第7話 Dawn


   Ⅶ  Dawn


 漆黒の馬車の胎内から、霧の闇夜へと降り立ったエイミーは、辺りを見回した。工場から排出されるスモッグやテムズの発する独特の臭いが交じり合った不快な臭気が、エイミーの鋭敏化された鼻腔を容赦なく貫く。

 彼女が歩く度に、その左腰のベルトに差した刀がカチャカチャと音を立てて揺れる。その横を歩くのは、前回と同じく、その姿を吸血鬼へと変じたミラとオリヴィアだ。二人もエイミー同様に、それぞれ帯刀していた。オリヴィアの刀は、二人のものよりも若干短めである。

 テムズ川の岸に沿って立ち並ぶ、雑多な倉庫や造船所の群れ。エイミー達は、その内の一つを目指して歩を進めていた。付近には街灯も立っていない、真夜中の港湾倉庫群。糧を得るべくこの辺りで働く日雇い労働者達は、もう既にめいめいのねぐらへと帰ってしまっていた。


「そういえばさぁ」

 エイミーが何の気なしといったふうに口を開いた。

「アンタ、そのリボンどうしたの? 前はそんなの持ってなかったでしょ」

 オリヴィアが髪に結んでいる緑色のリボンを指差した。


「わたしがプレゼントしたの。せっかく貰ったお金だし、何か有意義なことに使いたいなって思って、買ったんだ」

 買った、と言ってもミラが自分で買いに行ったわけではない。欲しい物があれば、ジェーンを通じて手配してもらうのだ。飼われた羊に過ぎない彼女たちには、孤児院の敷地から出て、街中を自由に出歩く自由など与えられてはいない。

「わたしが思った通り、ヴィアにとっても良く似合ってる。エイミーもそう思わない?」

 ミラが妹の頭を優しく撫でる。それを受けて、オリヴィアが照れ臭そうにはにかむ。その口の端から、鋭い小さな牙がのぞく。


「さぁ? アンタがそう思うんならそうなんじゃない?」

 もう既に興味を失ったかのように、エイミーが投げやりに応じる。


 目的の倉庫の前に辿り着くと、三人は立ち止まった。

 ジェーンが三人に向かうよう告げた、煉瓦造りの何の変哲もない大きな倉庫。ここが今宵の狩場である。

 隣に同行する二人の方へ、エイミーが無言で視線を送る。ミラとオリヴィアが緊張した面持ちで静かに頷いた。エイミーが先頭に立ち、年季の入った扉を慎重に押し開ける。

 扉は錠が掛かっておらず、ほとんど抵抗なく開いた。錆びた蝶番が耳障りな音を立てて軋む。


 倉庫内には、テムズ川に停留した貨物船からの荷物を貯蔵するための空間が惜しげもなく広がっていた。まず、目に飛び込んできたのは、堆く積まれた樽や麻袋の山。それらが、入口付近から反対側の壁の方まで、女王陛下の祝賀パレードを執り行う鹿爪らしい近衛兵の行進のごとく、何列にもわたる縦列を形成していた。もっとも、積み荷の列の間には、日雇い労働者が作業するにあたって支障がないだけの十分な動線も確保されていた。

 左右の壁には、鎧戸を持たないがゆえに、その表面を夜の色で綺麗に塗り潰した大きな硝子窓が、等間隔で並んでいる。

 積み荷が成す壮観な縦列の向こう側、すなわち入口の向かい側の煉瓦壁には、テムズ川岸壁に停泊した船から荷物を直接搬入するための大きなアーチ状の開口部が見えた。天井一杯に渡された梁には、荷物を引き上げるための滑車と鉤が吊り下がっている。遮蔽物で覆われていない荷物搬入口を通して、その先に見えるのは、インク壺をひっくり返したかのように黒々とした水面が広がる夜のテムズ川。


 見たところ、現在も倉庫として現役のようであるが、今宵ここで戦うにあたって、物損の心配は一切不要であるとジェーンが言っていたことをエイミーは頭の中で反芻する。もっとも、自らの生死がかかっている以上、ジェーンの発言如何に拘わらず、手心を加えるつもりは、エイミーには一切なかった。


 特に打ち合わせたわけでもなかったが、三人は自然と、エイミーを先頭に、そしてミラを殿とした縦隊を組んで、積み荷と積み荷の間を進んでいた。左右の積み荷は、三人の身長よりもかなり高く、彼女達が歩む通路は、渓谷さながらであった。その渓谷の最中にあってエイミーの脳内によぎったのは、馬車のところで三人を見送る際に、ジェーンの述べた、『詩篇第二十三篇、たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません』という一節であった。

