第10話 Atonement


   Ⅹ  Atonement


 全ては私の軽はずみな一言が引き起こしたんだ。


 零れたミルクを嘆いてもどうしようもないけれど、それでも後悔せずにはいられない。――もし、あんなことを言わなければ、妹のヴィアは、お母さんも、住む家も失わずに済んだのに、って。


 緑の自然に囲まれたスコットランドの片田舎。そこで、私とヴィア、そして私達のお母さんは暮らしていた。お父さんはいない。ヴィアがお母さんのお腹の中にいた頃に、出稼ぎ先の炭鉱で事故に遭って死んじゃったらしい。だから私も、お父さんのことはよく覚えていない。


 お母さんは、近くの街で事務員をして家族を養っていた。片道一時間かけて毎日自転車で通勤するのは、当時は全く気付かなかったけど、とても大変だったと思う。

 私は、自分で言うのも何だけど、お母さんにしてみれば手のかからない娘だった。それどころか、仕事で忙しいお母さんに代わって、妹の面倒を見るのはいつも私の役割。どこへ行くにも、いつもヴィアと一緒。

 だから学校に行って勉強なんて出来なかった。だって、そうでしょう? 満足にじっとしていられない小さな子供を連れて教室にはいられないんだから。もっとも、近所の同年代で似たような境遇の子供は皆、学校になんて行ってなかったけど。


 そんな私を見かねて、読み書きを教えてくれたのは、近所にある小さな教会の牧師様。白髪頭のお爺ちゃんで、所作の全てがゆっくりとしていた人。他の子供達も同じように誘われたけど、皆すぐに飽きて、いつの間にか、隙間風の入る小さな礼拝堂は、私のためだけの学校に早変わりした。ヴィアにとっては、お昼寝に丁度良い長椅子があるだけの退屈な場所みたいだったけど。

 そこへ毎日通い、読み書きを覚えたら、牧師様は私物の本を貸してくれた。初めは子供向けの絵本や童話集、御伽噺の短編集など。それから少しずつ難しい本にも挑戦した。

 ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』は、一見子供向けだけど、その実かなり皮肉たっぷりの風刺小説。定番のウィリアム・シェイクスピアは、劇こそ直接に見たことはないけれど、『ヴェニスの商人』の展開一つ一つに息を呑んだし、『タイタス・アンドロニカス』のこれ以上ないくらいに残酷な描写の連続には冷や汗がたっぷり流れた。

 最近の作家だとチャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』や『オリバー・ツイスト』がお気に入り。人によってはご都合主義のハッピーエンドは好みに合わないかもしれないけれど、辛いことは現実世界だけで十分じゃないかな。私はせめて物語の中でくらい幸せな結末を迎えて欲しいと思うんだ。

 この前、大きな街で牧師さんが買ってきてくれたのは、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』。二冊とも最近発売されたばかりで、結構売れているらしい。その独特の世界観とたくさんの言葉遊び、そして所々に見え隠れする社会風刺は、とても刺激的で、初めて読んだ時から私の一番のお気に入りになった。挿絵もたくさんついているから、ヴィアがもう少し大きくなったら、一緒に読むのが楽しみ。


 こんなふうに私は、読書でいくらでも時間を潰せるから、仕事から帰宅したお母さんの関心が、まだまだ手のかかるヴィアへと向いてしまうことは自然だった。別に、お母さんが私のことを嫌っているわけなんかじゃ決してなかったって、今なら絶対に言える。

 けれども、『良い子』であるにもかかわらず、いや『良い子』であるがゆえに、私に割かれるお母さんの時間は少なくなっていく。

 家にいる間、お母さんの興味関心は、おねしょをしたり、スープを零したり、おやつのプディングをつまみ食いしたことを誤魔化してバレたり、外で転んで泥だらけになったりで、とにかく手のかかる『悪い子』のヴィアへと一心に注がれる。

