第36話 板挟み

 そこは暗く深い下水道の奥であった。少し鼻から空気を吸おうものなら、生ごみ、ヘドロ、排泄物の混ざった悍ましい臭いが鼻腔を通り抜け、肺と脳を満たしていく。まともな感性の持ち主ならば迷わず逃げ出したくなる空間であるが、その一角には使い古された居住用の設備があった。


 適度に洗ってはいるが所々に飲食物や汗のシミが付着しているベッド、順序などお構いなしに漫画本が詰め込まれた本棚、仁豪町全体の見取り図と町における有力者の写真が置かれた机。それらが下水道の歩道の壁際に並べられていた。ご丁寧に安物のカーペットまで敷いてある。


「最近ポテチ高すぎやろホンマ…何やねん一袋五百円て」


 購入した間食を詰めているレジ袋を携え、一匹の化け猫が現れた。渓村レイである。現世から仕入れている菓子とはいえ、仕入れ値も含んだ割高な価格に納得がいっていない様子だった。ベッドの上に袋を放り、机に向かった彼女は机の右端に置かれている髑髏の頭を指で二回叩いた。


「御用件は ?」

「音楽流してや。プレイリストの…今日は二の方がええ」

「了解~。プレイリストの二番」


 おどろおどろしい声で指示を欲しがる髑髏にレイが要望を伝える。すると嬉しげに応答して口を大きく開いた。教え舌と呼ばれる妖怪を改造して作られる、なんともバカげた”多機能型しゃれこうべ”である。音楽の再生は勿論、電話機能、ラジオといった用途にまで使える上に、人によっては寂しさを紛らわせるために話し相手として利用するのだという。哀れなものだ。


 口が開かれたしゃれこうべからジャズが流れだし、ご機嫌そうに耳を立ててレイは鼻歌を口ずさんだ。


「ジ~パ~ズ、クリ~パ~ズ、ウェア…フフンフンフンフ~…」


 英語故にイマイチ歌いきれない歌詞を口ずさみ、机の左端に置いているケージへ目を向ける。ドブネズミがいた。手入れがされているのか、毛並は見事に整っている。先程買ったポテトチップスの袋を開け、餌代わりにそれをケージの中へ撒くと鼻をヒクつかせて頂きに来るのだ。このちょこざいな動きをしているペットを眺める時間が、彼女にとっての楽しみの一つだった。


「ホンマ気楽なもんやで。餌貰うの待ってるだけでええもんな、アンタは」


 本心とはかけ離れている皮肉をへらへらと口にし、机に肘をついて観察をしていた時だった。ジャズから激しめのハードロックに曲が切り替わりかけた時、しゃれこうべが叫び出した。


「電話でっせ~ ! 電話でっせ~ ! はよ出んかいボケェ。電話でっせ~ ! 電話でっせ~ ! はよ出んかいボケェ―――」

「分かっとる分かっとる。応答してええよ」


 我ながらなぜこんなセンスのない着信音にしたのかは不明だが、設定を変えるのが面倒だったためそのままにしていたのだ。やがてしゃれこうべから声が聞こえて来る。


「やっほい姐さん、ちょっとヤバい」

「師岡の…どっちや、美穂音か ?」

「仰る通り姉貴の方。さっすがスね。ああ…そんな場合やない。功影派こうえいはの連中がシマで派手にやっとります。何か知らんけど、人間のガキ追い回しとるんですわ」


 人間のガキ。師岡美穂音という自分の舎弟から、その言葉を聞いたレイはすぐさま机の方へと目をやった。つい最近撮影した佐那の姿が写真に収められており、彼女の隣に一人の若い男が付き添って歩いている。


「それ、完全に玄招院とこに来たっていうガキやろ。面倒事に巻き込まんで欲しいわホンマ…」


 どうも放置しておくわけにはいかない事態らしい。自宅でのリラックスタイムを早々に打ち止めにされると分かり、レイは頭を掻いた。


「とりあえず綾三に探すよう頼んでますんで―――」

「いや、ええわ。あん子だけじゃ、心細いやろ。ウチも行く。妹にもそう伝えとき」

「マジっスか」


 それを最後にしゃれこうべでの通話を終え、レイは自宅を出ようとした。だがすぐに立ち止まり、迷った末に袋を開けっぴろげにしていたポテトチップスの残りをドブネズミのケージにまとめてぶち込む。ドブネズミはビックリしたようにケージの隅へと逃げてレイの方を見上げている。


「湿気てまうからアンタが食べぇや」


 空になった袋をゴミ箱に捨て、レイはドブネズミへ微笑む。やがて鼻を一回啜り、肩を回してほぐしながら目的地へと向かい始めた。




 ――――龍人は廊下に立ち尽くしたまま、一歩も動けないでいた。どういうわけか、自分の事などそっちのけで刺客と、エレベーターから現れた化け猫達がいがみ合っているのだ。