 相変わらずの持って回ったような言い回しに改めて辟易しながらも、エイミーは周辺の警戒を怠らない。その存在に慣れつつある、獣の両耳を駆使して、死角をできる限り無くすよう努める。


 三人が倉庫の中ほどまで到達した時、エイミーの耳が早くも異変を察知した。開口部の向こう、すなわちテムズ川の中から何かが這い出る水音が微かに聞こえたのだ。続いて、岸壁をゆったりと這い上がる音。エイミーは歩みを止めると、後ろの二人にも立ち止まるよう手振りで示す。真後ろからオリヴィアが微かに息を吞む音が聞こえた。


 その時、搬入口から倉庫内へ黒い影が躍り込んだ。大きさはやや小柄な馬程度といったところであろうか。爬虫類特有の鱗で覆われた体表と鞭のようにしなる尻尾。夜目の利くエイミーの視界が真正面に捉えたのは、倉庫の床を舐めるように這いつくばる大トカゲの姿であった。

 もっとも、トカゲを思わせるのは、その姿形だけであった。なぜなら、その全身は、途轍もなく鮮やかな緋色に覆われていたからである。


 トカゲは、三人の姿を認めると、首を僅かに竦め、その口を大きく開いた。

 エイミーとミラは、ほぼ同時に直感した。

 それが、攻撃の予備動作である、と。


 トカゲとの距離は、およそ六十フィート弱。

 熱した石炭のごとく、トカゲの体表が赤く輝くと同時に、その口から、突如、火炎がエイミー達目掛けて放たれた。


 三人の両側には積み荷があるため、横へ回避することはできない。ゆえに、エイミーは反射的に床へと伏せる。ミラの方でも、まだ事態を十分に飲み込めていない様子のオリヴィアを押さえつけるようにして、同じく伏せた。

 伏せた三人のすぐ真上を火炎が激しい渦を描きながら通過する。そして、一瞬遅れで、身を焦がすような熱波が押し寄せる。

 彼女達を捉え損ねた火炎の渦が、通路の両側に積まれた麻袋の表面をそぎ取るように嘗めた。焦げて穴の開いた袋からは、穀物の粒が勢いよく噴き出し、その内の幾ばくかが、熱せられたことによりパチパチと爆ぜた。


 燃える麻袋の炎が、倉庫内を明るく照らし出す。


 初撃を外したことを確認すると、トカゲは手を休めることなく、次撃のための予備動作を淀みなく開始する。その所作には、次撃は外さないという気迫すら感じる。


 二度目は躱せない。

 真横はもちろん、初撃の射程に鑑みれば、入口まで後退するのも間に合わない。


 そう考えたエイミーは、一か八か、次弾が放たれる前に接近戦に持ち込むしかないとの結論に達し、立ち上がろうとした。

 と、その時、エイミーの背後から、その真横を何かが弓矢のように通り過ぎた。その飛翔体の姿を研ぎ澄まされたエイミーの動体視力が捉える。


 ――刀だ。


 その薄鈍色の刀身に炎の真紅を眩く反射しながら、その切っ先をトカゲへと向けた刀が、一直線に飛んでいく。

 まさに炎を吐く直前に、自身を貫かんとするにすんでのところで気づいたトカゲは、咄嗟に上体をエイミーから見て右側へと捩じる回避行動を取る。


 刀は、その刃先をトカゲの首筋へと僅かに掠めさせて、搬入口の外へと消えていく。と、同時に放たれた次撃の炎の渦が、倉庫の壁の方へと大きく逸れて、大きな硝子窓を突き破る。


 エイミーが思わず振り返ると、ミラが右腕を振り下ろした状態で立っていた。振り乱れた長い金髪が、燃え盛る炎の色を受けて鮮やかに煌めいている。


「エイミーっ!」

 ミラがエイミーの方へと、右腕を伸ばしてくる。言葉を交わす時間も余裕もなかったが、エイミーは、その意図を即座に理解し、彼女へと駆け寄る。


 両の掌を重ねて、エイミーの方へと向けるミラ。

 エイミーは、彼女の肩に手を掛けつつ、踏切台代わりのその掌に片足を遠慮なく載せると、上空へと大きく跳躍する。と、同時に、ミラが、エイミーを投げ上げる形でそれを文字通り手助けする。

 

 虚空を舞ったエイミーは、天井の梁から吊り下がっている鉤を掴んだ。そして、もう一方の手を下へ伸ばし、ちょうどそこへ正確に放り投げられてきたオリヴィアのシャツの台襟を乱暴に掴む。

 近くに積まれた麻袋の上にオリヴィアを下ろすと、敵の出方に注意を配りつつ、今度はミラを受け止める準備へと移る。


 トカゲは、首筋に切り傷を負ったものの、致命傷には程遠いようであった。その切り傷から体液を滴らせつつ、次こそは狙いを外さないようにか、ミラの方へと素早く距離を詰めてくる。


