たちの町へ来たのだ。そこでなんだかたくさんの水――二日酔いというのだから、酒だったのだろう――やら食べ物やらを食べさせられた気がする。そのあとは――どうなったんだっけ。


「アカガネは人の子が好物だからねえ。あなた、あのひとが助けてくれなかったら今頃食べられていたよ」

「あのひと」

「そう。白い毛並に左右色の違う目の化け猫にここまで連れてきてもらったでしょう」


 そうだっけ?

 ああ、いや、そうだったかもしれない。目の色までは覚えていないけれど。夜に浮いて見える白に手を引かれた気はする。確か、アカガネさんに名前を訊かれて、答えようとしたところでそのひとが来たのだ。記憶が少しずつ鮮明になってきた。そして走ってきて、どんどん暗いほうへ行って、結果この青年に会って、その目玉の多さに驚いて、そのほかにも理由はたくさんあるだろうけど、とにかく気を失ったのだ。


「それで、そのひとは」

「あなたをここへ放ってさっさと帰ったよ。まったく、あのひとは意地張りで困るね」

「それじゃあ、あの、あなたは」

「俺はヒヅキ」


 纏った着物の裾から覗く肌に無数の目玉があるその妖――ヒヅキさんはそう気だるげに答えた。ヒヅキ。昨日、聞いたような名だった。誰に聞いたんだったか。

 ざるの上に、ヒヅキさんが切り落とすものがぱらぱらと落ちて溜まっていく。


「ヒヅキさん。私は」

「いい、いい。あなたは名乗ったらだめだ。ケンキを持つ人の子よ」


 ヒヅキさんは両目の視線をあげないまま片手を振って私の言葉を遮った。そうしてこの人もまたケンキという言葉を口にした。

 アカガネさんも繰り返し私のことをケンキだと言っていた。ケンキ、嫌忌、建機。思いつく漢字を当ててみるのだけど、どれも違うように思える。首をかしげる私を見遣り、ヒヅキさんは「説明してあげる」と、鋏を置く。

 ヒヅキさん曰く――




 ケンキとは『鬼』を『見』ると書いて『見鬼』。

 総じて赤い目を持った人の子のことを指す。

 ここでいう『鬼』とは人ならざるもの全般で、文字通りの鬼には限らない。アカガネは鬼だけれど。

 見鬼の力は生まれつき持っていることもあれば、途中で目覚めることもある。

 見たところ、あなたはこれまでそういう体験はなかったのでしょう? こんなふうに妖の世に踏み入れしまうことはもちろん、妖を見ることも。あなたは血縁に見鬼の子がいて、そういう家系なのかもね。血縁にそういう子がいると、やっぱり見えやすい子は生まれやすいから。

 見鬼は、人の子が本来交わるはずのない妖を見る力。すなわち、妖(こちら)側に近い力を持った存在ということ。体はしっかり人側にあるんだけどね。

 その目を持つ子は、妖にとってはごちそうだ。

 ええと、まずね。妖は人のように生きるための食事が必要ない。食べなくてもいいんだ、――生きられるだけの霊力が周囲に満ちていればの話だけれど。

 妖に人が必要とする栄養は要らなくて、特に昔はそこかしかに霊力が満ちていたから、ほんとうに食べる必要がなかった。でも人の子は好んで食べられた。なんでだと思う?

 答えは、生きる楽しみのため。別に食べる必要はなくてもおいしいものなら食べたいでしょう? つまりはそういうこと。特に妖を見る人の子の肉は美味しいらしい。妖と関われるだけの霊力を持って、なおかつ妖みたいにからだを持たないわけではない。さらに、おいしいだけには留まらず、見鬼の子を食べれば自分自身、霊力が高まってより強大な力を手に入れることができる、とも言われているよ。だからみんな、一度は食べてみたいと思っている。

 ――それが、見鬼の子。





「じゃあ、ヒヅキさんも、食べたいと、思うんですか」

「いいや? 俺は人の子は食べないよ」


 ヒヅキさんはそこまでを、淡々と無表情で語った。まっすぐに目を見て話してくれるのだけど、ほかの露出した目のほとんどがこちらを向いていて、どの目を見ればいいのかわからなかった。居心地も悪かった。

食べないとの言葉。それが私を騙すための詭弁なのだろう。昨日のアカガネさんの人懐こい笑顔が私を油断させるためと知った今では額面通り受け取ることはできない。

疑いを抱えたまま黙る私を、ヒヅキさんは意にも返さない。置いた鋏を再び拾い、ざるを持って、奥へ入って行った。この部屋との境につりさげられた玉暖簾がじゃらじゃらと音を立てる。動けずにいると、味噌のいい匂いが漂ってきた。


