第4話 Love connection 女帝~The Empress~

「そろそろ笑ってくれません?驚いた表情と怒った表情はもう十分堪能しましたから。定時まで重役会議で顰め面の男性陣に囲まれていたんで、夜くらい可愛い女性の笑顔に癒されたいんですが」


「私も本当は笑顔をお見せしたいんですが、生憎そんな気分になれなくて・・・鷹司たかつかささんほどの方なら、こうやって呼び出す相手は他にも沢山いらっしゃるでしょう?」


精一杯の嫌味を投げかけた静乃の問いかけに、男は片眉を僅かに上げただけだった。


「楽しくありません?僕は堅苦しい普段の接待よりもずっと楽しいんですが」


「全く。私と実りの無い時間を過ごすより、他のお相手を探されては・・?」


「最初にご挨拶した時にお伝えしましたよね?実りのある時間を過ごす相手は、静乃さんがいいんです」


「全く本気に聞こえませんし。だったらどうして脅したりなんか・・・」


「訴状を出した事は謝ります。怖がらせてすみませんでした。ただ、どうしてもあの一瞬で終わりにしたくなくて、やむを得ず、といいますか」


「やむを得ずで訴状出す人初めて見ました・・・」


見た目の雰囲気に騙されて微笑んでは絶対にいけない。


目の前に居るのは、訴状を片手に静乃を脅して仮初の恋人に仕立て上げた憎き男である。


「そう頑なにならないで。ちゃんと付き合って貰った分は、慰謝料から差し引いておきますから。占い師やパン工場のアルバイトよりよっぽど入りがいいし、そのうち奨学金も完済できますし、お家も引っ越せますよ」


「本当に何もかも調べたんですね・・・」


会社の同僚達が見たら真っ青になって夢砕かれるであろう、愛想もくそもないとげとげしい口調で似非紳士を睨みつける。


「それはもう。家族構成から交友関係、職場での評価に貯蓄額と奨学金ローンの残高まで。ちょっと疑いたくなる位良い噂しか入ってきませんでしたよ。誰に聞いてもまさに理想通りの高嶺の花だと答えが返って来る。後付けの尾鰭の多さにはちょっと笑いましたけど・・・製薬会社勤務のお父様と、華道の家元のお母様でしたっけ?」


「・・・勝手に言われているだけです」


「製薬会社の清掃員としてお勤めのお母様。華道は、聖琳女子の頃の部活動からそういう話になっているみたいですね。お父様は・・・」


「お調べになっている筈です。父親はもういません」


完全に身包みが剥がされた状態の静乃は完璧に俎板の鯉である。


外向けの唐橋静乃の意地と家計を支えるために、掛け持ちをしているバイトのうちの一つが、占い師だった。


副業禁止を承知で始めたので、当然同僚達と顔を合わせる可能性のある接客業はアウト。


平日のパン工場の夕勤のアルバイトは安定しているが給料は低く、不定期のイベントサポートのアルバイトは日給は高いが毎週末は入れて貰えない。


学生時代の文化祭で趣味のタロット占いの館をしたら大盛況だったことを思い出して飛びついたアルバイトは、これまでで一番実入りが良かった。


あの夜までは、何もかもが上手く回っていたのだ。


この男と遭遇さえしなければ。


「すみません。仕事柄、調査と隠蔽は得意なんです」


「全く褒められませんよね!?」


大手コンサルティング会社の名刺を差し出したこの男との悪夢としか言いようのない二週間前の出会いを思い出して、静乃は盛大に顔を顰めた。


もしも奇跡が起きてタイムマシンが出来たら、真っ先にあの夜の自分に会いに行ってバイトを休めと言っている。


「僕の惹かれた人が、どこでどんな風にこれまでを生きて来たのか知りたくて」


額面通りに受け止めればちょっと胸がきゅんとしそうだが、実際の所は公に出来ない手段で個人情報を調べ尽くした結果である。


元凶は自分なのだが、本気で厄年なのかと嘆きそうになった。


「あなたの呼び出しに付き合えば、訴訟は起こさないんですよね!?」


「呼び出しじゃなくて、デートです。前にもお話した通りですよ。僕は人を欺く事には長けていますが、あなたには嘘はつきません。約束通り、お母様にも秘密にしますし、勿論、会社にも密告しません。会社に内緒で副業中にビル火災に巻き込まれて、逃げようとして蹴りつけた男に訴えられているなんて知ったら、お母様は卒倒しかねませんよね」