 エイミーが、ミラの方へと限界まで手を伸ばす。

 ミラは小さく頷くと、その場で斜め上に飛び上がると、左右に積まれた麻袋を、左、右と順に蹴り上げ、上空へ大きく跳躍する。

 彼女が目一杯に上へと伸ばした右手をエイミーが掴み、引き上げる。それと、ほぼ同時に、ミラのすぐ足元を紅蓮の炎が轟音を立てて通過した。


 麻袋の上にへたり込むオリヴィアの隣に、ミラとエイミーが降り立つ。すると、足元の麻袋の山が、炎で焙られたことにより、ぐらつき、そして崩れ始めた。

 火を放った張本人たるトカゲは、その機を逃すことなく、三人の方を見上げると、またもや大口を開ける。

 オリヴィアを抱えて、別の通路へと素早く飛び降りるミラ。他方でエイミーはと言えば、崩れつつある麻袋の上を器用に駆け抜けて、その先に鎮座する敵との距離を一気に詰めていく。妹の身の安全の方を優先したミラとは対照的に、エイミーはむしろ、敵に肉薄し得る好機と捉えたからだ。

 急接近してくるエイミーを脅威とみなした敵の照準が、彼女一人に絞られる。火炎が放たれると同時に、彼女は最後の麻袋を踏み切って、前方へと大きく跳躍した。空中で一回だけ前転して、炎を紙一重で回避する。

 そして、エイミーは、トカゲの首筋めがけて飛び降りると、そのまま馬乗りになる。

 口から放たれる敵の炎を回避できる唯一の死角。振り落とそうと暴れる敵の首に左腕を回して食らいつくエイミー。敵の攻撃が絶対に届かず、かつその急所が目の前で露わにさえなっている。エイミーが完全に優位に立っていた。

 しかし、エイミーはその立場に慢心することなく、確実に仕留めるべく、腰に下げた刀の柄に手をかけた。前回の大蛇の時とは異なり、この刀でなら首筋が切れることは、先ほど目にしたばかりだ。


 その時、エイミーの鋭敏な聴覚が異音を察知した。彼女の右後方、テムズ川に面した搬入口の方からだ。と、同時に熱波が突如彼女の背後に迫り来るのを肌で感じた。エイミーは振り向く間もなく、首筋から飛び退き、受け身を取りつつも、倉庫の床の上を勢いよく転がる。

 見やると、エイミーがつい一瞬前まで跨っていた首筋を含めて、敵の上半身が、深紅の炎で包まれている。その炎の軌跡を辿るように、そのまま視線を横へとスライドさせる。


 ――緋色のトカゲがもう一体。


 その新手の敵の姿形は、まるで今しがたまでエイミーが馬乗りになっていたトカゲを鏡に映したかのようであった。

 テムズ川から這い上がったばかりの体躯からは、水が滴り落ち、床に水たまりを形成している。そして、その体表を覆う爬虫類特有の鱗は、倉庫内で明るく燃え上がる炎を受けて、煌めく。二体は、首筋に切り傷があるかどうかを除けば、およそ見分けがつかないほどに瓜二つであった。

 首に切り傷がある方のトカゲは、その上半身を炎で包まれているにもかかわらず、意にも介さぬ様子である。顔を向かい合わせた二体が、耳障りな甲高い声をお互いに向けて発している。エイミーには、それが何やら言葉を交わしているように思えた。


 二体目の敵という予期せぬ出来事に直面して、エイミーの思考が一瞬だけ止まる。そして、切り傷のある方のトカゲは、その好機を見逃さなかった。その上半身になお炎を纏わせつつも、床へ転がったままの状態のエイミーへと、火炎を放とうとする。


 エイミーはすぐさま回避行動へと移った。

 素早く起き上がり、手近に積まれた木樽の陰を目指して、必死に駆ける。

 だが、彼女がその射程から逃れるよりも、放たれた炎の方が先に到達しそうであった。回避の成否を分けた分水嶺となったのは、一瞬だけ停止させてしまった思考時間。迫り来る炎から完全には逃げ切れないことを頭の片隅で悟ったエイミーは、必死に走りながらも自身の不手際を呪い続ける。


