飛べない魔法使いと飛ぶペンギン

仲島 鏡也

飛べない魔法使いと飛ぶペンギン

第1話 空を飛んでみようと思った

 空を飛びたいと本気で思っていたのかは、胸に手を当ててみたけど正直なところわからない。


 だけど走ったんだ。


 勾配がめちゃくちゃ急な坂を、アスファルトを焦がしそうな日差しの中を、夏と言われれば誰もが思い浮かべるような、どこまでも広がっていく青空とそれを無謀にも飲み込もうとするまるで化け物みたいな入道雲の下を、高菜空乃(たかなそらの)は、肌に張りつくTシャツのうっとうしさを振り払うように走っていた。周囲から見ればジョギングでもしているのかという遅さだが空乃にしてみれば全力であることに違いはない。


 足下のまばらに生えた雑草が走るごとにどんどん増えていく。登り坂に埋め尽くされた視界の上半分が走るごとに徐々に開けていく。眼下に町を見下ろせる木組みの高台がやがて見えてきて、それを横目に通り過ぎるとこれ以上は進まないでくださいという注意の立て看板が立ちふさがる。


 思いっきりジャンプしてそれを乗り越えた。


 体にかかるのは、空乃を理不尽なまでに地面にいざなう重力と、肌を舐めながらTシャツを乾かしていく強烈な風。頭上には手を伸ばしても決して届くことのない空が広がり、足下には五秒後ぐらいにでも着地ができるアスファルトの地面が広がっている。着地といっても体操選手のような美しいものではなくて、全身の骨という骨がどうしようもなくバッキバキになるような不格好な着地だ。


 ずっと目の先にあるのは広大な海だった。


 生きるか死ぬか。


 もう戻れない。


 空乃には、空を飛ぶ以外にはもはや生き残る道はないのだ。


 黒いアスファルトを血で赤く染め上げる四秒前、どこまでも高く高く突き出した左手はやっぱり空に届くどころか雲にだって届かない。当たり前だ。知っている。だけど、少しでも近づくことができるのならそれでよかった。


 魔法使いは空を飛ぶのだ。


 翼はない、ジェットエンジンもなければアフターバーナーもない。それでも魔法使いは人の原初の夢を映したように自由気ままに空を飛ぶ。魔法使いである証明は、いつだって空を飛ぶことによってなされてきたし、つまりは空を飛ばなければ魔法使いではないという証明にもなってしまう。


 魔法使いの家系に生まれたからには、空乃は自らが魔法使いであることを証明しなければならない。しかし飛ぶとはいってもそのまま人体を飛ばすことは魔法の領域ではない。だったらどうするのか。簡単だ。あくまでも飛ばすのは、もとい浮かせるものは、自分の身の回りにある、なるべく片手で持てるぐらいの軽い無機物だ。手荷物なんて何一つとして持っていない空乃だがさすがに服とか靴とかは身に着けている。


 それを浮かせる。


 靴を浮かせて支えのない中空でのバランスを保ち、逆立ちそうなスカートを乙女の純潔を守るためにも押さえて、汗の染み込んでしまったTシャツを使ってまるで舵取りのようにして飛びたい方向を目指していく。それが空を飛ぶための理想の魔法の形だけど、それがわかっているからといってその通りにやれば簡単に空を飛べるということでは決してない。さっき簡単だといったのはあくまでも口にするのは簡単だということで、そもそも物を浮かせるといった物理法則に反している行為がそうやすやすと行えるはずもない。


 たちまちのうちにバランスを崩した空乃。


 くるくるともんどりを打ちながら、視界の中で、何度も天地をひっくり返す。


 不思議と、まあこんなものだよねと思いながら、叫び声の一つだって出ない。


 どこまでも、長く伸びて幾筋もの線になっていく、すでに天地の違いもわからない視界の景色。


 死んでしまうということはもはや思考の埒外だ。現実感のない今の状況がどうしても受け入れられない。


 どうしてこんなことになったのかは、いつもよりも謎の万能感に満ちている今日のポテンシャルのせいだった。今だったらいくらでも空を飛べるような気がして、だったらこの町でも高いことで有名な丘まで登ってやろうと思って、母である日葵ちゃんのいつになったら空を飛べるようになるのかといういつもの愚痴からついにおさらばできると思った。それと普段では考えられないような出会いがあったことも一因だ。