「体調悪いだろうし、とりあえず味噌汁だけ作ったから。食べられるようなら米もあるよ」


 ヒヅキさんは、お盆に二つ椀を乗せて出てきた。さっき切っていたのは乾燥葱だったらしい。白い湯気が立っているのが見えて、気持ち悪さの残る腹の上あたりがきゅうと鳴った。それに厚意は、無碍にするわけにもいくまい。


「……いただきます」

「うん。――まあ、素直なのはいいけれど。食べ物には気を使ったほうがいいよ」

「えっ」


 渡された味噌汁を一口すすり、その温かさに胃がほぐれるのを感じていると、ヒヅキさんが呆れ交じりにそう言った。まるで毒でも入っているかのような物言いに思わず椀を取りこぼしそうになる。


「いや、俺が出すものは別にいいけど、アカガネなんかに渡されたものは人の食べるものじゃないから。あなたはもう昨日さんざん食べたみたいだから遅いけど」


 ヒヅキさんは自分の分の味噌汁に息を吹きかけ冷ましながらちびちびと食べている。


「それ、あの、どういうことですか」

「知らない? 黄泉の食べ物を食べたら帰れないって話」

「黄泉……」

「黄泉ってわかる? 簡単に言えばあの世のことなんだけど。あの世とこの世はふつう交わらない、交わってはいけないから、それを知った生者は元の世界には返してあげられない。逃がしてもいけない。だから――黄泉の食べ物は食べることで、体を黄泉のものへつくりかえてしまう」


 今度こそほんとうに味噌汁の椀を落とした。剥き出しの足にじりっとした痛さが広がる。板の間と膝が大惨事だけれど、それよりも。

 それよりも。

 昨日アカガネさんにもらったそれらは、私の体を黄泉のものへと作り変えてしまったということか。頭痛こそあるが、問題なく体は動く。違和感はない。手をぐっと握り、広げる。痺れる感覚は寝起きだから、だ。


「あーあ、味噌汁こぼしちゃって。これは大丈夫だよ。ちゃんと、人の世の食材使ってるから」

「わた、わたし、もう帰れないのですか」

「ええ? ああ、いや、ごめんね。言い方が悪かった。ここは人の世ではないけど、黄泉でもない。だから、一晩暴飲暴食した程度じゃ人をやめられやしない」


 ただ、との言葉が続く。汚れた床を拭いて、具を椀に戻しながら。


「だからといって、ただの人でもいられない。君を、今は、返すわけにはいかない」


 そんな、とか細く声が漏れた。

 ヒヅキさんは軽く拭き取った後、氷を包んだ布を赤くなった私の足に乗せる。ひりひりとした痛みが緩和されていく。呆然とする私に、新しくよそった味噌汁を差し出した。


「そんなに怯えなくていいよ。返せないって言っても、二日か三日か、まあそのくらい人の世の飯食べてれば体ももとに戻る」


 ヒヅキさんは抑揚なくそういってくれたのだけど、私が驚いたことはそこではなかった。

 帰れないと聞いて、怯えたのはただの一瞬。そのあと私の心の内を占めたのは――紛れもなく安堵だったのだ。帰れないことへ、帰らなくていいということへ、ほっとしてしまった。

 きっと今頃早起きの祖母は私がいないことに気づいて驚き、心配してあるいは怒って探しているだろう。祖母。碌に会話もしない、笑えもしない、こんな私でもやさしくしてくれた祖母。彼女に大きな心配、いや迷惑をかけているということは痛いほどよくわかっている。わかっていて、私は安堵したのだと思うと、それがなんだか空恐ろしいもののように思えてきた。

 いっそこのまま――ずっと帰れなくても、いいかもしれない。

 浮かんできたそんな考えを振り払おうと、私は首を振った。


「どうしたの、今度は急に首なんか振って」

「いえ、なんでも、ないです」

「そう。まあ、あなたを人の世に返せるようになるまではこの社にいたらいいから」


 ヒヅキさんは自分の椀の中に残った葱と味噌っかすを箸で口の中へ落とし切ると盆の上へ置いた。端へ寄せたままになっていた布団を畳み、ヒヅキさんはその上に腰を落とした。薄い布団はわずかに沈み、ヒヅキさんを支える。