 もう数フィートで木樽の裏に隠れることができる。

 最後にできる悪あがきとして、床を蹴り、両腕を伸ばして頭から飛び込む。

 エイミーの靴底を炎の先端が嘗めるのを、彼女は足裏のチリチリとした感覚で否応なしに感じる。


 ――僅かに間に合わない。


 そう思った時、木樽の陰から伸びた手がエイミーを乱暴に引っ張った。


 床へ肩を強かに打ちつけながらも、紙一重で木樽の裏に避難することができたエイミー。まさに九死に一生を得た形だ。木樽の表面を炎が炙る焦げ臭さが早くも漂ってくる。


 エイミーが顔を上げると、息を切らしたミラが視界に飛び込んできた。緊張した面持ちでミラが口を開く。


「全く……無茶なことして。死んじゃうとこだったよ?」

 窘めるような口調。

 ミラに手を引かれ、エイミーはよろよろと立ち上がる。

「うっさい――あそこで余計な邪魔さえ入らなきゃ、殺せてた」

 恨めしそうに吐き捨てる。その鼓動は、まだ激しく早鐘を打ち続けている。

「取りあえず、一旦、距離を取ろう?」

 そう言うとミラは、少し離れたところで蹲ってこちらの様子を心配そうに見つめているオリヴィアに、入口付近へ行くよう手振りで合図した。


   *


「で、どうすんの?」

 積み荷の陰から敵の様子を窺いながら、エイミーが問い掛けた。

 倉庫内は、麻袋や木樽を燃料代わりに、黒煙を上げながら燃え続ける炎によって煌々と照らされている。


 倉庫の入口付近まで後退した三人は、一息入れる暇もなく、早速策を練っていた。

「どうしよっか?」

 この緊迫した状況に似つかわしくない、にへらとした笑みを浮かべるミラ。それを見て、エイミーはため息をついた。

「はぁー。結局、策なしって感じなんだ。――やっぱ、焼かれるの覚悟で、さっき仕留めとくべきだったかもね」

 手持ち無沙汰に刀の柄を撫でるエイミー。


「とにかくさっ」ミラが言う。「一度、状況の確認しよ? そうすれば、何かいい案思いつくかも」

 姉の提案に、オリヴィアが無言で頷いた。

「まず、敵の数だけどさ、もうあれ以上増えることはなさそうだけど、どう思う?」ミラが搬入口の方へ視線を向ける。

「さすがに、あれで全部でしょ」エイミーが答える。「ここでしばらく様子見てたけど、二体であの辺うろうろしてるだけだし。――というか、これ以上増えたら勝ち目無いんじゃない?」

 ミラが鹿爪らしく頷いた。

「そうだね。もし他にも居たらって考えるとキリがないし、取りあえず、倒すべき敵はあの二体ってことにしよ。もし、まだ居たら、それはその時考える」

「ねぇ」とオリヴィアが口を開いた。「何であのトカゲ? みたいなの、あそこでうろうろしてるだけで、こっちに来ないんだろ?」

「はぁー」とエイミーがわざとらしく、ため息をついた。

「見て分かんない?」顎で積み荷の山と山の間に築かれた通路を顎で指し示した。

「アイツら通れないんでしょ、ここの隙間。身体大きいから。だから、あそこでアタシらがのこのこ出て来るの、待ってるんじゃない?」

「じゃあ、わたしたちがここで待ってる限り、安全ってこと?」

 オリヴィアが不安そうに問う。

「まぁ、アイツらがここまで来れないってのなら、そうなんじゃない? ――ただ、アタシらの方でも、ここで待ってる限り、何もできないわけだけど。取りあえず、アイツらが痺れ切らして何か行動するまで、ここで作戦考えてるのが一番でしょ」

 だが、そのエイミーの発言に対して、ミラは険しそうな表情を浮かべた。その視線の先は、搬入口の方へと向けられている。

「残念だけどエイミー、多分そんな余裕ないと思う。――見て」

 ミラに促されたエイミーが、敵の方を見やる。その背後からオリヴィアも顔を覗かせた。


 搬入口の辺りでうろうろしていた二体のトカゲは、手近の積み荷の山に向けて、火炎を放っていた。真正面から強烈な炎を浴びた麻袋や木樽は、見る見るうちに、灰燼に帰している。そこから巻き上がった黒煙と灰は、倉庫の天井付近を覆いつくさんとする勢いで、もうもうとその体積を増し続けている。このまま入口付近に留まっていれば、ニシンの燻製のようになる未来が近く訪れることは、文字通り火を見るよりも明らかであった。


「ねぇ、これって外に逃げた方がいいんじゃない?」

 オリヴィアが両脇の二人を不安そうに見ながら提案する。

「いや、それがアイツらの狙いかも」とエイミーが彼女の案を否定する。

「ここならまだ遮蔽物があって何とかなってるけど、外だと隠れる場所がほとんどないし」エイミーが緊迫の面持ちで言う。

「そうだね」とミラもそれに首肯する。

「あの炎の届く距離を考えたら、外に逃げるのはかなり危ないと思う。それにジェーンには、倉庫内で戦うようにも言われてるし」

「はんっ」とエイミーが鼻で笑った。「別にアタシはそんなこと端っから気にしてないけど。何ならアイツが乗った馬車に運良く炎でも当たればお得かもね。まぁでも、倉庫内で戦った方がマシってことにはアタシも賛成。それに――」

