第3話 馬車の中へ

「別の人の声かな?」

 橘の言葉通り、遠くから誰かの話し声が聞こえてくる。しかし、何を言っているのかは聞き取れない。ただ明らかに誰か別の人間が近づいてきているようだった。

(応援を呼ばれたらますます不利だな)

 吉野はなおも橘を背中で隠し、何が起きてもいいように身構える姿勢をとった。

 やがて、目の前の屈強な二人の男の間から、別の男がすらっと現れた。その後ろには門衛の男も立っている。男たちは騒ぐのを止めていた。

 男が吉野たちを一瞥いちべつすると、他の男たちに何か声をかけている。

 すると、男たちは興奮状態から完全に覚め、構えていた武器をそっと下ろして、そしてその場に大人しく座り込んだ。

(この人がリーダーなんだろうか? それにしては幾分若いようにも思えるけど)

 少なくとも目の前の男の瞳からは敵意は感じない。やがて男はうやうやしい態度で、そして落ち着き払った声で二人に話しかけた。

 女の中では比較的身長の高かった吉野だったが、目の前の男はそれを軽く超えるほどの男だった。

(180㎝くらいかな。いや、もっとあるか)

 目の前の男も外見からは日本に住んでいる人間には見えない。


 それにしても、やはり何を言っているのかわからない。わりと良い声で何度も何度も話しかけてきた。敵意がないことを示すために吉野も「あの」とか「すみません」という言葉を発するが、伝わっている反応ではない。男は何やら本のようなものを開いて、ページをめくりながら話をしている。

「なんだか申しわけないね」

 本来であれば、自分たちの方が男のようにずっと言葉を言い続けないといけないのに、同じことを繰り返している姿に気の毒だなと吉野が感じていたところ、橘が妙なことを言った。

「言葉変わってません?」

「変わる?」

「はい、何だろう、抑揚よくようっていうのかな、最初のものから落ち着いてきているような……。さっきは英語のように聞こえましたけど、今は違いますね」

 言われてみればそういう気もしたが、それでも何語かはわからなかった。


 それから数分経っただろうか、その内、なんとか理解できる語彙を耳で確認できた。驚きとともに橘の方を見ると、橘も同じ声が聞こえたようだった。

「コノコトバ、ワカリマスカ? ワカリマスカ?」

「はい、その言葉、わかります!」

 思わずつられて答えてしまった。それは紛れもなく日本語だった。

「!!!!」

 男は心の底から安堵しているようにつぶやいていた。しかし、また通じない言葉を話している。

 すぐに男は腕輪のようなものを取り出して、二人に渡そうとする。腕輪は、2種類あり、4つの腕輪を吉野たちに差し出している。

「これをどうしろっていうんだろう?」

「付けろってことじゃないですかね?」

 不安ながらも二人は左手首に受け取った2つの腕輪を付けた。

 すると、男が再び話を始めた。

「事情が分からず戸惑われているかと思いますが、私たちはあなたがたの身に起きた状況をある程度知っています。詳しい説明は後でいたします。まずはこちらに。案内します」

「あ、はい……」

 先ほどと違ってたどたどしさのない言葉に呑み込まれて思わず承諾した。

 声の響きにやはり危険の匂いは感じない。どこか憐れんだ瞳だなと吉野は読み取った。この目をこれまでどこかで見たことある気がした。悪意のある目ではない。


 知らない人にはついていかないこと、普段はそんなことを口を酸っぱくして生徒たちに言っているのに、この時ばかりはただ目の前の男を信用してみようと思えたのは不思議なことだった。見も知りもしない場所で慣れ親しんでいた言語に再会できたことが嬉しかったのである。それほど吉野は不安を抱えていたということでもあった。


 先ほどまで感情が露わになっていた男たちの間をすり抜ける。途中、門衛の男とも目があったので吉野は黙礼をして過ごした。

(この人のおかげなんだろうな。ありがとうございました)