 私は妙に早鐘を打つ心臓を必死に気取られまいとしながら、味噌汁に口をつけた。指も唇も震えて、うまく飲めなかった。味もわからない。結局完食するのに通常の倍は時間を要してしまったが、そのおかげか食べ終わる頃には少しは落ち着くことができた。

 食べ終わった椀と箸をヒヅキさんは「かして」と返事を待たずに取り上げ、洗いに行った。それくらいはやりますと進言したのだけど、「いい」と短く断られてしまった。

 流水の音がする。洗うものは二人分で、かつおかずがあったわけではないから、そう時間はかからなかった。


「ヒヅキさん」


 洗い物を終えたヒヅキさんは再び布団の上へ座る。私の呼びかけに、両目と鎖骨あたりの目玉がこちらを向いた。


「ここ、あの、なんでしょうか」


 考えうるに、ここはヒヅキさんの自宅ということになるのだろう。それにしては、昨日の夜ヒヅキさんが眠っていたのは祭壇のようなもので、入ってすぐのところに布団も敷かずに寝ていた。私は布団に寝かされていたから、布団がないというわけでもないのだろうが、ただの家と言ってしまうには謎が残った。


「ここはお社だよ。このかがみの地の、もっとも大切な場所」

「お社……そんなところに、わたし、いても」


 社というからには何か祀っているものがいるはずである。社というには随分とぼろぼろではあるけれど。まして、もっとも大切な場所と言ってしまうくらいだ。私のような部外者が転がり込んでしまうには、恐れ多いのでは、ないか。

 もしかしたら、その祀られているのはヒヅキさんなのではないか。それならば、こうして迎え入れてくれていることにも納得がいく。祭壇で寝ていたこともそうだ。だが、そんな予想は的外れだった。


