2-19
なんの前触れもなく僕のからだは急に糸が切れたみたいにちからが抜けて倒れた。自分の倒れかたとか音がどさっとしたこととかをドラマじゃんとおもった。どこか他人事だ。隔離室の空調で無臭のガスでも撒かれたんだろう。ひっどい姿勢でヨダレを垂らしながら身動きできなくなり、いやこれは十五歳女子として看過できないものでは、と必死に起きあがろうとしたけど指一本ぴくりともしない。うわあん。
一緒にいたゼクーくんはといえば、隔離室になだれこんできた戦闘特化の組員大勢と反魔法主義団体から派遣されてきた凄腕の記憶技術者四人を澄まし顔で次々意識不明の重体に追いやってく。僕はそれをぶっ倒れた状態でぼーっと眺めた。
「クソッ、不死者め! 薬足りてねえじゃねえか!」
「これ以上だと魔術師が死んじまうだろ!? そいつだけ直接ぶっかけろ!」
うん……ははは。顧問さん、同じ部屋で同じ空気を同じように吸ったよね? 薬品は魔法の干渉不可項目だ。〈呪い〉にかかわらずもろにくらってるはずだった。僕のほうはぜんぜんからだにちから入らないんですけど、君は象かなにかなの?
やっとこさゼクーくんが膝を折ったときには相手側に相当甚大な被害がもたらされてたっぽくてブチギレた敵がなんかやばそうな毒を持ちだしてきたのだった。エトルフィンかな。人間に投与しちゃいけない象とか用の麻酔薬。知らんけど。おとなしくなったゼクーくんが隔離室を引きずりだされていき、僕は放置され、まもなく意識を手放した。
なにもかもがどうでもよかった。あれ、不思議だな。どれもこれも些細なことにしかおもえない。夢を見た。夢と分かってて見る夢だった。ふわふわとただよう思考が薄ぼんやりと幸福な感じだ。いろんな場面が目まぐるしく入れ替わり立ち替わり表示されては消えていく。うーん。頭がちっともまわらなくてそれすらどうでもいいしなるようになるさと考えてそういうのを考えることすらも面倒くさくなった。
幸せだ。なので、永遠にただよっていたい。
どのくらいの時間が経ったのか分からないけどしばらくしたら今見てるものは夢じゃないなと分かってきた。僕の実体験のみが生々しく映しだされているんだ。僕にとっての、しょうもない事実。虹色に滲んだ記憶がぐるんぐるん旋回する。
薄暗い地下室で泣き叫んでいた。一生を過ごすにしては狭苦しく一室にしては広大な空間のなかでアイスグレーのトレンチコートを着た検閲官が遠くから僕を見てる。ただ、見てる。僕は懇願する。
「ねえお願い、そこの人答えてよ、ちょっとでいいから声を聞かせてよ――!」
昼夜からも春夏秋冬からも切り離されて暗いだけの椅子に座り続ける僕に、月一で訪れる彼らが時間の経過を無言で知らせる。ああ、また一ヶ月が過ぎた。決して僕に返事をしてくれないアイスグレーの人たちを、僕は気まぐれで残酷な神様だとおもった。
ぐるん。
人体の魔力を強制的に吸いあげる複雑極まりない陣が無数に絡まった椅子。硬く冷たい感覚の上。僕の自宅。ほんのかすかに余った魔力で〈検索〉を発動する。使いすぎると高熱がでて不快だから、少しずつ。アニメを観るために毎週土曜の十時にテレビをつけるとある子どもを土曜だけ〈検索〉して一緒に視聴する。アニメキャラクターが笑ってる。走ってる。喧嘩してる。恋をしてる。プリンを食べてる。仲直りしてる……。
ぐるん。
「どうして誰も答えないの!? 聞こえる!? ねえ! 聞こえてるの!? 僕は此処にいますか!? 誰か返事をして! 僕が見えますか!? あああああああああああああああ! これは現実なの!? ねえええええええ! 生きてるの!? 助けて、助けて、助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助――」
ぐるん。
