第8話 背中を引き止めたもの  

 夜だった。

 凜花はこっそりと家から抜け出した。

 ふっきれたのだ。壁から突き出た縁をうまく使って窓から地面までを降りていって、途中で足を滑らせて何度か死にかけたけどそんなことはどうでもよくて、これまでの不幸は凜花に定められた運命に決まっており、姉の人生を奪った凜花への正当な罰であると思えばこれまでの不幸はすべて許せるような気がした。

 許せるような気がした、というのは大問題だ。

 それでは罰になっていない。

 だから凜花はふっきれて、人目のつかないところまで行ってこれから命を絶とうと思ったのだ。

 声は聞こえなくなった。

 当たり前のことだと思った。

 今までに聞こえていた声とは、過去の凜花が自らの過ちを思い出させるためのファクターでしかない。

 今になって思い出すのは、花蓮は凜花に対してなにかとお節介を焼きたがっていたこと。両親は共働きで、家を空けることも多く、自分が凜花の親代わりになろうと花蓮なりに責任を感じていたのかもしれない。衣服の洗濯もへたっぴな料理も神経質な風呂掃除もお皿を割った食器洗いも、母親に褒められたり怒られたりを繰り返しながらそれでも継続していたのはきっと凜花のためだったに違いない。普段はなんだか抜けていることも多く、会話の内容が気がついたらよくわからないところに飛んでいるのも、ゲームが苦手なのか二分間隔でせわしなく攻略法を聞いてくることも、靴下だけならまだしも靴まで柄違いで色違いな別のものを履いていたことも、風邪をひいた凜花に対してとても病人に食べさせる量ではない山盛りのすりリンゴを持ってきたことも、運動会の駆けっこで怪我した凜花をおんぶして保健室へと膝をぷるぷるさせながら向かっていったことも、手を上げずに横断歩道を渡ろうとして車に轢かれかけた凜花を思いっきり叱った後に思いっきり抱きしめてくれたことも——思い出せば思い出すほどに、花蓮には、もう二度と会えないのだという実感がどしゃ降りの雨のように襲いかかる。胸が締めつけられる。呼吸がうまく作用しない。

 胸を抑えつけながら着実に目的地に向かう。

 目的地は、多坂町で一番背の高いケーキ坂だ。

 向かう途中で何度も立ち止まり、幾度も呼吸を整えて、目の奥が熱くなっているのを意識して抑え込もうとした。

 涙は流さない。

 悲しみを感じることすらおこがましい。

 花蓮からすべてを奪ったのは凜花だから。

 小石を踏んで足の裏から血が出た。木の幹に寄りかかったらささくれが背中に刺さった。側溝に足がはまって膝から下が泥だらけになって、足の裏の傷に泥が染み込んでその痛みに耐えられなくなって前のめりにこけた。

 痛いのは嫌だし、いったい自分はなにをしているのだろうという気もしてくる。

 家に帰ればきっと両親が優しくしてくれる。辛い気持ちから現実逃避することができる。

 だけど駄目なのだ。

 これ以上の痛みを、これ以上の理不尽を花蓮はとっくに味わっている。

 だから同じだけの辛いことを、凜花は罰として受けなければならない。

 ケーキ坂の入り口にたどり着く。

 螺旋を描くような坂をひたすら登る。

 すっかり冷えた夜風に、体中から噴き出る汗が晒されてたちまち火照った体を冷ましてくれる。こけた時にできた額の傷に、痛いぐらいに汗が染み込んでいく。

 横目に通り過ぎていく住宅の群れは、高度を上げるごとに次第にその数を減らしていく。

 ケーキ坂の四分の三を登った辺りから舗装道路を外れた。歩を進めるごとに、まばらに雑草が生え始める。木組みの高台を通り過ぎたらこれ以上は進まないでくださいという注意の立て看板が地面に打ち込まれていた。