 門衛も何も言わず、うっすらと笑みをたたえていた。

 5分もかからないところに、馬車らしきものがあった。

 映画や写真では見たことはあっても実物を見たことがなかったのではっきりとはわからない。ここからさらにどこかに移動するのだろう。

(3人で乗るのか。いや他に誰かいるのかな。だとしたら、ちょっと窮屈かも)

 男は「どうぞ」と言って手を取って吉野たちは馬車の中に入りこんだ。しかし、中は馬車とはいえない場所だった。

「何この部屋……?」

 思わず声が漏れたのは仕方のないことだった。せいぜい2、3メートルの直方体の中は、入りこんでみるとその十数倍の広さなのである。

 案内されるまでの景色を見て、明らかに先ほどまでいた日本の学校ではないと感じたが、どうやらここは日本ですらないのかもしれない。

(やっぱりこの世界は……)

 それ以上の情報もなく、男性も特に話しかけてこないので何も状況はわからない。ただ、吉野たちに「席へどうぞ」と疲れを心配してくれているようではあった。二人は重たかった荷物を下ろして身体を軽くした。

 案内された部屋は大きすぎる部屋ではなく、かといって2、3人が使うには十分持てあます部屋であった。部屋にはすでに別の人間がいたが、3人に飲み物を運ぶと、すぐさま見えない場所に隠れたようであった。応接室、いや広さだけを見れば会議室くらい広い。

 男が一口飲んだのを確認して、吉野もつられて口をつけた。橘はまだその余裕はなさそうだった。

 どこか懐かしさを感じるお茶だった。温かい茶が胃に入っていくのを感じると、生きているという実感が戻って来た。


「それで……」

 吉野は一刻も早くこの状況を知りたいと思った。

 憐れみの色を浮かべていた男の瞳は、先ほどよりはいくぶん柔らかいものになっていた。しかし、その口から出てきたのは到底信じられないものだった。

 おもむろに男は言う。

「落ち着かれましたか。ここはアルムという国です」

 アルム国……今、吉野たちがいるこの場所の国名のようである。

 世界の国名を思い浮かべてみても、そのような国名は知らない。自分が知らないだけだろうか、橘の方に顔を向けても、彼も知らない国のようだった。男が冗談を言っているとは思えない。

 しかし、違う国なのにどうしてこの男は日本語を、しかも流暢りゅうちょうに話しているのだろうかと疑問にも思った。

「あなたはどうして日本語を?」

 吉野の口から出た言葉の意味を男はすぐに理解して、答えた。

「日本語……。やはりあなたがたは日本という国から来たんですね」

 一人で納得しているように見え、すぐに問い返そうかと思ったが、ずっとふさぎ込んでいた橘が声を出した。

「異世界転生ですか?」

「異世界……」

 異世界転生、生徒たちが親しんでいる物語にそのようなものがあった。吉野自身も多少の知識はある。

 しかし、あれは小説だとかゲームの中の話である、よもやこれが異世界転生だなんて……とは不思議と思えず、吉野はすんなりとその事実を受け容れつつある。

「そう、ですね。転生という言葉になれば、あなた方は亡くなったということになります。正確にいえば転移と言った方がいいでしょう」

 橘の疑問を解きほぐすように男は説明を続けた。

 吉野たちのいた世界に次元の扉と呼ばれるホールが偶然発生し、そのホールに入りこんだ人間がこの世界に送り込まれてくる、簡潔にいえばそういうことだった。あまりにも短い説明は、この出来事に対応していないようにも思えた。

(やっぱり、あの光は……)

 思い出しても強い光としか印象にないが、夜の学校であのようなことが起きたとしたら、それもあるのかもしれない。

(夢……ではなさそうだ)

 隣にいる橘も目の前の男の存在も、茶の温かさも味も実体のない夢とは思えない。

(しかし、そういう事情だというのなら……)

 吉野は訊くかどうか迷っている質問をぶつけた。

「それで、私たちは帰れるのでしょうか?」

「……」

 男の表情がさっと変わった。その顔の動きと無言の反応だけで吉野と橘は男の答えを理解できた。

 男の名はマルクスといい、この国の魔術士であるということであった。

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