 それは、ヴィアが年齢を重ねて、できる行動の幅が広がれば広がるほどに強まってゆく。


 だから――。


 だから、私はあの日、たった一度だけ、『悪い子』になってやろうって思った。それは、ほんの気まぐれ。


 仕事から帰宅したお母さんは、室内を見回すと、私にヴィアがどこにいるか問うた。彼女の長い金糸の髪からは、雨水が滴っている。雨具で凌ぎ切れなかった分だ。それくらい、窓の外には樽をひっくり返したような大粒の雨が降っている。


 私は膝の上に広げていた本から視線を外さずに答えた。知らない、って。


 ――嘘だ。


 本当は知っている。私のすぐ後ろにある衣装箪笥の中で、彼女は寝ている。大雨で外へ遊びに行けなかったヴィアと家の中でかくれんぼで遊んでいたからだ。私が見つけた時、ヴィアは既に寝ていた。読み止しの本の続きが読みたかった私は、起こさないようにそっと扉を閉めた。ここで起こしてしまうと、またしばらく遊びに付き合わなければならないからだった。


 そんな折、帰ってきたお母さんが妹を探している。だから私は、何の気なしに初めて嘘を吐いた。ヴィアが起きればどうせすぐにバレる嘘。嘘がバレれば、きっと私はお母さんに怒られる。

 その時だけは、私がお母さんを独り占めできる。お母さんの関心は、私にだけ向けられる。たとえそれが怒られているからだとしても。


 お母さんは、家の中をあちこち探し始める。私はそんな様子を読書しているふりをしながら、横目で眺めてほくそ笑んだ。いるはずのない場所を探す姿が、滑稽にすら思えたからだった。

 狭い家の中を探し終えたお母さんは、まさか、と呟いて窓の外を見た。少しだけ思案すると、脱いだ雨具を着直すと、私に留守番しておくよう言い残して外へと出て行った。


 その背中を見送る私の心に痛みが走る。


 それは良心の呵責。『良い子』の私が嘘を吐いているなど疑いもしていない。お母さんの私に対する信頼を裏切ったことへの罪悪感。私が本当のことを切り出すべきか躊躇している内に、お母さんは豪雨の中へと姿を消してしまった。


 それから、時計の長い針が一回りして、おまけにもう一回りしても、彼女は帰って来なかった。私は気を紛らわそうと必死に本に目を落とすけれど、文字が視界を上滑りしていくだけで、内容が頭に全く入って来ない。大粒の雨が弾ける硝子窓の方を頻繁に見やる。

 そうこうしている内に、ヴィアが起きて、衣装箪笥から出てきた。お腹を空かせた彼女は、私に母が帰って来たのかを問うた。

 私は、さも心配そうな顔を浮かべて、窓の外を見やりながら答えた。二時間前に一度、帰って来たけれど、またすぐに出かけて行った、って。


 ――嘘ではない。


 だが、これが嘘に匹敵するものだということは、理解していた。

 ヴィアは私の隣の椅子に腰掛けると、手持ち無沙汰な様子で、手遊びを始める。見かねた私は、自分からヴィアに遊ぼうと誘う。普段は、読書の時間を取られたくなくて、自分から誘うことはしないくせに、この時ばかりは暇そうなヴィアの様子に後ろめたさを覚えたからだ。

 でも、ヴィアは気分が乗らないのか、力なく首を横に振ると、硝子窓の方をじっと眺める。


 無言のまま、雨音だけが響く室内で、じっと時を過ごす私とヴィア。

 何も知らずに母の帰りを待つヴィアの方をどうしても見れなかった私は、本を読んでいるふりをして、必死にお母さんの帰りを祈り続ける。


 それから三十分ほど経った頃、二軒隣のエマおばさんが、恰幅の良い身体を揺らしながら、我が家へ飛び込んできた。雨具も持たない彼女の身体は、全身濡れ鼠みたいになっている。


 上ずった声で、単語単語をぶつ切りに捲し立てる彼女の伝えたいことが理解できた時、私の身体は既に動いていた。戸口のエマおばさんを押し飛ばして、そのまま大雨の中を突っ走る。