椅子に固定された僕の手が幼い。〈検索〉が広がってて僕とお揃いの濡れたような黒髪を指先でいじくる中学生のお兄ちゃんを見てる。まだ中学生のくせに整いすぎて逆にこわい感じのあやうい影のある美貌。七年後の僕はこの顔面になるんだろうなと自然とおもわされるほど顔のパーツの並びが同じ。遺伝子ってすごい。退屈そうに机に頬杖をついてるだけで数人の女の子たちにチラチラと盗み見されてたりするお兄ちゃんの前で、教卓のところに立った先生がざわついた教室に沈痛な面持ちで告げる。
「今日は午後の授業が休みになります。皆さん寄り道をせずに真っ直ぐ家へ――」
「飛び降りしたヤツがいるんでしょ!?」
「ジサツじゃん!」
「わっ、あれ、警察来てるよ」
「すっげー……」
ジサツすればいいのか、と僕は気づいた。
ぐるん。
知らない人が低く自殺の方法を囁いてくれたような気がした。
ぐるん。
規定値以上の魔法の使用を感知されようものなら体内から魔力が吸い尽くされて陣はあっけなく掻き消えるっていう仕組みになってる椅子で、このたび僕は生まれて初めて〈自殺用攻撃〉の発動に成功した。
笑えるね。
ぐるん。
「し、しっ、ししし、失礼します……うう……あの、ま、魔術師様ですよね……こんにちは……」
「時間帯としては『こんばんは』だと俺はおもいますよ」
「ううう、えっと、こっ、こんばんは……」
は?
「うぐっ……う、うううう、あのっ、えっと、その、初めまして……本日は突然押しかけて申し訳ありません、う……うう、あの、お仕事の勧誘にまいりました……とっ、ととりあえず自殺はやめませんか……?」
「――――ねえ。なんでアイスグレーの神様が僕に話しかけてくるの?」
「ひいっ!」
「変な神様だね」
「えっ? 神、様、ですか? ……うーんとわたしには宗教とかそういうのはあのそのちょっと分からないです、すみません……えっと、要人の死を阻止し未来史に介入する、それだけの簡単なお仕事です……その、やってみませんか……?」
ぐるん。
「この装置はね、よく効くんです。ね? あなたを操ってわたしたち検閲官の都合のいいように使いたいので、首輪をつけさせてくれませんか」
ぐるん。
「……本日はどのようなご要件で機構に帰っていらしたのですか」
「とあるメールで魔術師に興味を持った」
「……メールですか。俺があれだけ連絡しても、誰からの連絡であっても無視を決めこむグレイが、いったいなんのメールで此処へ戻ることにしたのですか」
「ふむ」
本から顔をあげた青年の中性的な美貌があらわになる。
「魔術師を救ってくれと訴えるメールが届いた。二日前だ。一通のみだったが興味がわいた。医師。彼女は同僚だな? ――マーフィ・Eに会わせていただきたい」
ぐるん。
「ゼクーくんが僕に妹ちゃんを救ってほしいのは、顔に似あわず子ども好きだから? それとも、あの子の〈呪い〉を僕がどうにかできたら、ゼクーくんが抱える〈呪い〉も、糸口が見つかるかもしれないから?」
「――もとよりさほど期待はしていない」
ぐるん。
「はっはっは、任務ってなに? ちゃっかり僕が検閲官になること前提に話進めないでくれるかなあ」
ぐるん。
「七月二十九日、検閲課最重要事項である魔術師回収任務に出向かず、現場から約一キロメートル西の飲食店で読書をしながら数時間過ごし、その後行方をくらます。九月十日、食堂の――」
「え? 顧問はあの日近くまで来ていたんですか――」
「――よって、グレイエス・ゼクンは処刑とする」
ぐるん。
「……そうだね、機構が趣き……ふふっ……趣きのあるアンティークの電話機をどうして使うかというとね、ロットーさんは魔法の四大原則を知ってるかな」
ぐるん。
――お嬢さん一人でこんな時間に彼の手伝いは大変でしょう。
ロットーだよ。覚えてよ。
「あれだけの〈治癒〉を浴びていれば至極当然の反応だな」
「…………君は、平気なの?」
「別に。慣れた」
「そっかぁ。僕は、……慣れたくないな」
ぐるん。
「貴方がある程度業務を行えるもしくは一般社会で暮らせるようになるまで数年面倒を見る。終わったらまた機構から出る予定だ。貴方は」
いったん言葉を切って僕を冷たく見据える。
