第6話 時雨沢花蓮

 すべてを思い出したわけではないけど、人生に起こった大きな出来事はほとんど思い出した。

 とりわけ大きな出来事は、病室で目覚めるほんの数日前の出来事である。

 二つ年上の姉がいた。

 一緒によく遊んでくれた。

 その日もいつものように遊んでいて、だけど途中で姉の友達が乱入してきた。自分の姉が取られてしまうような気がして、よくわからない嫉妬心にかられて、遊んでいた公園から逃げるように一人で遠ざかっていった。

 追いかけてきてくれるかと期待した。それとなく街路樹の角を曲がるところで、振り返ってみる。姉の姿はない。ちょっと立ち止まる。やっぱり来ない。

「花蓮のばかー!」

 姉の名前を、公園にも届くようなでっかい声で叫んだ。

 ワン‼

 それに負けじとどっかで犬が吠えた。

 なんでかはよくわからないけど、首輪の外れた犬が追いかけてくるような気がしてたまらず叫びながら走り出した。どれだけ走ったのかはわからない。妄想の犬が背後にいないか気が気でない。だけどさすがに疲れて、一旦立ち止まって、乱れに乱れた呼吸を整えた。

 背後は、狂犬がいるかもしれないから振り向けない。

 人の手の入っていない山が前方にある。カエルの鳴いている田んぼが横目に見える。オレンジに染まった陽光が、遠慮なく土砂降りのように降り注いでくる。知らない場所ではない。何度か花蓮と来たことがある。ビニールシートを山の木々に引っかけて、二人の秘密基地を作っていたことがある。それは小学校の三年生になってからはもうしなくなったけど、秘密基地に人形なんかを持ち込んでおままごとをよくしていた。思い出したらまたやってみたくなって、急に花蓮のことが恋しくなった。

 背後に音。

 犬のことなんて忘れていた凜花の意識の隙間に、じゃりっというまるで砂を噛むような音が潜り込んできた。

 走る、という単純な動きを一時だけ凜花は忘れていた。点滅する赤いライトに頭が埋め尽くされたような感覚だ。脳の電気信号があちらこちらで混線している。体が動かせず、しかし凜花になにかをしようという意思があったわけでもない。

 ただ、よだれにまみれた牙の感触が、今に自分の体を貫いてくるという恐怖だけがあった。

 背中になにかが触れた。

「きゃっ」

 凜花は、蛙がいきなり跳ぶような動きを見せる。思ったよりも勢いがついてしまって、そのままつんのめるようにして顔のほうから倒れ込む。視界に、雑草だらけの湿った地面が近づいてくる。

 絶対に鼻血が出ている。そんな痛みを感じる。

 背中なんかよりもずっと痛い。

 というよりも、背中がちっとも痛くない。

「そんなに驚くことないでしょ。私のほうがビックリしちゃった」

 めちゃくちゃ聞き覚えのある声に、凜花は電撃的な速度で振り向いた。

 めちゃくちゃ見覚えのある顔に、ほっとすると同時、なんだかむくむくと怒りが込み上げてきた。

「私のほうが絶対にビックリしたんだから‼」

 謎の対抗心を剥き出しにした。

 そのまま山に向かって走り出した。

 流れる涙が、凜花から離れて流星みたいに線を描いて、花蓮がそれを追いかけるようにして走ってくる。

「ちょっと待ちなさいってば」

 誰が待ってやるものか。花蓮がすべて悪いのだ。謝ったって許してやらない。

「塾があるからってさっきの友達はもう帰ったから。ほら、ちょっと待ってってば」

 自分でもよくわからない嫉妬心を当たり前のように花蓮に見透かされていた事実に、なんだかさらに腹が立った。

 凜花は待たない。

 土から顔を出している木の根っこ、大小さまざまな石ころ、腐葉土みたいに柔らかい地面、足場は最悪と言ってもいいぐらいに悪い。だけどそんなものは関係ない。本能に従って、凜花は子猿のような俊敏さで山を登っていく。ぬかるみにはまって、花蓮に追いつかれそうになった。手を伸ばしてくる花蓮に穴を掘る犬みたいに足を動かすことで泥をぶつけてやった。

「目に入ったらどうするのよ。バカ凜花!」

「べーっだ」

 花蓮に向かって自分の舌を見せつける。

 子供っぽい挑発だ。

 怒るような仕草を見せてはいたが、花蓮だって本気で怒っていたわけではないだろう。

 だってその証拠に、花蓮の口角はわずかに上がっている。

 鬼ごっこの延長線のようなものだ。捕まったらくすぐりの刑が待っているに違いない。凜花は調子に乗って走るスピードを上げて、追ってくる魔の手からひたすらに逃げ回る。だけどいつまでも逃げてばかりではいられない。終わりはいつかやってくるものだ。

