贈答用作品集

アクリル板W

煉獄の車窓から

 こちらは、秋乃晃様の「Zero-Sum Game supported by TGX」の二次創作となるコラボ作品です。




 14世紀にイタリアの詩人、ダンテは神曲を著した。


 地獄篇、煉獄篇、天獄篇から成る一大叙事詩は、当時の世相やキリスト教の世界観を匠に描き出しており、世界有数の文学作品の一つとも称されている。


 作中では、失意のダンテが地獄へと迷い込み、煉獄の山頂で永遠の淑女ベアトリーチェと再会し、天国に導かれた後に地上へと帰還している。


 なお、これらは本編とは一切関係ない。



………………………………



「間もなくぅ~、電車が参りまぁ~す。白線の外側にぃ~、お下がりくださぁ~い」


 電車が来る。俺は乗る。また電車が走る。


 今日も山手線は混雑している。学校帰りの女子高生、仕事中のサラリーマン……そして、小さな子どもを含む家族連れに目が留まる。


 俺は、家族を知らない。


 母親は物心付く前に離婚した。父親にとっては自分を良く見せるオプション扱い、再婚した後妻さんも引き気味だ。


 唯一、ひぃちゃんだけ。五歳のあの子だけが俺の家族だった。


 そう、家族だったんだ。誰も彼ももうこの世にはいない。俺だけが世界に取り残されたラストスタンディング・マン。


 ああ、俺はなんて不幸なんだろう。家族を知らない、家族も知らない。血の繋がらない後妻さんの両親の世話になってはいるけれど。


 腹が立つ。なんで俺だけこうなんだ。


 あの女子高生の制服を引き千切ってやったら、どんな悲鳴を上げるだろう。


 あのサラリーマンの顔を殴ってやったら、どんな顔をするだろう。


 あの親子連れから子どもを取り上げてやったら……もうやめだ。


 あの子さえいてくれたら、俺の絶望も少しは癒やされただろうか。


 分からない、分からない、俺には何も分からない。


 視線をぼんやりと女子高生に戻す。相変わらずのはしゃぎようだ。あの子とは大違い……いや、案外と成長したらああなるのかも。


 じっと臀部でんぶを眺める。今どきのスカートは丈が短い。もう少し揺れが強ければ、下着が見えることもあるのかも知れない。


 でも、俺はそんなことは望まない。欲しいものはいつだって手から溢れ落ち、願ったことは決して叶いはしないのだから。


 それでも、こんなことを考えても良いだろうか。そんなことを祈っても構わないだろうか。


 ―― あの子に、もう一度だけ会いたい ――


 いつかこの地獄を抜けた先に、煉獄の山頂で待っていてくれたのなら……。


「ちょっと、どこ触ってるんだし!」


 唐突に車内に響いた叫声きょうせいに俺は思考を中断される。続く耳障りな金切り声が喧騒を伴って木霊する。


「おい、おっさん! アンタ、さっきこの子のスカートに手を入れたっしょ!?」


 視線の先で二人の女子高生が汚いおっさんに罵声を浴びせていた。どうやら痴漢のようだ。周辺の乗客も無言で、しかし着実に疑惑の目を向けている。


「わ、ワイかいな? ワイは何もしてへんで?」


 汚いおっさんが困惑気味に応答する。しかし、どうにも説得力がない。コイツならやりそうだ、いややっただろう……それが衆目一致の推論であった。


「言い逃れしてんじゃねーし! おっさん以外に誰がいるんよ?」


 女子高生の片割れが詰め寄る。当の痴漢を受けたという被害者は俯いたまま、瞳に涙すら浮かべている。乗客も沈痛な面持ちで事の成り行きを見守っていた。


 汚いおっさんは狼狽しながら反論するが、誰もそれを信じてはいなかった。そりゃそうだろう、人は信じたいものしか信じない。汚いおっさんを信じるくらいなら、女子高生を信じた方が精神衛生上、健全だ。


 しかし、俺は知っている。汚いおっさんは女子高生に痴漢などしていない。ずっとスカートを凝視していた俺にだけは分かるのだ。


 じゃあ、名乗り出て冤罪を晴らしてやれって? おいおい、それこそ冗談だろう。そんなことをして俺に何の得があるって言うんだ。


 どうせ、女さんのことだ。俺も共犯だと喚き出すだろう。事実、ずっと観ていたことへの正当な理由付けがない。


 俺には関係のないこと、余計な面倒事に巻き込まれるのは真っ平ゴメンだ。俺は不幸なんだから、これ以上何かをしろだなんて可哀想だとは思わないのか?


 汚いおっさんは周りに助けを求めているが、残念ながらそれは敵だ。汚いおっさんに味方などいないのだから。


―― では、お主が味方になったらどうだ? ――


 頭の中に声が響く。なんだこれは……はは、俺の良心ってやつか? それにしては、些か女の声にも聞こえたが。


 やれやれ、何度同じことを言わせるのやら。女さんは俺の言葉なんて信じない。それどころか、余計に被害が拡大するだけだ。あいつらが痴漢にかこつけた恐喝犯かは知らないが、頼むから俺を巻き込まないでくれ。


―― ふむ、それもまた良かろう ――


 どうやら良心さんも諦めてくれたようだ。もう少し、根性があっても良いと思う。そうしたら俺だって万が一、いや億が一に、汚いおっさんを助けようって気が起きたかも知れないのに……。


 そうこうしている内に、電車は上野駅へと停車した。俺の目的地だ。女子高生も周りの乗客の手を借りて、汚いおっさんを車外へと連れ出していく。


 俺も降りようとしたとき、汚いおっさんと目があった。その瞳だけはやけに澄んでおり、そのギャップがやはり汚かった。


 俺だけが知っている。この人は無実だ。しかし、ただそれだけだ。俺には何も出来ないし、する気もない。


「やはり汚いのぉ、拓三ぃ……」


 擦れ違いざまに、そんな声が聞こえたような気がした。




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