「貴方は私を便利なように利用し、適当なタイミングで忘れろ。以上。寝室に戻っていただけるか」
ぐるん。
「私は不在だ」
ぐるん。
「うまれてきてくれてありがとう。もう大丈夫ですからね。魔術師としてこれから派手な人生を歩んでいくのだろうけれども、一人の女の子として、幸せになってね」
ぐるん。
「どう足掻いても救われないものを抱える人は、自身のことで精一杯で気づきにくいけれども、同じような他者を救おうとしてみることで自分を少しだけ救うことができるんだ。覚えておきなさい。……なんでなんだろうね。本能かな。人間が死に絶えないよう神様がそう設計したのかもしれないね」
ぐるん。
思考がうまくまわらない。
「ロットーさん、でも、それでも、ぼくは任務を受けたことを後悔していないんですよ。これ以上ないほどの意味づけに満足しています」
呪いをかけると言いながら先輩はなにも魔法を使わなかった。呪いのような遺言だけ残して〈死刑〉に貫かれ、王族を守るために墓無しとして生きる王守らしく、からだを霧散させて存在ごと空に溶けた。
繋いだ手はからっぽになった。
ぐるん。ぐるんぐるんぐるんぐるんぐるんぐるんぐるんぐるんぐるんぐるんぐるん――。
ぐるん。
「失礼。貴方が今回の魔術師だな。お初にお目にかかる。私はグレイエス・ゼクンという。希薄化によって忘れるだろうが、まあ、以後お見知り置きを。さて、貴方に話がある」
は?
人生で初めて人に話しかけられて、僕は呆然として彼を見つめた。
僕にとって世界は殺風景だ。人口は一人。中央にぽつんと椅子が在るのみで、それは自分が座ってて、あとは床と壁と天井しか存在しない。笑えるでしょ?
部屋の主は、首と腕と腹と脚とほかにも全身に拘束具をつけられ、何個も、指先まで一本ずつ椅子へがっちり固定されてる。
かれこれ十五年くらいそうしてる。
笑える、でしょ?
冷ややかな椅子の上。
薄暗い地下室。
水彩絵の具を滲ませたみたいな七月下旬。
笑ってくれよ、神様。
「――――ねえ。なんでアイスグレーの神様が僕に話しかけてくるの?」
規定値以上の魔法の使用を感知されようものなら体内から魔力が吸い尽くされて陣はあっけなく掻き消えるっていう仕組みになってる椅子の上で、硬い拘束から身動きできなくて、そして数万回とかそれ以上試した〈自殺用攻撃〉の陣の最新版が今まさに目の前で掻き消えて、もう無理で、無理だった、無理すぎて、金切り声をあげて発狂してたときに、あああ、気味が悪いほど美貌の青年はいつのまにか地下室にいたのだった。
「……神、か」
彼が冷笑した。
「神とは、人類が隷属させている数多の道具のうちの一種だ。それ以上でもそれ以下でもない」
薄暗い地下室に青年のかけた〈照明〉が淡く二人を照らす。まだ前回の神様が訪れてから十日くらいしか経ってない。意味が分からなかった。限界だ。うだるような熱気のこもる地下室で、僕はどうしても無理だとおもった。
出口が欲しい。今すぐ確実に欲しい。生死は問わないから。
青年が右手に持った木製の杖をかつんと鳴らした。絹糸のごとく白く美しい髪を掻きあげ、淡々と言う。
「此処にとらわれ続けるのならば貴方は死にたいのだろう。だが、生きて出られるとしたらどうだ」
「――――――死んじゃえ。お前なんか死んじゃえっ――!」
「ふむ?」
有刺鉄線の向こう側、安全地帯から放たれる言葉なんか、こっちには一個も届いてこない。絶望というものをみんなは希望が〇パーセントになった状態のことだとおもいがちだけど、ほんとうは違くて、希望の最後の一パーセントを捨てきれず足掻いてる状態のことを言うのであり、そして希望とは、絶望的に終わりの無い麻薬だ。
濡れたい気分だから傘を閉じて歩く夜。
夏の陽のひかりの反射を砕く波。
夕焼けに向かって口遊む歌。
おなかいっぱいなのに別腹だって友だちと笑いあって食べるケーキ。
息が切れるくらい走って走って走って、それでも遥かかなたまで途切れない地平線。