 オレンジ色の陽光が、凜花の視界にまっすぐに飛びこんできた。凜花の顔に、それはまだら模様に差し込んできた。

 あっ、と思った時にはもう遅い。

 凜花の体は宙に浮いていた。地面から突き出た岩が頭の着地点にはある。

 時間の間隔がやけにゆっくりで、考えたことは早いうちに花蓮に謝っておけばよかったということだ。

 意地になってごめん、追いかけてきてくれて嬉しかったよ、浮かんできたのは花蓮と過ごしたたくさんの思い出——これが俗にいう走馬燈であることに凜花は当たり前のように気づいていない。

 そこからの記憶はまるで靄のかかったように曖昧で、小枝の折れるような音を何度も聞いた気がするし、泥が四方八方に飛び散るような音を聞いた気がするし、重低音を鳴らす打楽器よりもさらに鈍い音を聞いた気もするし、上下の感覚はぐちゃぐちゃで、たまに襲い掛かる浮遊感はジェットコースターよりも不快だった気もする。それでも包み込まれている暖かさがなによりも優しく凜花のことを守ってくれるのだという安心感があった。

 いつのまにか気を失っていた。

 鈍い痛みがある。

 凜花はゆっくりとまぶたを持ち上げた。

 目の前には花蓮の顔があった。体は花蓮に抱きしめられている。凜花は花蓮の腕を払いのけて鈍痛に苦しむ体を無理やり起こした。

 そうして、花蓮の全体像を、血の池に浸された花蓮の体をぼやけた視界の中に凜花は見た。ありえない方向に曲がっている脚には貫通するように木の枝が刺さっている。凜花のことを抱きしめていた腕には骨のようなものが露出している。服はぼろぼろ、髪は血の色、頭からは未だに血があふれ出している。

 山の斜面を、花蓮に抱きかかえられながら転がり落ちてきたなんて推量がまったく浮かばないほどに凜花は混乱していた。

 理解なんてしたくなかった。

 ただただ純粋な恐怖があった。

 叫んだかもしれない。吐いたかもしれない。

 とにかく事実として凜花の記憶はここで途絶えた。次に目覚めた時は、すべてを忘れていた。

 ——病的なまでに真っ白な、どこかの病院の一室にいた。


 ——あ、

 目の前の凜花が、しばらく黙っていたかと思うと一言だけ呟いて頭を抱え始めた。

 それは、凜花の大事なものが決壊してしまう、最悪な前兆のようなものだったのかもしれない。

 凜花の心は、実際に多大なるダメージを受けていたに違いない。

「ああああああああああああああああああああああああああああああ」

 気でも触れてしまったかのように凜花がうめき声を漏らして頭を垂れた。壊れてしまった水道のように涙も鼻水もよだれも垂らして、なにかに祈るように組み合わせた両手を胸に引き寄せて、空乃には聞こえない声のボリュームで呪詛のように何事かを呟いてうずくまっている。空乃はかける言葉も見当たらず、その場でなにをするでもなく棒立ちになっていた。なにが起こっているのか、そこからがまずわからない。凜花と共にいたアルバムの少女が、すべての鍵を握っていることは間違いないだろう。しかし今日になって初めて話した凜花のその家庭環境を空乃がなんでもかんでも知っているわけもない。

 とりあえずなにかをしてあげようと思った。

 背中を撫でるぐらいのことは、なにも知らない空乃にだって許されるはずだ。

 空乃はしゃがんだ。凜花に手を伸ばした。凜花の心の琴線に触れないようにできるだけ慎重に、凜花の心が少しでも落ち着くようにとにかく優しい手つきを心がけ、数秒をかけてようやく凜花の背中に手が届きそうになって——おねえちゃん、という呟きが聞こえた。

 空乃の中で、わずかにもやもやが晴れた。アルバムの少女がいったい誰であるのかがわかった。

 ごめんなさい、顔から色んな液体を出しながら、何度も何度も凜花が唱えている。

 察することはいくつかあるけど、やっぱり空乃にできることなんて背中を撫でてあげることしかないのだと思

 ——いや。

 凜花に憑りついている幽霊が凜花にとっての身近な人だとすれば、幽霊の正体は凜花のお姉さんに決まっているではないか。幽霊の憑りつく理由が現世に取り残した心残りだというのなら、それは紛れもなく凜花自身のことに他ならない。凜花のごめんなさいという言葉から、彼女のお姉さんの死因になにかしらの形で凜花は関わっているのだと思う。

 凜花のお姉さんは、凜花のことを恨んでいるから凜花に憑りついているのだろうか。

 違う気がする。

 凜花の話を聞けば、幽霊は実に世話焼きでお節介焼きらしい。

 恨んでいる相手に、世話もお節介も焼くわけもないと思うのはなにも空乃だけの見解ではないはずだ。

 知らなければいけない。凜花の抱えている自責の正体を、幽霊が凜花に憑りついている本当の理由を、そうすることで凜花の悩みは本当の本当の意味で解決されるはずだ。

 幽霊を祓うだけではない。空乃のするべきところはまずは知るところから始まるのだ。

 空乃は凜花の背中を撫でた。

 この背中には、いまどれだけの悲しみがのしかかっているのだろう。

 それをどれだけ、空乃は取り除いてあげることができるのだろう。

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