第9話 新婚マイナス70日

「こんなに手間を掛けるなんて、ちょっと予想外だったな。父さんとの賭けに乗らなくて正解だった。危うく大損するところだったよ」


会議を終えて執務室に戻ると、ソファで寛ぐ実兄を見つけた。


執務フロアの秘書が、いつもより落ち着かない様子でお客様が、と伝えて来たので、てっきり恵茉が早々の敗北宣言を告げに現れたのかと期待したのに。


ドアを開けて中を一瞥するなり、一瞬で柔らかい表情をかき消した清匡が、執務机に戻りながら冷ややかな声を出した。


「勝手に身内で賭けをするなよ」


「あれだけ息巻いて大急ぎで帰国した癖に?」


痛い所を突かれて、清匡は一瞬だけ眉を顰めた。


ホテルマンとしてはあるまじき不機嫌顔である。


本来の清匡は、短気ではないものの、そう気は長くない。


事故の一報を受けて、経営陣の代表として父親と一緒に現地に飛んだ巧弥は、10時間近く落石現場に閉じ込められていた清匡と病院で再会した時、真っ先にやり残したことは?と尋ねた。


これだけ危ない目にあったのだから、悔いる事があっただろうと確信を持って投げられた問いかけ。


南の長期休暇に合わせてマレーシアにやって来た巧弥は、このまま上手く言いくるめて恵茉を引き留めても構わないよと清匡に告げた。


言葉にした事などないが、恐らく海外勤務直前のいざこざで清匡の気持ちを見透かしていたのだろう。


そして、開いた距離で生まれた、二人の微妙な関係性にも目ざとく気づいていた。


家族同然の付き合いをして来た恵茉との距離感は、いつも通り。


けれど、恵茉はいつも以上に行儀よく、あくまで夫婦旅行の付き添いといった態度を崩そうとはしなかった。


彼女なりに精一杯年上の兄たちの足を引っ張らないようにしようと意気込んでいたに違いない。


仕事が立て込んでいた時期だったせいもあり、観光は三人と現地スタッフ任せきりで、事前に調べてあった恵茉が好きそうな観光スポットへ連れ出す時間は結局取れないままだった。