「まあねえ。ここが一番安全だから。この奥に祀っている――眠っているひとは、あなたみたいな人の子を外に放り出すほうが許さないと思うよ」

「――なにが、、祀られているのですか」


 ヒヅキさんではないのなら、祀られているのは何で、ヒヅキさんはいったい何なのだろう。

 問うと、ヒヅキさんはたっぷり一呼吸置いた。まるで言い方を探るように。


「ここの主だ。このかがみの地の、主」

「ぬし」

「そう。ながい眠りについている」


 主がどうして眠っているのだろう。眠っていては主としての役目も果たせないだろうに。主というからには、みんなに必要とされているだろうに。


「守り神、というには少し違うんだけれど、それでもこの地を守っていることには変わらない。今はねむっているけれど、これがあのこの選んだ守り方でね」


 見透かしたように、ヒヅキさんは私が抱いた疑問への答えをくれる。ただ、その意味を正しく理解するには、私は何も知らなすぎる。特別、わかりたい、と強く願いもしない。

 居候させてもらうからには知っておくべきだと、知るべきかもしれないけれど。聞くつもりはない。だって、きいても、きっとわからない。

 私が口を噤み、重い沈黙が降りる――その前に。


「さ、ご飯も食べたし、あなたはどうする?」

「どう、する」


 と聞かれても、何もすることはない。端の破けた障子に差し込む光を見る限り、もう太陽はかなり高そうだ。社の中が暗いから、気づかなかった。


「何もないなら、あのひとのところを探しておいで。昨日の祭りでみんな今は寝てるだろうし、大丈夫」


 おいで、と手招きされる。ヒヅキさんは傍らの棚から筆と布を取り出した。布は真っ白いが、長方形に細い紐が付いた不思議な形をしている。

 言われるがまま、ヒヅキさんにわずかに近寄る。

 筆にヒヅキさんがふうっと息を吹きかけると、白い筆先がぼんやりと光った。緋色だ。インクは何も付いていなかったはずなのに。とろりと染み出すように白が緋色へ変わる。

 ヒヅキさんはその筆を軽やかに振り、布の上へ色を――文字を落とした。きれいな字だった。

 目。

 とただ一文字、大きく書かれている。


「後ろ向いて」


 ヒヅキさんに背を向ける。すると、ほぼ同時に視界が白くなった。


「これを着けてたら一応人の子であることは隠せるから、外したら駄目だよ」

「はあ……」


 視界が狭まって危ないような気がしたのだけど、そう思ったのもつかの間。布は薄く透けているようで、視界が遮られることはなかった。昨日のアカガネさんの羽織を思い出す。

 そうだ、アカガネさんの羽織。結局着てここへきてしまった。朝起きたら着ていなかったけど、どこへ行ったんだろう。その疑問も、口にするより早く、ヒヅキさんが答える。


「アカガネの羽織なら俺が返しておくよ。それより、アカガネみたいに向こうから話しかけてくる妖に返事したらだめだよ」

「そうなんですか……?」

「何にしても、言葉を交わすことは縁を繋ぐことになる。余計な縁は繋がないに限るよ、カンのいいやつならあなたが人の子であることに気付くかもしれないし」


 縁を繋ぐ? ことがどうしていけないのかわからなかったけれど、ひとまず頷く。見鬼を持った人であることが危険だとは、すでに知った。


「それから、外の林にも入っちゃだめ」

「はやし」

「暗かったし覚えてないかもしれないけれど、この社の周りは林なの」


 そうだったような。手を引いてくれた白の記憶しかなく、そのほかのことは曖昧だ。外へ出てみればわかることなので、思い出すことは早々に放棄した。


「下に降りるには出てすぐに階段があるから、それをまっすぐ降りていけばいい。今は昼間だから問題ないと思うけど、林はほんとうにはいったらだめだよ」


 いいね、と念押しするヒヅキさんに半ば押されるようにして頷く。するとヒヅキさんはうん、と一つ返事をして、薄い緋色の浴衣を投げて寄越した。避けるでも受け取るでもなくばさっと頭に被ってしまう。それを手繰り、「これは?」と問う。香でも焚き染められたような、いい匂いがした。


「それ、部屋着でしょう。上に着るなり着替えるなりしたらどうかな。部屋着で歩き回るのに抵抗ないなら、別にいいけど」

「あ……お借りします」


 そうだ。これは部屋着だった。布団から出てそのままアカガネさんの誘いに乗ったのだから。私はヒヅキさんが台所へ行っていてくれている間に居間を借り、着替えて社を出た。和服なんてほとんど来たことがなかったので,戸越しにヒヅキさんへ指示を仰ぐ羽目になったのも、致し方ないだろう。

 ヒヅキさん曰く、あのひと――化け猫さんは基本的に昨夜のような祭りには参加しない。猫で妖なのに、夜はちゃんと寝るひとなのだそうだ。猫が夜行性なのはともかく、妖の活動時間はやはり夜だと聞いた。すこし変わったひとだと思ったけれど、ともかく、もう、今日も起きている。

 ――夜眠る人が、昨日何故助けてくれたのだろう。

 起きているならば、適当に町の中をうろうろしているだろうとのことだ。つまりどこにいるかはヒヅキさんにもよくわかっていないらしかった。

 言われた通りに町の中をうろうろと彷徨う。町の中は昨夜のお祭り騒ぎなどまるで嘘のように静かだった。いや、静かというよりは、憔悴しきった雰囲気だ。酒の匂いがわずかに風に乗って鼻孔をくすぐる。広場の方からだ。

 昨日の今日でいささか怖いものもあったが、広場の方へ行ってみる。ヒヅキさんの言葉を信じよう。


「うわ……」


 広場は酒瓶やら食べ物の器やら、吐瀉物らしきものやらが散乱して、ひどい有様だった。どれほど盛り上がっていたかがわかる様相だ。それでも妖の一人もここで寝こけていないというのは、なんだかすごい。朝になれば太陽が昇るからだろうか。

 そういえば、起きたばかりのときのあの頭痛は特に感じなくなっていた。完全に消えたわけではないけれど、意識しなければ気にならない。

 広場を通り抜ける。ああ、たぶん、まっすぐ進めばアカガネさんに連れてこられた道だ。帰るわけではないので、私はすぐ脇道へそれた。

 古い建物が左右に建ち並ぶ、細い石畳の道。石畳とはいってもかなり剥げていて、足場の様子は劣悪である。転ばないように、ゆっくりと歩いた。

 左右の建物は今にも崩れそうなあばら家ばかりだ。昨夜もそう思ったけど、明るくなってみれば尚そう思う。釣り下がった提灯もずいぶんぼろぼろだ。当たり前だが、人間は私のほかにはいない。

 ふと視界に白が横ぎった。屋根の上を駆ける白だ。反射的に顔を上げると、白い着物をまとった少年が、屋根の上を走っていくのが、見えた。

 そのひとだと思った。昨夜、暗い中で浮き出でて見える白が脳裏に蘇る。


「待って!」


 呼び止める声に、そのひとは振り返らない。聞こえなかったのだろうか。大声なんて意図して出したのは何年ぶりだろう。思っているよりも声が出ていなかったのかもしれない。もう一度、声を張る――「待って!」

