第2話

 いつもどおり17時きっかりに業務を終え、会社から支給されているパソコンを閉じる。食事は買いだめしているインスタント食品とサプリメントですますことにしていた。調理法や味へのこだわりはなにもない。ただ酒が飲めればそれで良かった。いつものように芋焼酎ロックのグラスを片手に、窓際のパソコンデスクすえつけの回転椅子に座る。背もたれに体をあずけ、肘掛に両腕をのせ、ふと視線を壁側に向ける。今日は朝から一日じゅうカーテンを閉じたままだった。この家の唯一の外とのつながりが断絶していたわけだが、まあいいか、とすぐに興味をなくし、プライベートで使っているノートパソコンを開き、電源を入れる。これさえあれば、ある意味では世界と繋がることができるのだ。


 ブラウザのトップページにしている〈世界樹の館〉には、〈膨張禁止令〉が制定された当時の記録が、動画や写真で生々しく残されている。今でも日々新しい情報が更新され続けており、深く潜るほど色々な情報が湧きでてくる。更新された情報に目を通しているうちに、気がつけば一日が過ぎていることもあるほどだ。〈世界樹の館〉には世界のすべてが集約されている。そう理解してから、僕は外に出ることをやめ、そして、人と関わることもしなくなった。朝起きて〈世界樹の館〉で世間のニュースに目を通し、夜寝る前には〈世界樹の館〉の動画を見ながらアルコールの海に沈んでいく。




 気がつくと、朝だった。


 アルコールの残る鈍い思考と、長年の汚泥が堆積したような重苦しい身体にどうにか指令を与え、上半身だけ起きあがる。どうやら電気をつけたまま寝てしまっていたようだ。パソコンデスクのデジタル時計に目を向ける。7時過ぎ。どうにも寝た気がしないが、二度寝する時間はなさそうだ。大きく息をついて、ベッドから降りる。


 と、視界の隅にわずかな違和感を覚え、その場に立ったまま、じっと目線だけを動かしてみる。正面の乳房は相変わらず存在感を放っている。そのまま壁伝いにぐるりと部屋を見回してみる。バスルームにも乳房が生えていたのだから、また増えていても不思議ではない。そう思ったのだが、室内には最初に見つけた乳房だけが壁から生えている。その状況に変わりはないようだ。ふと思いついて、その壁の乳房に歩み寄り下から手のひらで包み込んでみる。弾力は想定どおりだったが、発見したときよりも重量感が増しているような気がした。よく見ると手のなかに収まりきっていない。違和感の正体はこれだったのだ。触らないとわからないような、ささいな変化だ。気にすることもない、と、そのままいつもの朝の準備を進める。


 もし――。体は惰性で動かしながら、頭の片隅だけで考える。


 もし、このまま乳房が巨大化を続けたら――。


 ひやりと一瞬だけ薄ら寒さを感じるが、それは無かったことにして、バスルームに向かう。




 翌朝、目を覚ますと天井に乳房が生えていた。それもふたつ。


 電気をつけたまま寝てしまっていたので、目覚めた瞬間にいやおうなしに視界に入ってきたのだ。片方は人のそれのような大きさだが、もう一方は明らかに巨大だった。重力にあらがいきれずに少し垂れてきている。またそちらの方が肌の色も薄く、乳首周辺部も薄桃色だ。ひとしきり観察して、それも気にしないことに決めた。


 それから数日間はなにごともなく過ぎていった。壁と天井の乳房は相変わらず生えたままだったが、それも見慣れた光景になるとなんということもなくなった。なにげなく壁の乳房に手をやりその感触を確かめるのも日常になった。ただ、忘れてはいけないのは〈膨張禁止令〉の存在だ。部屋のなかで乳房を、それも布一枚も介さずに直接目にすることなど、本当はあってはならないことなのだ。ましてや触れることなど言語道断だ。そう考えると急に怖くなってきたが、どうしたらいいのかもわからない。朝起きたら壁から乳房が生えていたのです――などと言ってみたところで誰が信じるだろう。僕ならまず、その発言者の頭を疑う。


 自分はおかしくなったのか、とも思った。それでも仕事はいままでどおりなんの問題もなくこなせているし、こうしてまともに思考することもできている。ただ、壁から生えている乳房だけがどうにも説明ができない。それだけだ。下手な話し方をすると、〈膨張禁止令〉違反で収監されるということもありえる。そう思うと、この状況を誰かに訴えることもできない。このままでいいわけもないが、真剣に対策を考えているとついつい先送りにしてアルコールに手が伸び、そしていつしかどうでもよくなってしまう。その繰り返しだ。




 ――〈膨張禁止令〉違反者が大量に海外逃亡。


 ひときわ目を引く大きな文字で、サイトのトップ記事になっている。


〈膨張禁止令〉は日本国独自の法律だ。罪を逃れるために海外に出ること自体は、それほど珍しくはない。問題は〈クロフネ〉が絡んでいるとみられていることだ。〈クロフネ〉は、非公式ではあるが存在していることは間違いないことが通説とされる人権団体だ。日本の〈膨張禁止令〉は基本的人権、表現の自由等を無視し、著しく人間性を踏みにじる人類史上まれに見る悪法だというのがその基本的な主張となっている。


 ――日本の各都市にはすでに〈クロフネ〉構成員がある一定数入り込んでいる可能性が示唆。


 ――ここ20年、半鎖国状態の日本国に対し、各国政府も重い腰を上げ水面下では着々と国家転覆の企みを進めているか。


〈世界樹の館〉のトップページには興味をそそられる記事が並ぶ。危機感を煽るような書き方がされているが、それはあくまでも日本国側の事情で、自分にとってはしょせん他人事だ。ただ、国家転覆後に他国に支配された場合は今の生活を奪われる恐れがある。そんな記載も目にするが、現実味が感じられない。どちらにしても僕にはどうすることもできない。流れに身をまかせるしかないのだ。


 いつもの調子で検索ワードを入力しかけたときに違和感を覚え、キーボードから右手を離してみる。その刹那、ゾッと全身に震えが走った。キーのひとつが小さな乳房に変わっている。その頂点には小ぶりではあるがしっかりと茶色の乳首も存在している。もとはシフトの機能だったはずのポジションだ。それが綺麗な肌色の肉に変わっている。しばらくは身動きできずその光景を何度も脳内で咀嚼していたが、なにも解決することはできない。おそるおそる、右手の人差し指で触れてみる。と、思ったとおりのぷりぷりとした触感だ。何度か押してみるとその度にすばらしい弾力で跳ね返してくる。ふと思いついて、その乳房を押しながらいくつかのキーを押してみたが、残念ながらシフトの機能はなく、ただ小ぶりな乳房がそこに生えているのみであった。 

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