首都クアラルンプールの観光名所を回って、ペナン島まで足を伸ばして、大満足の旅行だったと終始笑顔を見せていた恵茉は、最終日まで”いい子”のまま。


楽しかったのならそれが一番だと納得はしてみるものの、やっぱりどこか物足りなさを覚えて、幼馴染に対する過保護意識にしてはちょっと行き過ぎだなと自分を戒めた。


確かに二人の間にあった信頼感はそのまま。


自分の中で見え始めた何かの芽は、あの日恵茉が同行を拒んだ時点で枯れて土に還っている。


この先も心地よい関係性のまま、時間が合えば楽しいひと時を過ごす間柄で十分だ。


そう決めていたから、巧弥の気まぐれな援護射撃は首を振って拒絶した。


あの子の日常は日本にあって、ここにはない。


引き留めたところでバカンスが長引くだけのことだ。


『難儀だな』


短く笑った巧弥は、それ以上何も言わず、恵茉を連れて日本行きのフライトに乗った。


仕事に忙殺される日々があのままずっと続けば、きっとこの気持ちを蘇らせることは無かっただろう。


「恵茉がああなった原因は兄貴にある」


苦虫を嚙み潰したような声で告げると、巧弥が肩を竦めて見せた。


わざとらしく胸を押さえる仕草が厭味ったらしい。


「心外だな。だけど、半分は確実にお前に責任があるよ」


巧弥が幼い頃から蝶よ花よと接して来たおかげで、恵茉の異性の基準値は世間一般の遥か上に設定されてしまった。


そのおかげで、適当な男は勿論の事、そこそこの男もふるいにかけられて綺麗に脱落していく

始末。


今となっては有難い気持ちもあるが、世の中の男性陣の9割は敵に回したと思った方が正しい。


恵茉の審美眼は確かで、自分を軽んじる相手や、値踏みする相手、利用する相手は綺麗に排除して近づけようともしない。


けれど、人の善意と良心だけに包まれて育ったせいか、とにかく簡単に他人を信用しすぎるきらいがある。


それは彼女の美徳でもあって、側に居た頃は必要に応じてフォローの手を差し伸べる事が出来たが、さすがに住む場所が違ってしまえばそれは難しくなる。


ヤキモキするこちらの心配を他所に、日本で恵茉はしっかりと自分の居場所を作り上げて、頼もしく成長していった。


だから、今度は恵茉に自分が必要なのではなくて、自分に、恵茉が必要なのだと伝えたいのだ。


振り向いて、後ろを歩く清匡の姿を探す必要がないというなら、どうしても隣に居て欲しいのだと懇願するよりほかにない。


「・・・」


「そう睨むなよ。事実だろう。花に水をやるのは、お前のほうが上手いよ」


清匡はげんなりと肩を落とした。


綺麗に咲いた花を褒め称す事は巧弥の得意分野だが、種から芽吹いた芽を慈しむほど彼の興味は長くは持たない。


何でも出来て、何もかも持っている彼の執着は、自分が作った世界にしかなくて、だから作家という独自の道はまさに巧弥には打って付けの選択だ。


モデル顔負けの容姿とざっくらばんな性格というなんともアンバランスな魅力で巧弥を虜にした妻と巡り合えた事は、奇跡だとしか言いようがない。


彼が涼しい顔を見せる裏で、どれだけ妻に執着しているのか、正しく理解しているのは恐らく身内である清匡だけだろう。


綺麗に確立されている自分とは何もかもが違う人間だから、彼は望月南に惹かれたのだ。


この先どうなるのか、自分の影響を水のように吸い上げて変化していく幼馴染は、可愛くはあっても、愛を囁く存在ではない。


あの日ベッドの上で、まともに動かない身体をどうにかして引きずってでも、成し遂げた買った事。


「帰りたい。二度と手放したくない」


繋ぎ止めるというよりは、結び直すというほうが正しいような距離感の相手を、必死に脳裏に思い浮かべながら紡いだ言葉。


「言うのが遅いな」


呆れたような一言の後、巧弥は分かったよと一つ頷いて、その後の必要な手続きの全てを請け負ってくれた。


父親からここぞとばかりに押し付けられた決裁案件を綺麗に捌いて、跡取り代理の役目は完璧に全うしてみせた。


「子供の頃にお前がせっせと水やりをした朝顔と同じだよ。手塩にかけて最後までうんと大事にすればいい」


「とっくにそのつもりだったよ」


「あれ、じゃあなに、振られたのか?」


数年前の恵茉と同じような口ぶりで言われて、苦い記憶がフラッシュバックした。


「兄貴が仕込んだ防御スキルが高すぎて、俺はまだリングにも上がれてない」


「だってあれだけ純粋無垢なんだから心配だろ?自己防衛の方法位は教え込まないと」


俺まで弾かせるなよと詰りそうになって、辛うじて堪えた。


言えばどうせニヤニヤして面白がるに違いない。


「だけど、助かった事も多かった筈だよ。おかげであの子は清らかなままだ。コーディネーターが天職って本人は思ってるようだけど、あれはもう対人コミュニケーションスキルの高さと性格の良さだけで乗り切ってるようなもんだから。恋愛云々以前の問題だ」


学生時代に紹介されたボーイフレンドは、恵茉の父親が大手企業を早期リタイアした時点であっさりと去って行った。


あれを恋愛と呼んで良いのかどうかすら謎である。


「指輪の一つでも握らせてみればいいじゃない。じゃないと恵茉にとって恋愛は永遠に他の誰かのもので、ただの鑑賞物だよ」


すでにそのつもりで虎視眈々と準備を進める予定が、思い切り出鼻を挫かれたと口にするのはまるで負けを認めるようで。


「まずはあの子の思惑に乗って踊ってみるよ」


恵茉が自分をどういう目で見ているのかも気になった。


完全に範疇外なのか、それとも。


「お前は、恵茉のことになると本当に臆病だな」


「慎重なんだよ」


だから、作家なんていう博打商売は死んだって選べない。


「昔さぁ、恵茉が一輪車に乗りたいって言い出した事あっただろ?学校のクラブに入ったか何かで・・・学校から帰ったらずっと練習に付き合ってさ」


「俺はあの二週間で一輪車に轢かれる夢を二回も見たよ・・・」


思い出すだけでも悪夢のような日々だった。


家の門の前で待ち構えている恵茉に捕まったら最後、月が上るまで練習に付き合わされるのだ。


それでも10日程でどうにか乗れるようになって、加賀谷邸の敷地内は自由に行き来できるようになった。


「あの子が手を放して走り出した時点で、俺はもうお役御免だと思ったのに。結局お前はあの後も何日か恵茉に付きっ切りになって、最終的には小学校の練習までこっそり見に行った」


「・・・隣の敷地なんだから見に行っても問題ないだろ」


「そういう所だよ。恵茉に関しては絶対に確信が持てるまで、手を放そうとしない。あの子が転ぶのが怖いんだな」


「恵茉が泣くだろ」


巧弥の前では必死に平気なふりをして、姿が見えなくなった後でぐしゃぐしゃのボロボロに泣き崩れるのは彼女の専売特許だ。


実際、巧弥たちの挙式でも、チャペルの集合写真には満面の笑みで写ってみせた。


披露宴会場へ移動する途中で姿を消した恵茉を追いかけた後の一幕は、今思い出しても苦くなる。


妹さんは感動屋さんなのね、と微笑ましい様子でメイク直しを買って出てくれたお馴染みの式場のヘアメイクに、申し訳ないと頭を下げたのは勿論清匡だ。


「あの子だって日々成長してるんだから、何に躓いて何に転ぶかなんて分からないだろ?転んで泣いたら、慰めてやればいいじゃないか」


それはかなり骨が折れるんだよ、と言いかけて、止めた。


巧弥が知らない事が一つくらいあってもいいだろうと思ったからだ。

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