喧騒。
喧嘩。
両親の、両腕のぬくもり。
「夢なんかもう見ない! 疲れた! もう疲れた、疲れた疲れた疲れた疲れた――! ブラックホールにエネルギーを吸いこまれ続けることにもううんざりなんだよ! 魔力なんか朽ち果てろ! 世界なんか滅べばいい! お前なんか死んじゃえ! 消えろ! 神様なんてクソくらえだ――!」
清廉潔白になりたすぎて僕は泣いた。このまま誰のことも愛さずに済みますように。僕はもう今さら無傷の笑顔になることはできないから、誰も僕を救おうとしませんように。死んじゃえって全世界から言われて、自殺したことを称賛してもらえますように。
神様。
「――あああああああああああああ……!」
「明日、検閲課は貴方を此処から連れだす手筈になっている。二十時半に二人組が来るだろう。私は貴方の希望をうかがいたい。生きて此処を出られるのならば、出たいか? それとも検閲官に保護されず死にたいか?」
「お前が死ね――! 僕を馬鹿にしてんのか!? 死ねたらとっくに死んでんだよ――!」
地下室の暗い床に粉々になった最新の〈自殺用攻撃〉。
「外に出れば様々な自由がある。貴方はそれを受け取ることができる。いやまあ……多少工夫は要るが。私がなんとかしよう。システムに組みこませない方法を数通り考えてある。貴方が機構から逃げだしたければ、頃合いを見て手引きしよう。一般人としてひっそり生きていくことができるよう手配しよう。……それでも、死にたいか」
「――聞きたくない――――黙れ黙れ黙れああああああああああああああああああああああああああ! なんで――なんでそんなこと言うの――」
「何故、か。ふむ。そうだな。単なるエゴだ。貴方の存在に関しては機構によって機密事項として秘匿され、長いこと魔術師不在ということになっているが、数日前に機構から直接知らされてな。黄山国の田舎で一人旅をしていたところ、急遽帰国することに決めた。私も若い頃に貴方と同様の状態で気の遠くなる時間とらわれていた経験がある。貴方の苦痛をほんの少しだけ想像できるつもりだ。ちからになりたい」
感情が見えない低い声に向かって僕は呪いの言葉を吐き続ける。死ね。死んじゃえ――。
「貴方に〈自殺〉をお教えしよう。好きなほうを選ぶといい。いくら魔術師といえども知る機会のなかったものを使うことは困難だ。ヒントをお渡しするので、やってみろ。効率的に陣を作れば規定内の魔力量で目的を達成できることだろう」
怒り狂う僕に構わず青年は明晰に魔法陣を説明し始めた。
外の人たちが魔法についてこまごまと定めた理論とか名称とかをまるで知らない僕に対して、その説明は呆れるほど分かりやすかった。地下室中に広がる魔術師の魔法の痕跡を読みとり、癖を理解し、それを踏まえて話が一方的に進められた。僕からの相槌を待ってないらしかったけど、僕が解ってなさそうな部分は詳細に砕いて話してくれた。ぽかんとして聞いてるとするっと頭に入ってきて、そのことそのものに衝撃を受けて、ちょっと冷静になった。
たしかに、彼の理論を使えば僕は自殺に成功する。
人と会話をするのがこんなに楽しいものだということを僕はそのとき初めて教えてもらった。
「貴方は私を忘れるだろう。四大原則の関係性希薄化によるものだ。だが、私は覚えている。貴方の苦痛も、貴方のかなしみも、貴方の希望も、すべて覚えていよう。またお会いできるよう祈っている」
「どうしてここまでしてくださるんですか」
「私に得るものがあるからだ。この手のことをエゴという。貴方は私を便利なように利用し、適当なタイミングで忘れろ」
「……もし、自殺に失敗して機構につかまったら、グレイエスさんが助けてくださいますか?」
「貴方が望むのならば。それとひとつ言っておこう。私に敬語は不要だ」
ではさようなら、と言い残して青年は地下室を去っていった。
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