第6話

 目の前に三谷ナナがいる。


〈膨張禁止令〉に抵触するかしないかという程度には胸元が強調される服装で、テーブルについてアイスティーを飲んでいる。ストローに残る口紅もリアルなのだが、間違いなくこれは夢だ。それはわかっている。それでも三谷ナナと談笑する僕を俯瞰で見ることをやめられない。第三者的な視点で見ているのに、なぜか目の前にいる自分の鼓動の高鳴りを感じることまでできた。


「一度、たもつ君の家に行って、話してくれた本や漫画を読んでみたいな。でもきっと私、時間を忘れて没頭してしまうと思う」


 周囲の景色は茫洋としている。どこのカフェなのか、それともレストランなのかもわからない。


 それでも、三谷ナナの姿だけがくっきりと浮き上がって存在している。


「いいね、その感じ」


 耳鳴りのような騒音がまとわりついているなかで、その声だけがはっきりと聞こえてくる。声量があるわけではないが、なぜだか心地よく鮮明に聞こえる。


「あ、でも、ひょっとしたら終電を逃してしまうかも――。もしそうなったら、どうする?」


 いつもの上目遣いに心が躍る。


 ただ、その仕草と視線だけではなく、彼女の声も好きだったことを思い出す。高過ぎず低過ぎず、透き通っていて知的なのに、どこかあどけない雰囲気も残っている。今思えば、すべては意図されて作り出されたものだったような気もする。


「いいよ。たもつ君なら。でも、ふたりだけの秘密だよ」


 けっきょく、僕が三谷ナナとベッドを共にすることはなかった。それどころか、口づけすら交わしていない。その手に触れたかどうか、というところだ。


 と、回想に浸っている僕の耳を、突然の轟音がつんざく。その反動で、椅子から転げ落ちた。一瞬遅れてガラスの破片が降りかかってくる。反射的に頭を手で覆い、その場にうずくまる。大小様々な破砕音が、次々に耳に届く。できる限り体を小さくして机の下に潜り込む。

 ふと気配を感じ、薄く目を開いた。視線だけを動かす。目と鼻の先に、三谷ナナがいた。同じようにうずくまり息を潜めている。と、目が合ったその刹那、真上からの轟音に襲われる。机の上だ。なにかが机に落ちてきたか、もしくは叩かれたか。もう一度、容赦のない打撃音が2度降ってくる。今度は人為的に叩かれたとはっきりわかった。わけもわからずそのまま縮こまりかけたそのとき、腕に絡みつくなにかに問答無用でひっぱりだされた。


「行くよ」


 机と椅子が乱雑にばらまかれた店内で、隙間を縫うように三谷ナナが走る。その背中を、僕が追っている。周囲には血だらけで肉が爛れた人々がノロノロと蠢く。さいわい動きは遅く、どうにか捕まらないように走ることができた。美しい軌跡を描いて走る三谷ナナの背中に焦点をあわせ、必死でついて行く。


 ――こんなシーンは記憶にない。


 これは僕の夢の中だが、過去の経験だけではなく映像作品からの影響も受けたハイブリッドだ。ぎこちなく歩き回っている屍人の群れを避けながら、かつては整備されていたはずの道路にそって走る。瓦礫が堆積する道路脇に屹立するビル群は、ほとんどすべての窓ガラスが割られて荒廃している。

 道の途中でバリケードのように立ちふさがる車もかつての姿をとどめてはいない。片側のタイヤが外れて斜めに傾いた状態で打ち捨てられたワンボックスカー。バンパーに大きな凹みのある小型車は完全にひっくり返っている。事故だろうか、横転したまま時を重ねた大型トラックの運転席には白骨化した人の姿が見える。


 と、すこし先に十字路が見えてくる。そこに何本か立っている信号機はすべて途中で折れ曲がり、電気は通っていない。今となってはただのオブジェだ。


「ここよ」


 そう言いながら足を止めた三谷ナナが、信号機のひとつに近寄って手をかざす。


 と、近くで地鳴りが起こり、路面が人の身長ほども隆起する。あっけにとられている間に変形した面に切れ目が入って開いた。現れたのは、瓦礫に覆われた埃っぽい景色のなかでは不釣合いな、硬質でなめらかなグレーの面に覆われた空間だ。どうやら、地下へと続く階段のようだ。


「さ、入って」


 戸惑う僕の背中を、三谷ナナが押す。


 でも、と口にして振り返った刹那、しわがれた声が襲ってくる。


 ――また屍人だ。と、思う間もなく、それを後ろ回し蹴りで振りはらった三谷ナナが、早くして、と鋭く叫ぶ。さらに湧き出てくるふたりを立て続けに蹴り飛ばす。その姿に促される形で、息を止めながら硬質な空間に飛び込む。視界が闇に覆われるが、先に見えるわずかな光を頼りに階段を下り続ける。


 そのまま、現実感のない空間をただ進む。どれだけ進んだのか、どの程度の時間が経過したのか、なにも実感がない。ようやくたどり着いた光のもと――小部屋に足を踏み入れる。


 そこには光だけがある。目をそばめて見てみても、境界線が見当たらない。どこまでが空間なのかもわからない。立ち尽くしていると、背後から物音が聞こえてくる。


 振り返る時間は与えられなかった。拘束されているかのように身動きが取れない。耳元に、吐息がかかる。艶のある黒に混ざって金のメッシュのある髪が視界に入る。その髪が頬に触れ、くすぐったくて身をよじる。背後から抱きすくめられている僕は、それでも身動きできない。


 もう一度吹きかけられる息に違和感を覚える。と同時に、首筋に強烈な痛みが走り、全身が痺れる。自分の首から鮮血が飛び散るのが、他人事のように意識できた。もう体の自由はまったく効かず、そのまま崩れ落ちる。一瞬だけ視界の隅で三谷ナナの姿をとらえた。見たこともないほど青白い顔で、その口元は血に濡れていた。

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