 こんなところまで来たのは、凜花にとって初めてのことだった。

 そもそもこんなところに来るやつなんて馬鹿か煙かよっぽどの高い所好きかそれとも変わり者か、もしくは凜花のような自殺志願者に決まっていた。

 ここは、誰からも忘れられた場所なのだ。

 町の名所にしようと町の偉い人に建てられた木組みの高台は、予算をかなりケチったせいでとんでもなく不安定な作りとなっている。登れば確実に怪我人がでるし、実際に出た。怪我をしたのはまだ小さな男の子だったはずで、男の子の親を筆頭にして、憎き高台はすぐさま撤去されるべきという声が高まった。しかし撤去するにも金がかかる。解決案として出されたのは、高台周辺の立ち入りの禁止。安っぽい立て看板と細っちいロープで封鎖され、この場所に訪れる者は自由気ままなトンボや子供をおぶったバッタなんかがほとんどになった。物見櫓のような高台は、時が経つにつれて町の人々の記憶から失われていった。だから知っている者はほとんどいない、区画封鎖の立て看板と木杭に繋がれたロープがいつのまにかきれいさっぱりと立ち退いていることに。それはどっかの悪ガキが若気の至りでこんなものは邪魔だと排除したのかもしれないし、伸び放題の雑草に飲まれてそのすがたをかき消したのかもしれないし、もしかしたら時の流れで高台の罪がついに赦されて、町の偉い人が高台周辺の立ち入りを許可したのかもしれない。

 残ったのは、これ以上は進まないでくださいの立て看板。

 夜空が近い。

 星は、厚い雲に覆われてその姿を隠している。辺りは、すっかり闇に覆われている。

 世界に一人だけ取り残されたような錯覚を覚える。

 探るような足取りで、一歩を踏み出す。

 心拍数があがった。踏み出す先には地面がないかもしれない。

 はやる心臓を抑えつける。

 そこかしこの筋肉が痙攣している。

 もう一歩、さらに一歩、眩暈に襲われながらもあと一歩だけ踏み出した。

 花蓮の元にどんどん近づいていく。凜花の罪が頭の先から洗い流されていくような気がした。

 このまま歩くだけでいい。それだけで凜花に対しての罰が執行される。

 それなのに、それだけなのに、


 これ以上は、前に一歩も踏み出せなかった。


 怖くって、なによりも恐ろしかった。

 白くて半透明な無数の手が凜花に向かっておいでおいでをしているような気がする。立っている場所から周囲のすべてが切り立った崖のように思える。呆然と立ち尽くしたまま、前にも後ろにも右にも左にも進めなくなっていた。

 決めたのではないのか。

 ふっきれたのではないのか。

 底なしの闇が、頭の中に染み入るように感じる。

 恐怖以外の感情が、意識の外に弾かれた。

 罪だとか罰だとかこの時はなにも考えられなくなっていた。

 恐怖の根源は、死だ。

 死んでもいいだなんてどうしていままで軽々しく考えることができたのか。目の前に迫っている今だからこそわかる、自らを失うということの圧倒的な虚無感は、凜花なんかには到底太刀打ちできるようなものではなかった。

「凜花」

 思えば、花蓮は凜花をかばって山の斜面を転がり落ちた。凜花の生を繋ぎとめるため、自らが死ぬかもしれないという恐怖のままに視界を回した。

 痛かっただろうし、つらかっただろうし、なによりも理不尽を感じたかもしれない。

 それでも花蓮は、ぎゅっと凜花のことを抱きしめ続けていた。

 それは姉という立場ゆえか。

「ねえ凜花ってば」

 それとも凜花が飛び込んできて、たまたま抱きとめる形になっただけなのか。そうだったら最悪だ。花蓮は、ただの被害者ということになる。やっぱりそれは理不尽だ。

「ねえ聞こえてないの」

 ——聞こえていないに決まっていた。

 凜花の名をこんなにも馴れ馴れしく呼ぶのは、死んだ姉を置いて他にはいない。

 聞こえるはずのない声が聞こえると思った。

 死んだはずの姉が傍にいると思った。

 彼女がいれば、凜花のことをまた昔みたいに世話を焼いてくれる、そう思いたかった。

 すべては妄想、虚構、非現実、——優しい嘘。

 花蓮のことを思い出すのは、声なんて聞こえなくてもきっと容易いことだったに違いない。花蓮を思い出した時の救済として、凜花の心は、死んだことなんてなにも気にしていないような振る舞いの花蓮を作り出した。