本当にその通りでぐうの音も出ない。


上流階級の人間の気まぐれか、訴状を持って静乃をオフィスビルのすぐ前で待ち伏せしていた男は、開口一番こう言った。


『あの夜、あなたに一目惚れしてしまいました』


張りぼての高嶺の花を演じるようになってから、何度かこうして告白されたことがある。


さすがに会社の前で待ち伏せされた事は初めてだったけれど。


セオリー通りに、困ったように微笑んでお断りの言葉を口にした静乃に、意外そうに眉を持ち上げて彼は酷薄に笑った。


道行く人が振り返る程のイケメンがふうんと迷うように首を傾げる様は、見惚れてしまうくらい様になっていた。


唐橋静乃が、普通のOLだったならきっと二つ返事で頷いていただろう。


実際彼も、断られるとは微塵も思っていなかったようだった。


これだけの容姿なのだから、きっと女の子が列をなして自分の順番を待っているのだろう。


どうかそちらにお帰り下さいと心の中で答えておく。


彼が口にした告白の文句からは、何の音も聴こえなかった。


羨望も憧れも、ときめきも緊張も不安も、期待も。


そして、嘘の不協和音も聴こえなかった。


まるで心が無い人間のように、ただただ言葉だけが落ちて来た。


これまで静乃が生きて来た世界には存在しなかった異質の存在。


関わり合うと大変面倒なことになると、本能が告げていた。


それでは、としおらしく頭を下げてその場を立ち去ろうとした静乃を通せんぼして、彼は訴状を取り出したのだ。


そして、これ見よがしに自分の左肩を叩いて見せた。


『これでも女性とは良好な関係を築いて来たつもりなんです。まさか初対面の相手に蹴りつけられるとは夢にも思いませんでしたよ。占い貴婦人のマリアンヌさん』


アルバイト先の占い宮殿で使っている源氏名で呼ばれた瞬間に、彼が言うあの夜が抽象的なものではなくて、実際にあった一夜なのだと思い至った。


そして、改めて現実を知ったのだ。


彼は唐橋静乃の全てを調べ尽くして、その首を獲るために目の前に現れたのだと。


ひったくってチラ見して即座にクシャクシャにした訴状には、打撲傷に関する治療費と損害賠償費と、所謂口止め料が書かれていた。


一介の事務員に支払える金額では無かった。


真っ青になって、人の好い笑顔を浮かべて返事を待つ男を人通りの少ない公園まで引っ張って行った静乃に、瑠偉は全てを帳消しにする代わりに、自分と付き合って欲しいと交換条件を出した。