 彼女は、向こう側にいる敵達へ視線を向けた。

「アンタらには聞こえなかった? アイツら会話してたでしょ?」

 ミラとオリヴィアは首を横に振った。

「ううん、全然聞こえなかった」とミラ。

「どんな内容?」とオリヴィアが問う。


「さぁ」

 エイミーが肩を竦めた。

「会話って言っても言葉じゃなかったから内容までは分かんない。甲高い音みたいな。――まぁ、でも、アイツらはそれで意思疎通できてるんでしょ。そうやって互いに会話しながらお互いの死角を消すように連携して動いてるっぽい。現にアタシはそれで危うく死にかけたわけなんだから」

 自虐を交えて彼女が言う。

「もしエイミーが言うように連携を取っているなら、やっぱりここで戦うべきだと思う」とミラが思案気に述べる。

「と言っても、お互いの死角をカバーするように連携した敵と戦うなら、小回りが利いて人数も多い私達にとっては、室内の方がまだ幾分マシかもっていう理由なん…だけ……ど」

 何の気なしといったふうに窓の方を見やった彼女の言葉が、次第に尻すぼみとなる。

 つられてエイミーとオリヴィアも、同じ方向へと目を向ける。そこには、積み荷を背にして、両腕を組んでもたれかかった狼少女の姿、ただ一人のみが映し出されていた。右腰に刀を帯びた鏡像。倉庫の中で踊り狂う炎の眩さのせいで、冷たい闇夜と室内を隔てる大きな硝子窓が、こちら側から見ると、さながら鏡面のようになっているからだ。

 特段、取り立てるほどのことでもない日常的でありふれた現象。学のない者でも、経験的に知っている。ただ、そこに映し出される非日常的光景は、エイミーにとっても未だ慣れるものではなかった。

 両側に立っている彼女達の体温、呼吸。彼女達は自分の傍に確かに存在しているという現実を理性では十分に分かっている。なのに、鏡の向こう側の世界には、二人の存在が影も形も存在しないという視覚情報が、脳内で激しく競合する。その狭間では、ともすると両者の齟齬に眩暈すら覚えそうであった。


 エイミーが二人に掛けるべき言葉を言いあぐねていると、それを察したミラが慌てて口を開いた。

「あっ――ごめんね、違うの。別にそこに私達が映ってなくて驚いたわけじゃないんだ」

 いつも通りの明るい口調で彼女が言う。そして、それに続けて、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「前みたいに良い作戦思いついたかも。――二人とも協力してくれる?」


   *


 倉庫の天井を支える梁を完全に覆いつくすほどの黒煙。その発生源は、苛烈な炎に包まれた麻袋と木樽の山。その炎の行進は、その腸に飲み込んだ全てを灰に変えながら、倉庫の中ほどにまで達しようとしていた。


 鏡写しにしたかのように瓜二つな二体の大トカゲ。横並びになった彼らは慌てず騒がず、当初の位置からさほど移動することなく、淡々と火を交互に放ち続ける。

 彼らは待っているのだろう。逃げ隠れたままの獲物達が燻製となり果ててしまうか、あるいはそれを嫌って外へと逃げ出すのを。


 首筋に切り傷のあるトカゲが、炎を吐くのを止めて、顔を上げた。その視界の奥に、動く人影を認めたからだ。真正面に積まれた麻袋の上をトカゲ目指して一直線に駆け抜けて来るのは、頭上の黒煙を避けるように姿勢を低くした赤毛の狼少女。その両眼は、正面の敵を力強く見据えている。


 その行く手に立ちはだかる炎に怯むことなく、両腕で顔を覆うと、彼女は、息を止めてその中を一気に突き抜ける。辺りに火の粉と灰を撒き散らしながら、エイミーが宙を舞う。背後で揺らめく焔に煌々と照らし出された彼女の赤髪が、落下に伴ってふわりと逆立つ。