「お前ら誰に断って来とんのや、あ ?」

「こんなゴミみたいな場所に立ち入り許可もクソもあるかいボケ」

「何がゴミや、おどれの汚い顔よりマシやろが !」

「何で分かんねん ? ええコラ ?」

「必要もねえのに顔隠す奴ぁ、皆ブスやって相場決まっとんのやアホ !」


 龍人を挟んで彼らは怒鳴り合っている。目的は知らないが、少なくともこの状況はやりよう次第ではうまく利用出来るかもしれない。龍人がそう思った時、エレベーターが動き出した。やがて数階下で一度止まってから、再度浮上を始める。背後の刺客達がそれに気を取られ、一瞬黙った隙に龍人は壁際へ背を預けて右手側に刺客達を、左手側にエレベーターが見えるよう場所を移動する。視野の広さを考えると、この立ち位置に来れば双方に監視の目を光らせる事が出来る。


 エレベーターが止まり、軽快なチャイムを鳴らした後で開く。黒毛の化け猫が現れた。ドレッドヘアーを後頭部で縛っており、恐ろしく艶のある毛並だった。蛍光灯に照らされた黒曜石を思い出す程である。茶色のレザージャケットと白いTシャツが良く似合っており、しなやかな下半身には黒のレザーパンツを纏っている。かなりスタイルは良い。


「お疲れぃ~」


 女性の、黒毛の化け猫が言った。彼女の部下だったのか、エレベーターの手前にいる連中は、皆頭を小さく下げて「綾三さん、お疲れ様っス」などと挨拶をしている。耳に付けた銀色のイヤリングを指で弄っている彼女だが、少なくとも名前が綾三という事だけは分かった。


「これ、ええやろ ?」


 綾三はいきなり喋りかけてきた。確かに目は合ったものの、突拍子の無さ故に龍人は誰に話しかけているのか分かっていなかった。


「君に言うとるんよ~、霧島龍人く~ん。感想聞かせてや、イヤリングの」


 名前まで知られている。龍人は舌打ちをしてから、ニンマリとした顔でこちらの出方を窺っている彼女の方を見た。


「…茶色とか、黒色の服に合わせるんなら、金のイヤリングとかの方が良い気がする。シルバーより」

「う~わ、最悪。姐さんと同じ事言われたわ。でも、姐さんがシルバー好きやからマネしたいしな…」


 独り言まで始まる始末である。いずれにせよ随分馴れ馴れしい女だった。そもそも敵なのだろうか。それとも油断をさせるための演技だろうか。


「あの、もしかして敵じゃない感じか ? それなら俺帰っていい ?」


 様子見がてら尋ねた龍人だが、綾三がすぐさま黒擁塵から環首刀を出現させるの見て再び黙った。五体満足で帰す気は無さそうである。


「調子乗んなや」


 彼女の声は、先程とは打って変わって暗く重々しい。


「後ろのアホ共はどの道殺すし、君もすこ~し可愛がってやらんといかんのよな。こっちも頼まれて来とる身やから」

「可愛がるにしては、随分と物騒な物持ってるが… ?」

「まあ、ウチら流のおもてなしって事や。御愛嬌、御愛嬌」


 やけにお喋りな女である。龍人は綾三を不愉快に思っていたが、お喋りな性分ならば仕方がないと割り切っていたせいで隙が出来ていた。言葉を遮ってでもぶちのめしにかかる無慈悲さを、龍人はこの時に持ち合わせていなかった。そのせいで刺客達の背後から、綾三の援軍が到着をするまで気付かなかった。時間を稼がれたのだと。


「来てやったでぇ ! 綾三ぃ !」


 綾三と瓜二つ、だが来ている服の色合いとピアスの色が違う黒毛の化け猫が、数人の部下と共に窓を突き破って現れてきた。同じく環首刀を握り締めており、不覚を取った刺客達に背後から斬り込んでいく。刺客達が奇襲へ対処しようと四苦八苦している中、龍人はエレベーターの方を見た。隙を見て逃げ道を探るつもりだったのを分かっているのか、綾三がいやらしい笑みを浮かべ、環首刀を握ったまま手の指だけを動かして挑発をしてきた。


「頼まれなくても行くよ…」


 逃げ道がないなら作るしかない。覚悟を決めた龍人は、廊下の中央へ戻って綾三達の方へ向き直る。そこから間もなく集中力は高まり、背後の騒乱が意識の中で遠くに追いやられた。そして綾三とその部下達が、笑い声と雄叫びを上げながら駆け出した頃、龍人もまた走り出していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る