 あの時のぬかるんだ地面の感触は忘れられない。

 そして、集落の外れにある切り立った崖の前に群がる近所のおじさんおばさん達。私の心臓は、大きく跳ね上がった。

 人垣に近づくと、私に気づいた人達が、何とも言えない表情を浮かべてそっと道を開けた。それはまるで、旧約聖書に書かれたモーセの海割りのよう。泥で服が汚れるのも厭わず、私は地面へと膝をついて、崖の下を覗き込んだ。


 遥か下の岩肌の上。

 そこに、私達姉妹と同じ金色の髪を四方八方に振り乱した状態で、お母さんが仰向けになって死んでいた。


 周りの人々は、口々に言う。何故よりにもよって大雨の中、彼女はこんな何もないところにやって来たんだろうか、って。こんなところに来なければ、足を滑らせることなんかなかったろうに、って。


 ――これは私の罪だ。


 私は罪を犯した。それを知っているのは、私自身だけ。もはや、誰にも赦しを得られない嘘の代償。


 その日から私達は、不幸な事故で母を失った、可哀想な孤児。

 いや、可哀想なのはヴィアだけだ。私は咎人。ヴィアから母を奪ってしまったのだから。


 私達は、唯一の身寄りである、亡き父の姉夫婦のところへと引き取られた。故郷から遠く離れたイングランド北部の街。

 私は、生まれ育った故郷の生家をもヴィアから奪ってしまったことになる。


 その家は、私達姉妹にとってお世辞にも居心地の良いところではなかった。初めこそ、同情から優しくしてくれた姉夫婦だったが、次第にその態度を変えてゆく。

 貧しい家計の中、育ち盛りの金食い虫が二人も増えたことに眉を顰める伯母。そしてその夫の方はと言えば、私に向ける視線を少しずつ値踏みするようなものへと変じていった。身体つきを上から下までねっとりと確認するような不快な視線。

 そして伯母は、そんな様子の夫を非難するでもなく、私の方へと敵意を露骨に向けるようになった。まるで私が、善良な夫を誑かす悪女だと言わんばかりに。

 そんな環境にあっても、私はヴィアの前では、努めて笑顔であろうとした。彼女を不安にさせないように。

 ヴィアに隠れて、毎日鏡の前で笑顔の練習をした。表情筋の上手な動かし方を身体へ必死に叩き込むための反復練習。それでも、妹の前で自分が上手に笑顔を作れているかどうか、いつも自信が持てなかった。


 私は母の代わりにはなれない。

 けれど、姉として、――いや、贖罪として、せめてこの子だけは幸せにしてあげたかった。


 結局、その家には長くは居れなかった。

 表向きの理由は、家計の苦しさから。だけど、本当の理由は、伯母が体よく厄介払いをしたいがため。


 伯母がどのような手法を用いたのか知る由もないが、私達は気づくと、救貧院へと入れられていた。


 救貧院。それは、地獄と同義語。

 収用された貧民達は、決められた制服に身を包み、朝から晩まで、槇皮オーカムを作ったり、石を砕いたり、薪を作ったり。その処遇は、監獄の囚人とさほど変わらない。なぜなら、貧民が貧しいのは、怠惰ゆえの自己責任だとされているから。

 監獄との違いは、食べ物の量が囚人に与えられているよりも少ないということくらい。


 オート麦や大麦から作られた粥のおかわりを求めてしまったことをきっかけに、オリバー・ツイストは、優しい紳士のブラウンローに拾われて、紆余曲折ありながらも物語は最終的にはハッピーエンドで締めくくられる。


