第19話 わたしの夢

 白紙にまっすぐな線を引く。次の白紙には真円を描く。指先の準備運動をいつも通りにこなしていると、鼻につく女がわたしの手元をジッと見ていた。

 薄明るい色の髪を肩口で切り揃えた同級生の志島澪である。女子としては身長が高い方で、中性的な雰囲気の顔立ちから同性にも人気があった。人当たりがよく器用で何でもこなすので、絵しか描けないわたしとは正反対の存在である。

「すごいよね、マリアちゃん。どうすれば、定規も無しでこんな真っ直ぐに線を引けるんだか……」

「練習」

 一応はヒロキを通した中学からの知り合いだけど、ちゃん付けで呼ばれる仲じゃない。そのことを指摘するのも面倒なので無視し、「どうすれば」の部分にだけ回答しておく。

 ちょっと前にトラブルを起こしてこいつを泣かしてしまったけど、今は休戦協定を結んでいる。というのも志島側から謝罪があった上に、こっそりと「勝ち目がないからヒロキくんのことは諦めたよ」なんて言ってきた。

 その言葉を全面的に信じるわけはない。けれど、ヒロキのゲームを完成させる上で必要な人材なので目を瞑ることにした。

 志島が『パソコン研究部』に入ってからというもの、全体のスケジュールが前倒しになってきた。こいつはデザイン性の高いロゴを作っただけでなく、スクリプトを組んだり、音声を編集したり、とにかく何でもこなしてしまう。そのおかげでヒロキに余裕ができたのは良いことだと思う。

 けど、気に入らない。これは単なる感情の問題だ。

「円もぜんぜん歪んでいないや。手だけで描いたなんて信じられないよ」

 わたしが手書きした方眼紙を志島は宝物で扱うみたいに丁寧に持ち上げ、頭上に掲げて透かしている。部室でこいつと二人きりになってしまうタイミングが結構な頻度で訪れる。今日は歴史資料室の鍵を志島が持ってきて「ヒロキくんは遅れてくるよ」なんて言いやがった。

 やむなく相手をしてやっている。本当ならこんな奴、追い出してやりたい。あの緑髪の先生も同様だ。けれど二人ともヒロキの夢のために必要な人間。だから私は我慢した。わたしがヒロキの夢を壊すなんてことはあってはならない。でも同時に強い不満がある。どうしてこんな奴らに頼らなければいけないんだろう?

 絵はわたしが描く。ヒロキが話を作る。それで十分なのに、許容できないノイズが割り込んできて甚だ不快だった。

「ま、マリアちゃん…… もしかして怒っている?」

「別に」

「でも怖い顔しているよ」

 わたしは怒ってなどいない。そう見えるなら、志島の目がおかしいだけ。

 これ以上は構っていられないのでタブレットPCを取り出して作業に入る。ヒロキから渡されたスケジュールをチェックすると、ゲームに使う素材は全て作り終えていた。

 絵を描くことは苦にも楽にもなる。けれど、わたしは作業スピードが早くて安定しているから、必要な枚数と内容が分かっていれば完成までの道筋がハッキリと見えるのだ。最初に企画書を提示された時点で完遂できることは分かっていた。

 それならば、ボヤイッターにアップする絵を描いておこうとペンを走らせた。志島はまだわたしを見ている。

「ごめんね、ヒロキくんとマリアちゃんだけの時間を邪魔しちゃっているみたいで……」

「っ!」

 唐突に切り出された台詞に身が強張った。反論が出てこないまま顔を上げると、志島は本当に申し訳なさそうな顔になる。

 わたしの心に触れてくるな。わたしの心は、わたしだけのものだ。

 お前みたいに周囲からチヤホヤされていい気になっている人間には絶対に分からない。わたしが欲しいのは賞賛じゃなくて、もっと別のものなんだ。

「統合するときは揉めたけどさ、同じ部活の仲間になってからマリアちゃんのことも気になっているんだ」

「余計なお世話」

「ごめん、そうだね。でも、これだけは言わせて。ボクはゼロ=マリア先生のファンでもある」

「そのことをバラしたらタダじゃおかない」

 ヒロキ以外で、この学校でわたしの正体を知っているのは志島と伊月先生だけだ。軽口で言いふらされてしまったらたまったもんじゃない。志島は「誰にも言わないよ」と首を振る。それも信用していいかは分からなかった。

 リアルで騒がれるなんてゴメンだ。ネット上でもイラストをアップするだけでグダグダ言われるというのに、そういうのを見るだけで擦り減る。だから志島とも伊月先生とも敵対するのは愚策と結論付けた。

 けれど理性と感情はいつだって仲良くしてくれない。わたしは感情の面で二人とも好きじゃなかった。そんな志島がクソ真面目な表情で訴えてくる。

「余計なお世話ついでに言わせてもらうよ。伊月先生もヒロキくんのこと気になるんだと思う。計画の立て方だけじゃなくてスケジュール管理の方法や、あまつさえ声優まで引き受けている。あれだけ色々と手を貸しているなら何の感情も抱かないのは不自然だよ」

「わたしだってヒロキのために絵を描いている」

「えっと、マリアちゃんのは『好き』なんだ。でもボクが観察した限り伊月先生のは『愛している』なんだよ」

「何が言いたいの?」

 眼鏡を外したわたしは志島を睨む。近眼で目付きも悪いけど、チビで童顔だから迫力なんてない。本当は志島と目を合わせたくなくて焦点を当てないようにしただけ……

「マリアちゃんは、ヒロキくんに寄りかかるのをもうやめたほうがいい」

「寄りかかってなんかいない。ヒロキはわたしを必要としている」

「伊月先生はヒロキくんを成長させようとしているんだ。彼の将来のことを考えている」

 ボヤけた志島の輪郭から目を背けてしまった。自分でも薄々勘づいていたことを言語化されて耳が痛い。それを他人の口から聞かされてしまったのだから、内臓を抉り出された気分だった。