 最初の接敵同様の構図。ゆえに、首に切り傷を負ったトカゲは、その攻撃を容易に見切る。自身の首筋にエイミーが乗ることを二度許しはしない。


 落下の勢いが乗った彼女の拳を、首を捻って躱すトカゲ。遠心力で、その首筋の傷から体液の飛沫が飛び散る。


 エイミーが器用に受け身を取って着地した。その目の前に鎮座するのは敵の鼻先。口が開かれ、エイミー目掛けて炎が放たれようとする。

 彼女はそれを確認すると、テムズ川の方へ向かって全力で駆ける。

 息を大きく吸い込むと、水面へと躊躇なく、水飛沫を激しくあげて飛び込む。

 その頭上を炎の渦が掠めた。


 ミラに言われた通り、水中で時間を数えるエイミー。


 ――三、四、五秒。


 所定の時間を数え終わると、岸壁に手を掛けて、再び倉庫内へと素早く躍り込む。エイミーの全身から水が滴り落ちる。


 ミラが観察を基に立てた予想通り、敵の炎が続くのは、長くて五秒程度。そして、次撃に移るまでにも五秒程度のインターバルが存在する。


 傷ありトカゲへ攻撃するには絶好のタイミング。

 だが、エイミーはそのまま、トカゲを横目で見つつ、向かって右端の壁と木樽の間の通路を目指して一目散に駆け出す。床を踏みしめる度に、靴が水気を含んだ音を立てる。


 ここで攻撃することはできない。なぜなら、二体目のトカゲが、一体目を巻き込む形で炎を放つことができるからだ。二体は、お互いの死角を打ち消し合うように陣取っている。


 エイミーの胴体目掛けて横薙ぎに振り出された、しなる尻尾を紙一重で飛び越えると、彼女は右斜め前にある壁際の通路目指して、突き進んだ。彼女の目的地である通路に至るまで、遮蔽物は存在しない。通路に到達するまでに要する時間は、およそ五秒。


 後ろを振り返る余裕のないエイミーは、鏡のようになった硝子窓を見やる。

 彼女を追ってきているのは、あと数秒程度で再び炎を吐ける方のトカゲ。敵が追いかけてきている意図は明らかであった。壁と木樽の山に挟まれて左右に逃げ場のない細長い空間。そこへ獲物を追い込みさえすれば、射程の長い炎撃で仕留めることができるからである。


 もう一体のトカゲはと言えば、テムズ川を背にして陣取ったままだ。こちらの意図も十分窺い知れた。エイミーを追撃するトカゲが、仮にミラやオリヴィアによって背後から奇襲を受けた場合に備えて、すぐに焼き払うための構えだ。

 二体目が背後の安全を保障しているからこそ、一体目はエイミーに集中して追い打ちをかけることができる。


 やはりアイツらには明らかに連携を取れるだけの知能が備わっている、とエイミーは確信した。


 エイミーが、燃える木樽の横を通り過ぎた。その真向かいの壁で大きな鏡と化した硝子窓が、通り過ぎるエイミーの鏡像をその身に映し出す。


 二十フィートばかり進んだところで、エイミーが小気味良いステップをして、華麗に回れ右をした。ずぶ濡れの彼女の身体から、遠心力で滴が飛ぶ。

 間もなく左折してくる敵と向かい合う格好だ。


 左前にある硝子窓が、エイミーから見て完全な死角となっている、燃え盛る木樽の向こう側を左右を入れ替えた形でありありと映し出す。鏡面を通じて、エイミーとトカゲの視線が鋭く交錯する。


 鏡面越しに獲物の姿を認めたトカゲが、仲間へ向けて甲高い音を発した。


 その内容について、理解はできなくとも、推測ならできる。


 反撃手段として近接攻撃しか持たない獲物の少女が、左右に回避することができない細長い空間で、二十フィートほどの距離を開けて佇立しているという、遠距離攻撃手段を有する側にとってはかなりの好条件。すなわち、エイミーの拳が届く前に、余裕を持って焼き払えるだけの距離。唯一の懸念は、追撃側から見て完全に死角となっている木樽の裏に伏兵が潜んでいる可能性であるところ、この点についても解消されている。なぜなら、壁に生じた即席の鏡面が、追撃側にとっては実に有り難いことに、その死角をありありと隈なく映し出しているからであった。


 通路に認められるのはエイミーただ一人だけ。ゆえに、そのことを自身の目で鏡面越しに確認したトカゲが仲間へ真っ先に伝えるべきなのは、残りの二人による不意打ちに警戒せよという一点。


 背後を仲間に委ねたトカゲが為すべきは、これ以上の逃げ場を失った標的を一切の憂いなく焼き払うことのみ。ゆえに、左折と同時に、間髪を容れず炎撃を放つべく、トカゲが大口を開けながら曲がり角へと差し掛かる。


 自身の勝利を確信したかのように小刻みに全身を震わすトカゲ。

 それは、武者震い。今まさに獲物を刈り取らんとする瞬間に生じる高揚感。

 だが、トカゲは、自身の優位性に慢心することなく、御膳立てされた勝利までの階段を一段一段踏みしめるごとく、角を曲がるその瞬間まで、鏡面を通してエイミーの一挙手一投足から目を離そうとはしない。


