弐ノ章:生きる意味
第28話 狂獣
紹良河地区にある繁華街は、通りの上に紅い提灯をいくつもぶら下げている。風が強い日だったせいか、しきりに吊り下げている紐が揺れ、赤い光を放っている提灯が踊っているように見えた。
「何で今日風強いんやろ。飯冷めてまうわこんなん」
蓮亜街と呼ばれる地区最大の繁華街から少し外れており、入り組んでいる筈の袋小路にまで入って来る風に煽られ、飯屋の客がぼやいた。ほんの数件置かれている屋台とこじんまりとした居ぬきの飯屋が小さな空き地に集まっており、誰でも使えるようにとプラスチックや木で出来たテーブルと椅子が乱雑に、柄と色を合わせるという事すらせず散らばっていた。
食事を受け取って空いている席を勝手に使い、勝手に食べて皿を店に渡して帰る。それがこの袋小路にある特製フードコートのルールである。しかし、これほど強い風の中で飯を食うのは中々堪える。
「なんか不吉よな」
「何で ?」
「知らんの ? 東から冷たい風が吹くときってヤバい事起こる前兆らしいで」
「うっそやろお前」
「ホンマやてホンマ。月刊ムーに書いとったって」
そうやって薄汚い椅子に座って餃子とチャプチェを頂いてる妖怪たちは、皆毛に覆われていた。髪の毛が生えていたり身長などに差異はあるが、全員が猫の顔と細見でありながら引き締まった体格をしていた。化け猫である。
「にいに~」
子供の化け猫が、金色のピアスを耳に付けている化け猫へ走り寄って来た。丁度彼がオカルト雑誌に書かれていた情報を語っていた時である。
「どしたん ? 腹減ったんか」
「ちゃうよ。地上げまた来てん。めっちゃ喧嘩しよる」
「ホンマか」
子供の言葉を聞いた化け猫たちは目を丸くし、安物のジャンパーを羽織ったりジャージの袖を捲りながら席を立って走り出す。袋小路の入り口まで戻ってみると確かに、一方的な蹂躙に近い形で喧嘩が行われていた。二体の大入道が酔っ払った化け猫たちを半殺しにしていたのだ。子供や年寄りたちはその姿を喚く事なくただ見ているだけであった。悲鳴も慄きも無い。いつもの日常に戻って欲しいとばかりに無言で耐えていた。
「どうした ? もう終わりか ?」
大入道の内の一体が、倒れている化け猫の頭を踏みつけて挑発する。強者故の余裕…というわけでもなく消化不良感の漂う不機嫌そうな物言いの仕方であった。繁華街の一角を占領しているゴロツキ達と言うからには骨があると思っていたのだが、ほんの少し殴るか蹴るかしただけで簡単にのされてしまう。あまりの手ごたえの無さに不気味とさえ感じていた。
「やっぱ正解だよ用心棒雇って。あいつらの兄貴の方がもっと強かったらしいが…まあいいか」
遠目で見ていた体格の小さい化け猫が、送迎用の車へ寄り掛かって運転手へ笑いかけた。眼鏡を掛けており、毛並みは驚くほど手入れが行き届いている。汚れ仕事とは無縁であることが見て取れた。高そうな細いストライプの入ったスーツを着ていて、腕時計を見ながらお目当ての獲物が来るのを待ち続けていた。地上げ屋としての仕事において、荒くれ者が相手ならば実力行使が一番手早い。その方が行使する相手が大物であればあるほど効果も比例して大きくなる。そして、そのお待ちかねの瞬間は間もなく訪れようとしているのだと、ある妖怪の来訪から彼は察知する。
「おうおう何や、どしたん ?」
女性の声だった。酒焼けしたような若干ガラついた声。近隣の住人達を優しく押しのけ、その喧嘩の現場に一匹の化け猫が出てきた。ウェーブのかかった短い髪は深めの紫色に染められており、ピアスを開けた耳が髪の間からピンと飛び出ている。くたびれた細身のパーカーの襟と首の隙間には、銀色のネックレスが輝いていた。
「やっと来たか。
地上げ屋が呼びかけたが、彼女は無視して倒れている者達をしゃがんで眺めている。フィットネスパンツとスニーカーというラフな組み合わせだが、すぐにでも動けそうな服装をしている辺りは賢い。
「こいつらが何かしたん ?」
「いいや何も。何もしなかった。さっさと立ち退けというのにしなかったんだよ。だから今日、こうして力ずくというわけだ」
「ふーん」
レイは立ち上がった。介抱に当たるわけでもなく、しばし落ち着き払った様子で見下ろしていた。呆然としているわけもなく、かといって何か義憤や哀れみに駆られているというわけでもない。ただ観察をしているようだった。薄気味悪い女である。すると動きがあった。地上げ屋の方を見たかと思えば、数歩だけ彼に向かって歩みを進める。そしてすぐ立ち止まってから深々と頭を下げた。
「ホンマに、勘弁してくれへんかな」
意外な対応だった。事を穏便に済ませようとするレイに驚いた地上げ屋だが、ほぼ同時に異変が起きている事に気付く。野次馬も、周りの飲み屋のテラスに屯している者達も皆顔を背けるか、そそくさと立ち去り始めている。見たくないものを見ないようにしているとしか考えられない。成程。どうやらこの女、なかなかの人気者らしい。そんな街の人気者の無様な姿が、住民達はいたたまれなくなったのだろう。確信した地上げ屋はほくそ笑む。その推測が飛んだ見当違いであると、この後知らされる羽目になるとは予想すらしていなかった。
「蓮亜街無くなったら、皆…行き場無いねん。地主さんにも、団地の大家さんにもちゃんと話付けて住ませてもろうとんのです。帰ってもらえへん ?」