 だが、私達がいるのは紛れもない現実。

 お代わりを要求しようものなら、顔が変形するくらいに殴られることが容易に想像できるし、ブラウンローが救い出してくれることもない。


 商品価値があるだけ家畜の方が幾分マシな扱いを受けているかもしれない。

 私は、貧民を詰め込めるだけ詰め込んだ食堂の中で、そう思った。新参者で、子供で、女の私達が座る椅子と机などなく、隅の壁際で、水みたいな粥を啜る。


 隣で自分の分をもう食べ終わったヴィアが、空っぽになった皿を握り締めたまま、他の人の粥を物欲しそうに眺めている。それに横目で気づきながらも、私は見なかったことにして自分の粥を喉へと流し込み、必死に空腹を抑えようとする。だけど、お腹も、心もそれで満たされることはなく、むしろ胸の裡は、罪悪感で一杯になる。


 ヴィアをこんなところへ追いやったのは、私なのに。本当なら、自分の粥を分け与えてやるべきなのに。ヴィアに申し訳なく思いながらも、空腹に耐えられない自分の弱さを呪い続ける。


 だから、収容されて数日後、救貧院の院長先生が、巨体を揺らしながら髭もじゃの赤ら顔を私の耳元に近づけて囁いた時、これは贖罪の機会なのだと思った。


 言われた通りに、深夜、隣で横になったヴィアが寝入っているのを確認すると、皆がすし詰めになって就寝する大部屋をそっと抜け出した。その足が向かう先は、建物の一番奥。院長先生の部屋。

 扉の下から灯りが漏れている。

 そっと小さくノックをすると、入れという返事がした。


 扉をゆっくりと開ける。

 寝台と書き物机、衣装箪笥しかない小さな部屋。机の上の角灯で照らされた院長が、私の姿を認めると、嬉しそうに目を細めて下卑た笑いを浮かべる。

 机の上には、ジンのボトル。私の方から視線を外さず、手にしたグラスに口を付ける。何も持っていない方の手で、部屋に入って来いと私に指示する。


 閉めた扉の前で直立する私の全身を頭部から足先まで、嘗め回すように何度も視線を往復させる院長。グラスを机の上に置くと、彼は立ち上がり、毛むくじゃらの丸太のような太い腕で、私を乱暴に寝台の上へと押し倒す。


 そう、これは私に与えられた贖罪の機会。


 私が我慢すれば、院長先生が皆には内緒で便宜を図ってくれる。ヴィアはお腹一杯になるほど、パンとスープを食べることができる。


 巨体に組み敷かれて成す術のない私の顔に、息を荒くした院長の口からジンの臭気が直接に降り掛かる。私は、できるだけ鼻で呼吸しないようにして、両目を瞑る。


 これは私の罪に与えられるべき罰。

 受け入れる覚悟は既に済ませていたつもり。

 だけど、欲望を剥き出しにして迫り来る肉塊は、あまりにも醜悪で恐ろしくて。


 ――そうだ、大好きなお話のことでも考えてよう。何がいいかな。やっぱり、一番のお気に入りである不思議の国のアリスとかかな。私は、アリスみたいに夢の国に迷い込んだだけ。目を覚ませば、陽の光が降り注ぐ暖かな芝生の上で、ヴィアやお母さんと一緒にプディングを頬張りながら日向ぼっこしてるの。


 空想の世界へと逃げ込むようにする私の服に、院長の大きな手が掛かる。


 その時、突如、目の前の巨体が呻き声をあげて、寝台の上に横倒しになった。と、同時に、何かが割れる音。

 巨躯に押し潰されないよう、とっさに回避した私の目の前に立っていたのは、肩で必死に息をするヴィアの姿だった。震えるその小さな手には、割れたジンの瓶が握られていた。


 どうして、という声が私の喉から自然と零れた。

 理由など分かり切っている。ヴィアは寝たふりをしていただけだったのだろう。様子のおかしい私を不審に思い、こっそり後をつけて来たに違いない。


 疑問とそれに対する答えが目まぐるしく駆け巡る私の思考を遮ったのは、後頭部を押さえながら立ち上がった院長の姿。ヴィアの方を見て全てを瞬時に理解した院長は、聞き取れないほどに巻き舌で悪態を吐きながら、オリヴィアを床へと叩き付ける。