 ――だからこそ、そこには僅かな隙が生まれる。


 ふいに、鏡面の向こう側でエイミーが、木樽の陰から何かを両手で突如抱え上げる動作をした。

 それはトカゲにとって、実に不可解な行動。

 なぜなら、からだった。それはまるで、劇場の舞台で喜劇俳優が演じるパントマイムさながらの滑稽な行動のようにすら映る。


 しかし、既に左折の動作に移行したトカゲは、たとえ彼女の奇異な行為に疑問を抱いたとしても、もはやその足を留めることは叶わない。


 燃え上がる木樽の陰からトカゲの鼻先が突き出し、次いで、その全身が、勢いよく壁に打ち付けるようにして、通路へと滑り込んだ。


 トカゲの視界が、まず真正面に捉えたのは、思い切り歯を食いしばりながら、何かを自身の上空へと放り投げる狼少女の姿。トカゲは思わず、その軌跡を目で追いかける。


 突如、その鼻先から下顎にかけて、何か鋭利な物が一気呵成に貫いた。


   *


 ――全て、ミラが立てた作戦通りだった。


 小さな両手で柄を力一杯握り締めたオリヴィアが、落下の勢いで、トカゲの口へと綺麗に短刀を突き立てる様を眺めながら、エイミーは思った。


 吸血鬼は鏡に映らない。

 ならば、死角を打ち消すように連携の取れた敵の隙を作り出し、仕留めるには、これを活かさない手はない。ミラは、二人にそう告げた。


 彼女の作戦通り、エイミーは条件の整った壁際の通路までトカゲを誘導した。そして、もう一体が援護に入らないように、鏡のようになった硝子窓を利用して、追撃して来るトカゲに対して、通路にはエイミー以外の仲間が潜んでいないと誤認させる。そうすれば、もう一体のトカゲは、所在の知れないミラやオリヴィアの奇襲を警戒せざるを得なくなり、容易に動くことができなくなる。


 これらは全て、トカゲ達に理詰めで戦況を判断し得るだけの知能が備わっていることが前提となっている。もし、彼らがただ本能のままに襲い来る怪物であったならば、成り立ち得ない。


 しかし、彼らが一定の知能を有していることについて、エイミー達はほぼ確信していた。抜け殻を囮にしたあの大蛇がまさしくそうであった事実を目の当たりにしていたがゆえに。


 後は、ミラの予想した通りに追いかけてきたトカゲの鼻先へと上手く落ちるよう狙いをつけて、通路に隠れたオリヴィアをエイミーが投げるだけだった。今回の一番の難所は、実のところエイミーによるこの投擲であったかもしれない。と言うのも、戦闘センスをさほど期待できないオリヴィアに仕事を完遂させるためには、敵の鼻先の真上へ彼女を正確に投げ上げねばならないからだった。

 オリヴィアの仕事は、ただ一つ。短刀の切っ先を真下へ向けておくことだけ。

 その作戦は、目の前で繰り広げられているトカゲの奇怪な輪舞が示すように、上々の成果を上げた。


 口を短刀で縫い留められたトカゲが、雨に打たれた野犬のように、その全身を狂ったように獰猛に振るう。その激しい動きに耐えかねて宙へ放られたオリヴィアをエイミーが何とか抱きとめる。しなる尻尾が硝子窓を窓枠ごと粉々に打ち砕き、木樽の山を崩す。木樽の雪崩を回避するべく、彼女を抱えたまま、エイミーは暴れるトカゲの横を上手くすり抜けて、来た道を引き返す。


 トカゲがいくら暴れようとも、思ったよりもかなり深くまで突き刺さった刃はびくともしない。それは、すなわち、炎撃の封じられたことを意味していた。

 一連の思わぬ反撃に驚愕していたのは、攻撃を食らった当のトカゲだけではない。もう一体のトカゲもまた、味方が手痛い一撃をお見舞いされたと見るや、すぐさま援護の構えを見せた。


 もう一体のトカゲは、岸壁の方へと引き返してきたエイミーとオリヴィアの方へと向き直ると、彼女達に火炎の一撃を喰らわせるべく、その口腔を露にした。


 テムズ川を右手にして、トカゲが斜め横を向く。攻撃の瞬間。


 天井に滞留する黒煙の中から、長い金糸の髪を靡かせたミラが、突如躍り出てきた。その口元には、黒煙をできる限り吸い込まないよう、ハンカチが巻かれている。

 エイミーとオリヴィアが役割を果たした後に訪れるであろうこの瞬間を、彼女は天井の梁の上で息を潜めて待ち続けていたのだ。

 落下の勢いそのままに鋭い蹴りをトカゲの横っ腹へ食らわせたミラは、そのまま敵もろともテムズ川へと飛沫を上げながら消えてゆく。


 これもまた、作戦の内であった。


 炎撃を封じたトカゲをエイミーとオリヴィアが仕留めるにあたり、厄介なのは健在なもう一体。ゆえに、テムズ川へと叩き込むことでその無力化を図る。そのために必要な隙、すなわち敵がその横っ腹を晒す瞬間は、エイミーとオリヴィアの反撃が成功すれば、ほぼ間違いなく訪れる。