 このまま引き下がりたくない。反論しなければ。志島に言わせたい放題してはいけない。それには剥き出しになったわたしの内面をさらに見せつける必要があった。本来なら絶対にそんなことはしないけど、ヒロキに寄りかかるのをやめろなんて言われて黙っていられる筈もない。

「わたしが死ぬまでに、わたしは何枚の絵が描けると思う?」

「え?」

「八十歳まで生きられるとして、このクオリティであと二万五千枚くらい」

 タブレットPCの画面を志島に向けてやった。ボヤイッター向けに描いたイラストで、一万以上のイイねをもらっている。

「今まで五千枚は絵を描いた。そのうちヒロキのために描いた絵が千枚近くある」

「すごい枚数…… 練習量が桁違いなんだね」

「わたしの夢は死ぬまでに『自分が納得できる絵』を描くこと。だからひたすら描く。そのための時間を、絵を、人生の一部分をヒロキのために切り分けている。この夢はヒロキ以外に話したことはない」

「マリアちゃんが尽くしているのはわかったよ。でもそれは『好き』なんだ」

 そうだ、尽くしているんだ。こんなにも尽くしているのに。

 ヒロキがエロ小説を投稿しているときはよかった。だって、わたししか頼らないから。わたしが描いていればそれでよかったのだから。

 でもゲーム作りはダメだった。わたしは絵しか描けない。それだけじゃ足りなかった。

 ぜんぜん足りない。だからヒロキはこんな奴らを呼んできて……

 もう声が出ない。けれど自然と涙が出てきた。情けなくて、悔しくて。

「あ、あのね! ボクはマリアちゃんとヒロキくんの仲を応援したいんだ。本当だよ。だから伊月先生に負けないようにしないと!」

「負けない方法なんて、あるわけない。あんなに美人で、胸が大きくて、声が綺麗で、頭がよくて、優しくて…… わたしは全部負けてる。勝てるわけない」

「それは違う。だってマリアちゃんはヒロキくんにとって特別な存在だから」

「特別なんかじゃない。ただ、ずっと側にいただけ。わたしはヒロキに寄りかかっていた。わたしの夢を応援してくれたヒロキのことが好きで、側にいたかっただけ」

 なんでこんな奴に話をしてしまったのか、激しい後悔に襲われる。

 秘めた想いがほじくり返される不快さに耐えかねて吐きそうだった。

 志島はわたしの両手を掴んでくる。わたしは顔を上げることができない。こいつのこういうところが嫌いだ。他人と上手に話せるし、他人に好かれる。わたしには絶対にできないのに。

「ヒロキくんがどうして物語を作るようになったか知ってる?」

 知るわけがない。あいつは幼稚園のときからずっとそうだった。書き続けないと溺れ死ぬ呪いにかかっている。それがわたしとヒロキの共通点だった。

「幼稚園の頃のヒロキくん、マリアちゃんに絵を描いてほしかったんだって」

 涙ぐんだまま顔を上げてしまい、志島と目が合う。心に立ち込めていた暗雲が急速に晴れていき、唇を小さく動かした。「どういうこと?」と。

「すごく絵が上手な女の子がいて、どうしても絵を描いて欲しかった。仲良くなりたかった。でも、その子は黙々とひとりで絵を描いている。だから思い付いたんだよ。『一緒に紙芝居を作ろう』って」

 忘れる筈もない。それはヒロキに初めてかけられた言葉である。

 物心付いた頃からずっと絵に囚われてひたすら描き続け、大人にも「上手だ」と褒められていた。けれどそれで満たされることはなく、自分の納得を追い求めてきた。

 ヒロキだけは違う。『一緒に紙芝居を作ろう』と声をかけてくれたのだ。あの日から、わたしの世界は色を得て広がっていった……

 今、もう一度同じことがわたしの中で起こっている。目に映る世界の色がさっきまでとまるで違って見えた。

「わたしに絵を描いてほしかった? ヒロキが?」

「うん。だからヒロキくんは物語を書き始めたんだ。マリアちゃんは、ヒロキくんにとっての原点なんだよ」

 もう十年以上の付き合いになるのに、ヒロキの口からそんなことが語られたことはない。でも志島の作り話じゃないことは分かる。『一緒に紙芝居を作ろう』と言ってくれたことはヒロキと私しか知らないのだから。

「なんで、わたしにその話をしたの?」

「だ、だって! こんなにエモい話を知ってて、マリアちゃんに教えないままにしておくなんて無理だよ! 彼に尋ねたんだ。何故、物書きになったのかって。そのとき教えてもらったんだよ」

「……ヒロキのバカ」

 よりにもよって、そんな話を他人にするな。というか、さっさとわたしにしろ。

 内側に渦巻いていたドス黒い感情は霧散していた。自分がこんなに単純な人間だなんて驚いてしまう。

「その紙芝居、うちで大切に保管してある」

「ホント!? 見てみたい!!」

「恥ずかしいからダメ」

 志島は口を尖らせていたけど、妙に嬉しそうだった。

 結局、わたしはこのコミュニケーション上手な女に乗せられてしまったのだろう。本当に嫌な奴だ。でも、そのお節介には感謝しておく。

「助かった」

「ん? いま、なんて」

「二度は言わない」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る