 彼女の華奢な喉元を院長の大きな手が、ぎりぎりと容赦なく締め上げる。彼の眼には怒りの炎が煮えたぎっていた。


 私の身体は考えるよりも先に動いていた。

 木製の粗末な椅子を掴むと、こちらに背中を向けた状態で蹲る院長の後頭部へ力一杯振り下ろした。よろけた巨体が床へと転がる。解放されたヴィアが、大きく何度も咳き込む。

 再度立ち上がった院長は、今度は私の方へと突進すると、固く握りしめた拳で私の頬を殴りつけた。その衝撃で欠けた奥歯が、口から飛び出して床へと転がり落ちる。


 院長は、床へと倒れ伏した私の上に馬乗りになった。両手で喉を絞められた私。空気を求めて手足を必死にもがく。


 幾ばくかの地獄のような苦しみが続いた後、喉元の締め付けが緩んだ。大きく咳き込みながら見上げると、口から涎をだらしなく垂らした院長が、虚空を眺めた状態のまま静止していた。そして、少しずつその上体が横へと倒れていき、ついには頭部を寝台へともたれかからせるようにして完全に止まった。


 私は立ち上がり、院長を見下ろした。

 その首の後ろには、獰猛な猛獣の牙のように刺々しい、瓶の割れ目が深く突き刺さっていた。重力に従って、そこから赤黒い血液が滴り続け、床へ染みを広げていく。


 波打つ鼓動とは裏腹に、私の思考は恐ろしいくらいに冴え返っていた。床に尻餅をついてへたり込んだヴィアの横を通り過ぎると、そっと扉を開けて廊下の様子を窺う。

 誰かがこちらへ近づいて来る足音は、全く聞こえない。

 毎夜のように酔って、自室で暴れる院長の悪癖は、救貧院にいる者は全員知っている。ゆえに、たとえ物凄い物音がしても、誰も様子を窺いになど来ないのだろう。


 私は、扉の内鍵を閉めると、衣装箪笥の中を物色した。男物の大きめのコートを二着取り出すと、一着をヴィアへと着せる。書き物机の上に置かれた院長の財布から現金を全て抜き取ると、自分のコートのポケットへと滑り込ませる。


 そんな私の一連の行動を茫然自失の様子でヴィアが眺めている。


 私には、彼女と目を合わせることができなかった。

 だってそうでしょう? よりにもよって、私を助けようとしてヴィアが人を殺めてしまったんだから。守るべき妹を守ろうとした行動が、結果として、その妹に殺人という緋色の罪を背負わせてしまったのだから。