 そのひとは、足を止めた。肩越しに振り返る。

 着物よりも抜ける白の髪の上に着いた三角の耳がぴると揺れた。こちらを振り返るが、顔の下半分を布で覆っていて、表情は図り取れない。だが、左右色の違う大きな猫目に、唐突に昨夜この色を見たことを思い出す。


「オレに用か」


 すっと背筋の伸びた立ち姿に違わぬよく通る声だった。困った。立ち止まらせたその続きのを考えていなかった。


「あの、昨日、助けてくれたのは、あなたですよね!?」

「昨日……?」


 訝しげに声を低くし、すぐにああと頷いた。


「ああ、昨日のアカガネに取って喰われそうだった人の子か。その術は――ヒヅキのか」

「あ、分かるんですか」

「そりゃあな。おまえをあいつのとこに連れてったのはオレだぞ。それにそんな術を使うのはあいつだけだ」


 白いひと――化け猫さんはひらりと体の向きを変えた。昼間だからか、大きな瞳と目があった。色が違う。右が青で、左が緑で、白い髪と相まって、その姿だけが浮いて見えた。化け猫とはいうものの、日本種ではなく、異国の猫みたいだ。


「昨日は、ありがとうございました」

「礼には及ばん」

「その、よければお名前を」

「あのなあ、オレは妖だぞ。人の世で助けられたら名前を聞くのが普通か知らねえが、おいそれと名前教えるわけにいかねえよ」


 ため息とともに、化け猫さんは身を翻した。白い二股の尾の片方に括られた赤い組紐。鈴だ。りん、と鈴が鳴る。


「それだけか? ならとっとと帰んな、人の子。ここはおまえがいていい場所じゃない」

「あっ」


 化け猫さんは、呼び止める間もなく行ってしまった。身軽な猫を追うのは私には難しく、まして化け猫さんは最初から屋根の上から降りてこなかった。立ち話に付き合う気は最初からなかったのだろうと思う。

 おとなしく、言われたとおりにヒヅキさんのいる社へ帰ることにする。


「あれ、もう帰ってきたの」

「はい、化け猫さんに、さっさと帰れと言われてしまって」

「そう。あのひとらしいね」


 社へ帰ると、ヒヅキさんは袈裟を着ていた。緋色を差し色にした、およそ僧侶には見えない派手さがあったけれど、よく似合っていた。


「ヒヅキさん、なんで袈裟着てるんですか?」

「客人がいるから、ちゃんとしようと思って」

「そうなんですか」


 よっこらせと腰を上げる。首と手首につけた数珠がじゃらと鳴った。

 ちゃんとする、という口ぶりからして普段はもっとだらけてるとみてよいのだろうか。そしてちゃんとした結果が袈裟。袈裟ってお坊さんが着る服だろう。それを、推測だけど、祓われたりする側の妖が着ているのは、なんだか違和感だ。それとも私が勝手にそういう印象を持っているだけで、実際には祓う祓われるなんてこともないのかな。

 棚の上から一つ袋を取り、台所から急須と湯のみを持ってきた。外から入ってきたときに見て思ったが、ぼろぼろな建物のわりに、室内にそんな面影はない。家具はきちんときれいにされていて、食器も同様だった。

 とくとくと鮮やかな緑茶が注がれる。中身は何の変哲もないお茶請けの菓子だった。市販ではないようで、大きさの不揃いな醤油せんべいが皿の上にがらがらと落とされる。


「あの、ヒヅキさん」

「なあに」


 醤油せんべいを薦められ、ひとつ取って齧る。香ばしい醤油の匂いが鼻を通り、ばりばりと砕かれる歯応えが美味しい。湯のみも目の前に置かれ、至れり尽くせりだった。


「さっき……化け猫さんに名前を聞いたときに、妖が教えられるわけないって言われたんですけど、ヒヅキさんやアカガネさんは名前を隠すのは、しないんですか」


 せんべいをヒヅキさんはばりばりと咀嚼し、答えてくれる。


「ああ、まあね。妖と関わる以上名前は命と同等以上に大切なものだと思っていてくれればいいよ」

「命と同等」

「うん。――確たる体を持たない妖にとって、名前が命くらいに言っても過言じゃあない」


 名前を知ることは、どうにもそれを縛ることも同時に出来るらしい。縛るということは、命を握ること。私が最初にアカガネさんにされたそれもそうだし、化け猫さんが教えてくれないこともそうだ。でも、そうならばなおさら、ヒヅキさんやアカガネさんが名前を隠さない理由が分からなかった。