「無理だな。こっちも話付けられなかったら後が無いんだ。逆らうヤツは全員殺しても構わないと、後ろ盾もある」
地上げ屋は得意げになっていた。要求を突っぱねているとレイも顔を上げ、彼の方を見つめる。不思議な事に少しも暗さを見せていない。寧ろ微笑んでる気さえした。
「頼むわ。ウチらだって揉め事起こしたないねん。そのせいでこいつらシバかれたんやろうけど、下手に喧嘩で騒がんように日頃から釘刺しとるんや。目ェ付けられると困るから、正当防衛以外は黙って耐えて……間違えても…
彼女のその言葉を最後に、辺りの空気が一気に冷え込んだかのように殺伐とし始めた。厳密に言えば二体の大入道が勝手に殺気立っていた。片方がレイの後ろにゆっくりと回り、もう片方が地上げ屋と彼女の間に入って立ち塞がった。
「そうするとなんだ。この状況だと弱い者ってのは」
「俺達の事かい ? お嬢さん」
正面と背後、二つの方向から問い掛けが聞こえる。彼らは、ゴング代わりの返答を待っているのだ。
「……だって…他、おるん?」
静かな声だった。だが、確かにレイの顔は嗤っていた。前にいた大入道が胸倉を掴で彼女に殴り掛かり、もう一人も同じタイミングで殴り掛かる。だが、次の瞬間には互いの拳が空振りし、勢いあまってもつれ合う羽目になった。胸ぐらを掴んだのは確かである。現に、大入道の手には彼女のパーカーの物と思われる布切れが握り締められていたのだから。
「割と気に入っとったんやけど…どないすんねん、もう」
もつれていた二人の真横に彼女は立っていた。その両腕には、いつ装備したのか知らない黒鉄の手甲と爪が光っている。かなりの大きさだった。破けたパーカーは脱ぎ捨てており、スポーツブラが露になっている。胸は平坦であった。
一人の大入道がもう片方を邪魔だと言わんばかりに突き飛ばし、レイに飛び掛かるがその動きも再び空を切った。目の前からいなくなっている。だが、僅かに右肩に重さを感じた。
「どこ見とんのや、ウスノロ」
レイがいた。肩の上で器用に右足のつま先のみで乗っかり、しゃがんでゆっくりと爪を大入道の頭部に突き立てる。冷たく鋭い感触が禿げ頭を刺激した。
「待っ―――」
命乞いの猶予は与えられなかった。間もなく突き立てられた爪によって頭部の半分が抉られ、脳と頭蓋骨の破片を撒き散らして大入道が倒れる。残りの一体は、この段階でようやく引き受けるべきではなかった案件だと悟った。
「切れ味凄いやろコレ。お陰で付けてる間、体痒い時に困んねん」
器用に着地し、残りの大入道へ爪を自慢しながらレイが歩き出す。足音がしない。体重を感じさせない程に静かであった。体格が大きいせいで死角があるのも相まって、殺された大入道は彼女の動きを把握できなかったのだ。やがて間合いに入ってくるが、手を出す気になる筈もない。触れられれば最後、自分も肉や内臓を抉られて殺される。
「で、どないする ? 次は拳か ? 蹴りか ?」
先程とは打って変わって、今度は彼女が威圧するように問いかけてきた。
「一応言うとくけど、
指先を動かし、レイは爪をチラつかせる。もはや取る選択肢が残されていない。
「……すんません。本当に、すんません」
両手を上げ、大入道は跪いて命乞いを始める。無表情で見ていたレイだが、間もなく溜息をついた。
「何やそれ。つまらん…もうええ。お前ら、はよ起きや」
興ざめした彼女は大入道から目を離さず大声を出す。すると、倒されていた筈の化け猫たちが何食わぬ顔で起き上がり出した。背伸びをしたり、首を鳴らしたりと態度は様々だがケロリとしている。
「どうっスか姐さん。前より上手くなったでしょ、やられたフリ」
一人の化け猫が意気揚々と尋ねて来る。
「いやバレバレやし。たぶんコイツにもバレとったで。なあ兄ちゃん ?」
「えっと…そういえば…手ごたえがあんまりなかったというか」
「ほら見い。やられ役すんのもコツいるんやで。それよりさっさとこいつの身ぐるみ剥ぎいや。でもパンツと靴下は残したり。可哀そうやから。ああそれと…皆騒いでごめんな~ ! もう終わったからのんびりしてや !」
人格が変わったかのように気さくになり、大入道へレイは笑顔で接する。だがそれはそれとして所持品を奪うように指示しつつ、更に近隣の住民達へも呼びかけた。彼女の声が聞こえると、皆安心したようにまた酒飲みを再開し、再び活気が戻る。
一方、地上げ屋はコソコソと逃げて自分達が乗って来た車の方へと駆け寄っていた。だが、間もなくレイの部下がその車のルーフの上に降り立つ。飛び降りてきた拍子にルーフは少し凹んでしまった。気が付けば他にも数名、地上げ屋を囲んでいる。万事休すである。
「自分だけ逃げるんかいオッサン」
顔を隠すためのお面を付けていた部下達にそうやって脅され、縮こまっていた地上げ屋の背後にレイも接近していた。
「暴れといてゴメンも無しにトンズラは無いやろ。ちょっとお話ししようや、な ?」
地上げ屋を誘う彼女の顔は非常に爽やかな笑顔であった。蓮亜街を縄張りにしているギャング組織”苦羅雲”、その総長である渓村レイの何気ない日常の一幕である。
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