 私は、オリヴィアの手を優しく引いて、立ち上がらせると、窓をそっと開けた。すぐ目の前には漆黒の闇が広がっている。


 片手に角灯、そしてもう片方の手には、震えるヴィアの小さな手を握る。


 一寸先も見えない闇の中。私達は、手にした角灯の僅かな光を頼りに進み続ける。もうすぐ列車の始発時間だ。


 ヴィアは私が守る。


 警官の手には絶対に渡さない。


 見つからないように、少しでも人の多いところへ逃げよう。

 そして、私達でも生きていける安息の地を求めて。


 ならば行き先は一つしかない。


 この国の、いや、この世界中の富と人が集まりひしめき合う地。


 向かうべきは南。大英帝国の首都、ロンドン。

 たとえそこが、どれほどに欲に塗れ、醜悪な都市であったとしても、私がヴィアを守ってみせる。


 ――そう、私は何だってしてみせる。


   *


 ミラは、私の自慢のお姉ちゃん。

 頭がすっごく良くて、いつも難しそうな本を読んでる。でも、運動も得意で、駆けっこもすっごく速い。


 しかも、女の子なのに喧嘩も強い。

 おっちょこちょいでドジな私が、近所の男の子達にいじめられてたら、すぐに駆けつけて守ってくれる。


 私が遊ぼうって言ったら、たとえ大好きな読書の途中でも、快く応じてくれる。

 お母さんは、いつも仕事ばかりで家にいないし、家にいる時はいつも私に怒ってばっかりだったから、嫌いじゃないけど、ちょっとだけ苦手。

 だから、私はミラと一緒にいる時間が好きだった。ミラが楽しそうに笑いかけてくれるのが好きだった。


 でも、お母さんが雨の日に崖から落ちて死んじゃってから、ミラは変わっちゃった。

 いつも私に笑いかけてくれるけど、その雰囲気はいつもどこか悲しげで、私が本当に好きだった笑顔とはちょっと違う感じ。

 でも、そんなことミラには口が裂けても言えない。だって、お姉ちゃんはきっと、本当は悲しくてたまらないのに、お母さんを失った私が心細くないように、いつも笑顔でいるようにしてるから。


 ――それに気づいたのは、ほんの偶然。伯母さんの家にいた頃、お外に出たけど忘れ物に気づいて、私達にあてがわれた部屋へ戻ったら、ミラが鏡の前で笑顔の練習をしているのを見てしまったから。両手の人差し指で口の端を上へ持ち上げたり、指で目尻を引っ張ったりなんかしてた。

 でも、指で顔をいじるのを止めて、鏡を覗き込んでるミラは、真顔なのに、何故か今にも泣き出しそうな顔のように見えた。

 だから、私はその時、気づいたんだ。

 ミラは、お姉ちゃんとして精一杯振舞ってるだけなんだって。


 なら、私もミラに頼ってばっかりではいられない。

 それはまぁ確かに、なかなかすぐにはできないけれど、それでも、私だってミラの力になりたい。お姉ちゃんが困っている時には助けてあげたい。


 だから、救貧院でお姉ちゃんが夜中に大部屋から抜け出した時、私は、こっそり跡をつけた。だって、あの日、院長先生から何か耳打ちされてから、明らかに様子が変だったから。


 そして、彼女が消えていった部屋の扉を薄く開けて覗き込んだら、ミラが院長先生に襲われているのが、目に飛び込んで来た。

 ミラは、ぎゅっと目を閉じてされるがままだったけど、その表情は明らかに助けを求めているように見えた。


 私は無我夢中で部屋に飛び込むと、机の上にあった瓶で、ミラに覆い被さる院長先生の頭を思いっ切り殴りつけた。人を傷つけることはいけないことだって分かっているけど、その時は、ミラを助けたい気持ちで一杯だった。

 でも、院長先生が今度は私を襲った時、やっぱり助けてくれたのはミラだった。お姉ちゃんを助けたい一心でやったことで、結局、いつも私はミラに迷惑を掛けちゃうんだ。

 ――そして私は、院長先生を殺してしまった。お姉ちゃんを守るために。


 ミラに連れられて毎日通ってた教会。そこで話される聖書のことは難しくて良く分からなかったけど、あそこのお爺ちゃんが喋ってた内容で、少しだけ覚えてることがある。『汝、人を殺すなかれ』っていう言葉。


 院長先生に、割れた瓶を突き立てた感触が、今でもはっきりと手に残ってる。たとえ悪い人でも、殺すのは良くないこと。誰かを殺してしまったら、神様に嫌われて地獄に落とされちゃう。ミラと違って、私はそんなに頭が良くないけど、それくらいは分かる。


 だから私は、きっと地獄に行くと思う。

 たとえ、大好きなお姉ちゃんを守るためとはいえ、人を殺してしまったんだから。


 ミラとエイミーが、恐ろしい怪物と戦わなきゃいけなくなったのも、元はと言えば、私のせい。だってあの時、私がハンカチさえ拾わなければ、そんなことにはならなかったから。