突然目の前に突きつけられた現実に、判断能力がほぼゼロになっていた静乃は、呆然としたまま頷いてしまったのだ。


母親にも、会社にも絶対にバレたくない、その一心だった。


てっきりそういう目的で近場のホテルにでも連れ込まれるのかと思いきや、彼は自分の名刺を差し出して、食事に行きませんかと誘ってきた。


逃げる事も断ることも出来ないままこの日連れて行かれたのは、一見さんお断りの老舗の割烹で、いわゆるメニューの存在しないお店だった。


顔見知りの料理人と、女将と楽しそうに談笑する瑠偉は、自分を脅迫して来た男とは思えない位終始穏やかに食事を楽しんでいた。


最初から最後まで気が抜けず、莫大な請求書を差し出されるのでは身構えていた静乃は、財布を取り出す暇なく古いアパートまで送り届けられた。


あれから二週間。


ふらりと会社に迎えにやって来る彼に、有無を言わさず付き合わされるのはこれで三回目。


二度目は中華で、今夜はカジュアルフレンチのコースだった。


これは何の茶番なのかと思いながらも、彼の目的を聞いてしまったら最後、奈落の底に突き落とされそうでとても問いかける勇気が出そうにない。


これだけ見目の良い男なのだから、女性には不自由していないだろうし、気まぐれな遊び相手が欲しくて声を掛けてきているだけなのだろうと、一先ず結論付けておく。


彼の言葉から音が聴こえないのは二週間経っても相変わらずで、返答に困るリップサービスも、豊富な話題も、どれも無音のままだ。


社内で人気の爽やかな笑顔が魅力的な男性社員にも、下心の音は必ず響くのに、地位も名誉も手に入れた男は無欲になれるのだろうか。


これでも社内では高嶺の花として敬われていた静乃として、自分の魅力の度合いについて、思わず疑ってしまいそうになる。


日中浴びる程響いていた羨望と嫉妬と興味の音が綺麗になくなってしまうと、唐橋静乃の存在価値がゼロになった気がしてくるのだ。


あの音があったから、どうにか自分を奮い立たせて来られたのに。


「今日もお母様にはアルバイトだと?」


店員から教えて貰った遅咲きの夜桜を見る為に、駐車場から少し離れた河川敷を歩きながら、瑠偉が尋ねて来た。


「そうです。だってほかに何て言えばいいんですか?」


訴訟を起こされそうな相手に呼び出されたのでちょっと食事に行ってきます、なんて言える訳もない。


「僕が知る限り、待ち合わせをした男女が食事をしたり出掛けたりする事をデートと呼ぶはずなんですが」


茶化すような言葉と共に、ひょいと隣から顔を覗き込まれる。


こんな時でさえ揶揄いの音すら聞こえないのだから、もう人間技とは思えない。


「デートって、好意を寄せあう男女が一緒に出かける事を言いますよね?だから、私と鷹司さんには当てはまりませんよね?」


「最初にお目にかかった時に、一目惚れしたとお伝えしたはずですが」


「そういう体で会いに来られた事は分かってます。お金持ちのお遊戯の一つなんでしょうけど・・・」


「あれ、もしかして本気にされてない?」


「突然目の前に現れた色男に訴状突きつけられて、一目惚れって言われても信じられませんよね?」


「順番が逆ですよ。静乃さんが頷いてくれなかったから、やむを得ず訴状を出したんです」


「でも用意してたって事はそのつもりがあったって事でしょう?」


「仕事柄最善策だけでなく、次善策も用意しておくのが癖なんですよ。僕としても一目惚れした女性を脅すなんて所業は胸が痛みました」


苦笑を零す瑠偉をこの夜初めて真正面からきちんと見つめた。


「傷んでませんよね?あなたにとって私とのやり取りは、言葉遊びにはなっても、楽しくは無い筈です。だからこれもどうせ、暇つぶしの一環でしょう?」


そう、確信があったから紡いだ言葉だった。


だって彼の言葉には感情が乗っていないのだから。


目の前の男の瞳孔が開く瞬間を視認したと思ったら、降りて来た唇に呼気ごと唇を奪われた。


女性受けが抜群に良さそうな見た目を裏切らない優雅な所作。


温厚な雰囲気は彼の綺麗な容姿を少しだけとっつきやすく変えていて、だから、こんな強引な仕草は完全に不似合いだ。


顎を掬い上げた指先が、噛みつくように塞がれた唇とは裏腹に優しく輪郭を撫でる。


優しいのかそうでないのか分からない。


擽るように上唇を辿って解かれたキスの余韻でたたらを踏んだ静乃をそっと抱き留めて、さっきまでのキスが嘘のように柔らかく微笑んだ彼が、意地悪く口角を持ち上げる。


「あれ、静乃さん・・・ちょっと強引にされるの好きなんですか?」


初めて誰かの声に、肌が粟立った。


驚きと衝撃と羞恥心が爆発して振り上げた掌を軽やかに受け止めて、捕まえた掌にキスを落とした瑠偉が艶っぽく息を吐いた。


「僕は、うんと優しくしたいほうなんですが・・・覚えておきますね?」


暇つぶしなんかじゃありませんよ、と言葉と行動で示した男は悠然と笑う余裕すらあった。


言葉一つ紡げない静乃とは真逆に。


警告音のように一気に鳴り響いたきらきらしい音の羅列は、まごうことなき恋の音。


「因みに、僕は簡単にきみを日常から切り離すことが出来るんですよ。覚えておいてくださいね」


厄介な男に目を付けられたのだと、この瞬間確信した。


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