 死んだ本人がなにも気にしていないのだから、凜花が死ぬ必要はない。

 自分への逃げ道を用意していた。

 だから、耳を塞いだ。

「ねえ、死んだら駄目だよ」

 後ろは振り向けない。

 犬なんかよりもずっと恐ろしいものがいる。

 凜花は思わずしゃがみ込んだ。

 耳を両手で塞いだ。

 伏せた顔を曲がった膝の隙間にうずめた。

 指の隙間から、雑草を踏みつけながら近づいてくる足音があった。そんなわけがない。後ろには誰もいない。いい加減、生への希望を残らず捨てるべきだ。

 雨音。

 雨粒の一つが雑草の葉の上に跳ねた。雨粒の二つ目が地面に吸い込まれた。雨粒の三つ目が凜花のうずくまった背中に落ちた。雨粒の四つ目が——降り始めた無数の雨粒たちが、次第に強まり天と地を繋げる架け橋のようになる。

 全身をくまなく伝う水滴に体を禊がれるような気がする。

 膝から顔を上げ、耳から手を離し、雨脚の元を手繰るように凜花は立ち上がる。

 今なら、前に進める気がした。

 雨脚の一部となって、アスファルトの地面に思いっきりぶつかればいいのだ。

 塗れた髪が頬に張りつくのを感じながら、凜花は右足を浮かした。

 しかし、足の裏が地面に着かない。

 後ろから抱きついてきた何かに、前に進むことを引き留められるように阻害されている。

 これも嘘だ。幻だ。振り払うのに力なんていらない。必要なのは、進むという意思だ。

「だから駄目だってば」

 耳をくすぐるような近くの声。

 生の感触があった。

 これ以上は、認めざるをえない。

 後ろには、誰かいる。

「だれなの?」

 答えなくていい。なにも喋らなくていい。これ以上はもう、

「誰だっていいじゃない」

 ああだめだ、

「だけどね、あなたに死んでほしくないって思ってることはほんとだよ」

 意思を制御できなくなってしまう、

「ねえ、ちゃんとわたしの分まで生きてよね」

 まだ、この世に生きたいと思ってしまう。

 目の奥に溜められたものが弁が壊れたみたいにあふれ出す。喉の奥にわだかまったものが謝罪の言葉としてこぼれ出す。死ぬ度胸もなく、振り向く勇気もなく、凜花には自分への情けなさと花蓮への申し訳なさで、まったく気持ちがどうにかなりそうだった。

 ごめんなさいごめんなさい。

 後ろの誰かに言い聞かせるように、死ねない自分をごまかすように、雨と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をさらして凜花は許しを乞う。

 後ろの誰かはなにも言わずに、凜花のことを抱きしめた。

 横断歩道を手をあげずに渡ろうとした凜花を、思いっきり叱った後に思いっきり抱きしめた、あの時の花蓮の腕の感触に似ていた。

 泣き疲れた。

 雨は降り続けていた。

 抱きしめられている感触は、もう消えた。 

 凜花は振り向く。

 花蓮が生きているとは思えない。あれは聞いたことのある声だった。

 振り向いた視線の先には高菜空乃がいた。ずぶぬれで、傘もささず、やっと振り向いたねと呟いた。

 だけど、さっきまで凜花のことを抱きしめていたのは、きっと彼女ではないのだと思う。

 答え合わせはしなかった。

 そして空乃はこう言った。

「時雨沢さんは不安だったんだよね。ちゃんと私が言葉にしなかったから、いったい自分がどう思われているのかって。だからちゃんと言うね。あのね、私はずっと時雨沢さんと友達になりたかったの。どうやって話しかけようかな、話しかけるにしてもどんな話題がいいのかなって、ずっと考えてたよ。だけど勇気がだせなかったの。だからね、今日は時雨沢さんと話せてすごく嬉しかった。嫌な気持ちなんてそんなのないよ。だから改めて言おうと思ったんだ。あのね、私と友達になってください、時雨沢さん」

 たくさんのぶっきらぼう言葉を浴びせた自分と、たくさんの恥ずかしい自分の姿と、たくさんの自分勝手な自分の言動を見て、それでもなお空乃は自分と友達になってほしいと言う。

 嬉しいと正直に思えた。

 自虐的な自分を、はじめて認めてもらえた気がした。

 生きていてもいいとそう思えた気がした。

 

「うん」

 

 見なくてもわかる、凜花はきっとひどい顔で笑ったに違いなかった。

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