「俺は例外中の例外なんだけどね。アカガネもまあ、例外だから、あんまり気にしないほうがいい」


 大事なのはその根本的な理由の方だ、とヒヅキさんは二枚目のせんべいにてを出しながら続ける。


「名前を縛る契約は基本的に、人と妖の間でしか為されない。術を使うのは人だけだ。人と妖が関わるときに名前は最上級に大切なものになる」

「名前って、そんなに重要なんですか」

「それが存在を肯定する唯一だから」


 ヒヅキさんの声は妙にはっきりと響く。口元はそう動かず、ぼそぼそと喋っているようなのに、不思議だ。


「人はだれにでも見えるし、存在ははっきりしている。体があるからね。だけど、人と関わる時の妖は、その関わる人以外には見ることすら叶わないかもしれないくらい、存在が不確定になるんだ。その、存在していると示す名前を除いては」


 確かにそこにいるけれど、本来交わらない世界が交わると、その存在があやふやになる、というのはおかしな話だ。関わらなければ、そんな恐怖におびえることもなくなるだろうに。


「だから名前を知らしめる、っていうのはなかなか危険な行いなんだ。たとえば綱渡りの最中に、自分で火をつけるようなものでね」

「それは……」


 確かに、あまり賢いとは言い難い。ヒヅキさんは妖間での名前の重要性については触れなかったが、それも同様だろう。自分の名前だけが広まっているような事態は、つまり知らないうちに名前を人間に漏らされる可能性が高くなるということだ。人間と妖にどれほど接点があるのかは知らないけど、私みたいなことだってあるだろう。自分の命を自分で縮めるようなことをするなんて、私には考えられない。

 しかし、そうなると、例外だといったアカガネさんやヒヅキさんがなぜ例外なのか、気になってきてしまう。


「アカガネは名前を知らしめて、忘れられないように、消えてしまわないようにするのに一生懸命だ」

「ええと、じゃあ、ヒヅキさんは?」

「俺はねえ」


 と、そこで、社の戸ががたんと大きな音を立てた。立て付けが悪いのだ。ヒヅキさんが「ちょうど噂をすれば」と呟く。この社は入ってすぐに雪洞と祭壇があり、その奥にこの居間のようなものがある。祭壇の裏の、戸ががらりと引かれた。


「ヒヅキ、ここでちょっと寝かせてくれ」

「いいけど、いいところに来たね」

「はあ? ……っておまえ、なんでここに」

「帰れと言われたので……化け猫さんこそ、どうして」


 社を訪れたのは化け猫さんだった。口元を覆っていた布を剥ぎ取り、袂へ押し込んだ化け猫さんは青白い顔をしていた。先程は逆光で分からなかったのだけど、もしかしたらさっきもそうだったのかもしれない。


「ここはおまえのいる場所じゃねえって……ああ、いい、やっぱり先に寝かせてくれ」

「奥の、いつもの座敷に布団が敷きっぱなしになってる」

「おう」


 化け猫さんは、ふらふらとした足取りで台所の奥へと消えていった。

 やはり具合が悪そうだ。化け猫さんの行った先をじっと見る私に、ヒヅキさんは、


「だいじょうぶ。最近ちょっと調子悪いだけだから」


 とだけ言った。


「ここは他より安全だから、ここで寝てるんだよ。いつもは夜ちゃんと寝てるんだけど、あの様子じゃあ昨日は寝られなかったみたいだね」

「寝られないんですか」

「夜は誘惑が多くてね」


 さて、あなたもお昼までゆっくりしたら、とヒヅキさんはごろりと寝転んだ。それ以上を語る気のなさそうなヒヅキさんを尻目に、その場に足を抱えて丸くなった。

 考えたくないことばかりで、おなかが苦しかった。化け猫さんの具合の悪さに気付かず、むりに引き止めてしまったのも悪いことをした。きゅうきゅうと締め付けられるような痛みに、涙がでそうになる。

 だめだ。ここで泣いては、ヒヅキさんに見られてしまう。私はぎゅうと堪えるために目をつむり、やがて訪れる睡魔に身を任せた。





 化け猫さんが起きてきたのは、日がすっかり沈んだ頃合だった。

 私が起きたのはその少し前で、部屋の中がわずかに入る夕日の色に染まっているのを見て、ずいぶん寝過ごしたことを悟った。お昼には起きるつもりだったのに、私はばかか。いくらなんでも寝すぎだろう。