 ペンギンに会った。


 そのペンギンは当たり前のようにこの町に住んでいる。そのペンギンは当たり前のように空を飛ぶ。そのペンギンは当たり前のようにたどたどしく日本語を話す。

 高校から帰って家で着替えて、何の気なしに散歩でもしようかと思ってそれから空でも飛んでみようかと思い至って出かけてみたら、三羽のペンギンが目の前に降ってきた。車通りは少ないとはいえ、ガードレールを挟んで車道にいる彼らをとりあえず歩道に誘導した。彼らはその間に、羽をぱたつかせてなにかを言っていた。


 タスケテータスケテー、鳴き声かと思ったそれを「助けて」という意味のある言葉に頭で変換した。ペンギンたちはそれから両の羽を使って器用にスカートを引っ張ってくるので、それに困り果てた空乃は、なにを助けるのかはわからないけどとにかく交換条件をふっかけてみた。


 ——あなたたちを助けてあげる。だけど、これから私は空を飛ぼうと思ってるんだけど、もしもそれが失敗したら私を助けてほしいの。それが交換条件、これができないとあなたたちを助けてあげない。わかった?


 ——ワカッターワカッターワカッター


 本当にわかっているのかはわからないけどとにかく保険をゲットした。


 そして三羽の保険が、きりもみ状態で落下する空乃の元にロケットみたいに飛んでくる。あんな風飛べたらなあ、ううん、あんなに速く飛ぶところを見られたら誰彼かまわずに引かれてしまうかなあ、だってあれじゃあスーパーマンみたいだもん、のんきにそんなことを考えていられるのも、結局、自分が死ぬことがないと頭のどこかでわかっているからだった。


 まず一羽目のペンギンが、空乃のどてっ腹を突き上げるように突っ込んできた。


「おふっ」


 落下の勢いはたいぶ緩まった。


 胃の内容物をすべて吐きだしそうになったけど、これはまあ許してあげようと思う。


 次の二羽目のペンギンが、回転の勢いを緩めた空乃の足元に三つ目の靴のように静止した。


「わあ」


 アスファルトの地面に向かってゆっくりと着地することができた。二羽目のペンギンにはとんでもないぐらいに感謝する。


 問題は三羽目だ。


 うずまきのような坂道があって、空乃はその入り口に立っていて、足下に地面があることがどれだけありがたいことなのかを噛みしめていた。うずまき状に高くなっていく建物たちを背後にこのまま助けてくれたペンギンを褒めて終わりにしたかった。でもできなかった。ひと息ついてから、三羽目のペンギンが空中前転するようにこちらに近づいてくるのが見えた。車のタイヤみたいにぐるぐると回っている三羽目のペンギンは、空乃の顔面にちょこんと生えている尻尾を突きつけて、お尻から激突する。


 息ができなかった。


 思ったよりも獣臭い。


 しばらくの間、顔を覆っているペンギンを引っぺがそうと必死になって、結構な重さのあるペンギンを持ち上げる。なんとか呼吸を確保する。足元から二羽のペンギンがダイジョブダイジョブ? なんて声をかけてくるもんだから思わずこっちも大丈夫だよと言ってしまう。怒ってはいなかった。それでも持ち上げたペンギンを上下に激しくシェイクする。そのまま地面に下ろす。目を回したペンギンが酔っぱらいみたいにたたらを踏む。


 ささやかな復讐だった。


 ふらついていたペンギンが倒れ込み、そのペンギンを、二羽のペンギンが気つけでもするようにぺちぺち叩いた。叩かれたペンギンはぶんぶんと頭を振って起き上がる。三羽のペンギンが横並びになって空乃を見上げる。


 言いたいことはわかっている。


 空乃の言った交換条件を呑んで、彼らは見事にそれを果たしたのだから、次は空乃の番だった。細かく言えば、彼らの条件はなにも明かされていない。いったいなにをすればいいのかは、ついてこいと言わんばかりに空を飛び始めた、三羽のペンギンを追いかければわかるのだろう。


 彼らはまっすぐに海を目指し始めた。


 空を目指していた、空乃とはまったくの逆といってもいい場所だ。


 だけど彼らは空を飛ぶ、だけど空乃は、彼らみたいに空を飛べない。


 まったく世の中は、望んだようにはいかないらしい。


 たまに後ろを振り返りながら飛んでいくペンギンたちを、空乃はひたすらに走って追いかけた。


 空乃の切り裂いていく風と、彼らの切り裂いていく風はどれぐらい違うのかと、空乃は走りながらふと思った。


 きっと気持ちいいんだろうなと、そう思った。

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