 だから、ミラが、エイミーが、元々人間だった蛇やトカゲや大きな動く死体を殺さなければならなくなったのも、全部私のせい。

 二人は悪くない。

 二人の罪は全部、私のものだって、きっと神様もそう思ってるはず。


 墓地から帰る馬車の中で、私は決めたんだ。

 もうミラとエイミーの負担になりたくないって。私は二人の足を引っ張ってばっかりだから。


 エイミーは、初めて会った時からずっと、ちょっと怖いけど、きっと悪い人じゃない。今までずっと、二人とは一緒にいたけど、お互いに息ぴったりで、とっても良いコンビだと思う。


 エイミーなら、ミラと対等の関係になれる。私みたいに一方的に守られるだけの存在じゃない。


 ――私の願いは、たった一つだけ。

 ミラにもう一度、昔みたいに笑って欲しいんだ。

 作り物の笑顔じゃなくて、心から笑って欲しいんだ。


 きっと、エイミーとなら、それができる。私は、そう思うんだ。


 ミラには、私のことなんか忘れて、自由になって欲しいの。生まれた時からずっと、お姉ちゃんとして妹の面倒を見続けなければならなかったミラをもう自由にしてあげたい。


 だから私は、エイミーとミラが馬車から降りた後、こっそりジェーンに相談したの。

 皆には内緒で話したいことがあるから、彼女達にこっそり飲ませる睡眠薬が欲しいって。


 エイミーは台所で寝ちゃったみたいだから、ジェーンに貰った睡眠薬は、ミラの分の水にだけ混ぜた。それを手渡したら、ミラは何も疑わずに飲んでくれた。そのことに私の胸がきゅっと締め付けられる思いがしたけど、ぐっと堪えたの。


 その後、私はミラに、思ってること全て打ち明けた。

 彼女が否応なく眠りに落ちるまでの短い時間で。


 思った通り、ミラは凄く取り乱して、必死に私を説得しようとした。それを見て、私は思ったんだ。

 あぁ、やっぱりミラにとって、私は守るべきか弱い存在なんだなって。


 確かにそれは間違ってないよ? 私はいっつも守られてばっかり。


 だから。


 ――だから、もう守られるばかりで、ミラの負担になるのは嫌なんだ。


 結局、ミラは、眠気に逆らえなくなるその瞬間まで、首を縦に振ってはくれなかった。

 でも、それでいいの。許してもらおうなんて、勝手なことは思ってないから。これは私の我儘だから。人生で、最初で最後のミラとの大きな姉妹喧嘩。


 ――今まで大切にしてもらったのに、こんな我儘で自分勝手なことをする妹のことなんて、どうか早く忘れてね?


 ジェーンの部屋に行く途中、そっと台所にも立ち寄った。

 硬くて冷たい床の上で、エイミーが毛布にくるまって、もう寝ちゃっているようだった。

 今日も疲れ切っているはずなのに、ろくに身体も休められなさそうなところでエイミーが寝なきゃいけないのは、私のせい。私が怒らせちゃったにもかかわらず、気を遣ってくれたエイミーの優しさ。


 最後に一目見たくて、足音を忍ばせてエイミーに近寄る。

 眉間に皺を寄せて、額が汗でびっしょりになっている彼女の表情は、とても辛そうだった。きっと悪い夢にうなされているんだと思う。


 着ているシャツの袖で、額の汗をそっと拭ってあげた。

 きつく閉じられたエイミーの目から涙が零れたから、それも一緒に優しく拭う。


 起こさないように声には出さなかったけれど、心の中で呟いた。


 ――ミラのこと、お願いね。エイミー?


 台所を後にして、真っ暗な廊下をジェーンの部屋へと静かに歩いた。そんな私の頭の中に浮かぶのは、忘れられない一つの光景。


 ねぇ、ミラ。覚えてる?

 院長先生を殺してしまった私が警官に捕まらないように、朝一番の列車に二人で乗り込んだ時のこと。

 二人で座った客車の窓から見た月が、とっても綺麗だったよね。そんな時、震える私の手を包み込むように握ってくれたミラが、私と交わしてくれた約束。どんなことがあっても、私達はずっと一緒だからっていう約束。


 ごめんね、ミラ。


 ――約束守れなくて、ごめんね。


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