 血の気のなかった頬は僅かに赤みが戻ってはいたけれど、それでも具合は悪そうだった。ヒヅキさんは化け猫さんに白湯をやり、お粥を煮た。私もヒヅキさんも、化け猫さんに合わせてお粥なんだそうだ。洗い物が少なくて済むと。

 別段食欲があるわけではなかったから、文句はない。


「お粥くらい食べときなよ、腹膨らませるのは大事だ」

「わぁってる」


 お粥は塩が僅かに振られ、ほんのりとした甘さを際立たせていた。米と塩だけのはずなのに、れんげが進む。かぶときゅうり、あとなすの漬物を合わせて食べればなお美味しく、珍しく三杯も食べてしまった。隣の化け猫さんも気づけば完食しており、お茶をすすっている。


「それだけ食べられれば大丈夫かな、どう、調子は」

「寝る前よりはいい」

「そう。今夜もここで眠るんでしょう」

「泊まらん。そこの人の子がいるんだろう」

「そりゃ、この子の中から黄泉のものが抜けきるまでは返せないからね」


 化け猫さんは椀をヒヅキさんに押し付けると、「世話になった」とだけ言い、入り口へ向かった。足取りが覚束ない。あれではここを出た途端に社の前の階段で転げ落ちてしまいそうだ。


「あの」


 呼びかける。化け猫さんがぴたと動きを止めた。ぴんと耳が立った。


「あの、私なら大丈夫ですから」

「いや、何を勘違いしてるのか知らねえけど」

「私の居場所がここじゃないっていうなら、私が出ていきますから。そんなふらふらなまま、どこかに行こうとしないでください」


 化け猫さんは、来た時に比べて顔色も良くなったとはいえ、それでも万全には程遠そうだった。夏とはいえ――夏だからなおのこと心配になる。

 化け猫さんは、ここが私の居場所ではないといった。そうだと思う。でも化け猫さんはここに居場所があるはずだった。それを、私がいるせいで、私が奪ってしまうなんて、以ての外だ。耐えられようもなかった。


「おい、ヒヅキ、なんとか言え」

「うーん、この子見かけによらず頑固そうだしなあ。この子を返すのはまだできないし、かといって外に放り出せばどうなるかわかったものじゃないし。あなたがここに泊まっていくのが一番いいんじゃないかなあ、と、俺は思うけれど」

「おい、ヒヅキ」

「大丈夫だって。あなたはそういうことしないし、俺もさせない」

「いや、でも」


 そうは言うけど、と納得いかない顔をする化け猫さんに、ヒヅキさんは「あなたが助けて、あなたが連れてきた子だよ」と返す。すると化け猫さんはぐうの音も出ないようで、押し黙ってしまった。それでもまだ不安の色は顔に浮かんだままで、ヒヅキさんは「だいじょうぶって言ってるでしょう」と繰り返し、半ば強引に化け猫さんの宿泊を決めた。ヒヅキさんの中で、化け猫さんが泊まっていくのはすでに決まったことらしく、化け猫さんも半分以上は諦めたようで、答えは返ってこないだろう異論をぶつぶつとこぼすにとどまった。


「ああ、あなたもここに泊まっていってくれないと困るからね。部屋を用意してくるから、待ってて」

「あ、はい、私も手伝います」

「いいよ、座ってて」


 仮にも泊めてもらう身で何から何まで、というのは気が引けたけれど、ヒヅキさんはさっさと行ってしまった。仕方なしに、私は浮かしかけた腰を下ろす。

 沈黙が降りる。広くはない部屋の中、化け猫さんも私も何も喋らない。呼吸の音だけが響き、それさえも控えなければならないような、重たい静けさ。私はちらとも化け猫さんのほうを見ることができなかった。

 しばらくその沈黙が続き、妙な息苦しさを感じるようになった頃。


「おまえ、なんでアカガネなんてやつについてきたんだ」


 と、化け猫さんが唐突に問うた。あまりに唐突に沈黙が破られたので、私は最初、それを声と認識することができなかった。改めて、何と言われたのか思い出してみている間に、もう一度、「なんでここに来たんだ」と繰り返した。

「なんで、と言われても。一緒に来ないかと言われて」

「おまえ、一緒に行かないかと言われたら誰とでもついていくのか」

「そんなことは……ないけれど」


 なぜと問われたらわからないとしか言えない。あの時、私はアカガネさんの誘いが妙に魅力的なものに聞こえたのだ。

 道路を我が物顔で闊歩する、行列。舞う火の玉。一人でにくるくると回る唐傘。軽やかに走る、二足歩行の狸。

 わかるはずがなかった。わからなかった。だって、普段の私ならわけのわからないものには関わらない。触らない。見て見ぬふりをして、事なきを得るのだ。だからわからない。あの時、あんな異形なものをみて、怖さよりも好奇心が勝ってしまった理由。アカガネさんの誘いに、ほとんど迷わずに乗ってしまった理由なんて。

 ――いや、違うか。ほんとうはちゃんとわかっている。


「……私、おかあさんが再婚するんです」

「さいこん」

「半年前に、おとうさんが亡くなって。もともとあんまり会話のある家庭じゃなかったけど、それでも、とうさんが事故で亡くなった時はちゃんとおかあさんも泣いてたのに」


 泣いていたのに、その半年後――法が、再婚を許可する時期になってすぐのことだった。確かに父と母はあまり仲が良くなかったと思う。けれど、、私のことは大切にしてくれていた。家族の形はちゃんとしていた。お父さんがいて、お母さんがいて、私がいて。私の学校の行事にはなるべく二人そろって来られるようにしてくれる、そんな家族。そう、家族だった。

 ――母と父は、それでも、そうであったとしても、どうしようもなく不仲だった。父と母が二人きりで話しているところなどほとんど見かけたことはない。一緒に食卓を囲んでも、一緒に出掛けても、二人の間に漂う不仲の気配は、色濃く存在していた。

 こどもは、そういう気配に敏感なのだ。気づいてしまえば、戻ることもできなくなってしまっていた。

 私の顔は、父に似ている。幼い頃に父方の祖父に繰り返し言われたことだ。おまえはおとうさんの小さい頃によく似ているね、と。


「もしかしたら、おかあさんは、おとうさんによく似たこの顔がいやかもしれないって、別に言われたわけでもないのに思っちゃって。気が付いたら、おばあちゃんのうちに逃げるようにして来ちゃっていました」


 父方の祖父母の家は遠く、行くには資金が足りなかった。それに、父に似ている私を知っている人ところへは行きたくなかった。そうして来た祖母の家も、申し訳なさと気まずさが重く澱のように私の周りに満ちていて、息苦しくなった。


「化け猫さん。私、ばかみたいだって、考えすぎだって思うかもしれないけれど、家の中に私の居場所がないみたいに思って。逃げた先でも居場所がないみたいに思えて。アカガネさんの誘いだって、危ない目にあうかもしれないことは気づいていたのに。でも私、もういなくてもいいかなって勝手に思っちゃって――」


 逃げた先で、助けられて、またここはおまえの居場所ではないといわれて、なのに結局ヒヅキさんに甘えてしまっている。

 化け猫さんは、身動き一つなく沈黙を貫いた。体調悪いひとに、こんな話は無神経だったと私が思い至るのはいささか遅く、声も掛けられなくて沈黙は長引いた。


「……人の世に居場所がないからと言って、妖の世(こちら)に逃げ道を探すのは間違っている」


 先に沈黙を破ったのは、またしても化け猫さんのそんな言葉だった。否定されて当然なのに、頭を殴られたかのような衝撃があった。音が遠くなるのを感じて、目頭が熱くなって、またおなかがしくしく締め付けられて、しんぞうのあたりがきゅうきゅうと痛んだ。


「だが、おまえはオレを助けてくれただろ。おまえがいなければ今、オレはここにいない」


 何もかも遠くなって、音さえも遠くなりかけた世界をさらに耳も塞いでしまおうとしたとき、それでもはっきりと、化け猫さんの声が耳朶を叩いた。


「……え?」

「おまえ、おととい白い猫を助けただろう。拾って、傷の手当てをして、ソーセージをくれた」


 確かに猫を拾いはしたが、このひとはいったい何を――白い猫? 今目の前にいるのも白い毛並の化け猫だ。化け猫。化ける――猫。

 まさか。


「おまえの助けた猫、尾が二本あっただろう。覚えてないのか?」


 あったかもしれない。見た目のひどさに目を取られて、その時は気づかなかったけれど、尾が二本。そうか、あれは、普通の猫ではなかったのか。

 そう考えれば、納得は行く。一晩で癒えるはずもない状態だったのに、翌日にはいなかった理由。見ず知らずのはずの私を、アカガネさんから助けてくれた――理由。


「もう一度いうぞ、おまえがいなければオレはあのまま朽ちていた」


 二度目の言葉も、飲み込むには時間がかかるものだった。



 

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