 ミラが身を挺して水中へと落とし込んだトカゲ。このように水没した状態では、もはや炎を吐くことなど無理筋である。彼女の息が続く限り、トカゲを水中に引き込み続ける手筈であった。


 ミラが作り出した好機。エイミーはこれを逃さない。

 抱えたオリヴィアを下ろすと、彼女は、なおも暴れ狂う大トカゲへと真正面から突っ込む。

 炎撃の心配はもはや完全に消え去った。


 苦し紛れに繰り出される尻尾の横薙ぎ。だがそれは、難なく飛び上がったエイミーの足元を虚しく通り過ぎるだけである。

 空中で刀の鯉口を切る彼女。左手で鞘と鍔の境目を握り、親指に力を込めて鍔を前へと押し出す。右手で柄を握ると、刀身を一気に引き抜く。

 そして、鯉口から離した左手で、オリヴィアの残した短刀の柄をひっつかむ。勢いのついた彼女の身体が慣性の法則に従い、左手を支点にして、そのままオオトカゲの上で逆立ちの恰好となる。その鋭い両眼が睨め付けるのは、ミラが付けた僅かな切り傷。そこを目掛けて、右手の刀を躊躇なく振り下ろす。刃先が炎の色を受けて、情熱的に赤く一閃した。


 驚くほどに切れ味抜群の白刃が、真夏のバターに沈み込むように、トカゲの体表を切り裂いていく。鱗の千切れる感触、その下の肉の繊維一本一本を断ち切っていく手応えが、エイミーに伝わってくる。耳障りなほどに苦悶の断末魔をあげ続ける敵に構うことなく、自身の役目を彼女は遂行する。


 最後の力を振り絞って、エイミーを振り落とそうとするオオトカゲ。

 だが、その縫い留められた口から炎が吐けようか。  

 虚空を虚しく舞う尾には何の意味があろうか。


 その首筋に覗いたのは、その中心から迸る体液と骨が突き出た、大きな醜悪な肉の切り株。鼻先に短刀を突き立てたままのその頭部が、重量感のある鈍い音を立てて、力なく床へと転がった。


 華麗に着地したエイミーは、その死骸を一瞥すらせず、そのままテムズ川へと駆け出した。水面に浮かぶ気泡がその数を一気に増やす。ごぼごぼと空気を含んだ大きな音を立てながら、もう一体のオオトカゲとその首筋を掴んだミラが、水中からその姿を現した。全身ずぶ濡れになった彼女が、その肺腑に新鮮な空気を取り込むべく、大きく深呼吸をした。


「ミラぁっ!」

 エイミーが叫ぶ。岸壁の縁を踏み切って、彼女が跳躍する。それを見たミラが、素早くトカゲの鼻先に飛びついてぶら下がると、その口が開かれないように、両腕で抑え込んだ。ミラが鼻先にぶら下がった分だけ、トカゲの頭が垂れ、その無防備な首筋がエイミーの眼前で露になる。


 彼女は、再び刀を振るった。


   *


 倉庫の割れた硝子窓から抜け出し、七十フィートばかり、とぼとぼと歩いたところで、三人は徐に背後を振り返った。燃え盛る炎がいよいよ倉庫全体を飲み込もうとしていた。仲間の火に耐性があったトカゲの死骸は、あの業火の最中にあっても最後まで燃えることなく原型を留めることになるのだろうか、という疑問がエイミーの脳内に過った。

 だが彼女は、首を振ってその疑問を頭の中から追い払う。

 いずれにせよ、エイミー達は今宵もまた自分の職務を全うしたのだ。たとえ、現役で使われている倉庫の一つが不審火で全焼しようとも、そしてその灰の山から謎の生物の死骸が発見されて大事になろうとも、彼女達の知るところではなかろう。その辺りの後始末は、ジェーンが関わる領分だ。


 無言で馬車まで歩く三人。

 その全身がずぶ濡れになったエイミーとミラの歩いた跡には、水の軌跡が残る。

「このまま馬車に乗ったら、ジェーンに怒られるかな?」

 ふと、ミラが悪戯っぽい笑みを浮かべながら呟いた。

「さぁ。元はと言えば全部アイツのせいなんだから、そんなのアタシらが一々気にすることでもないでしょ」

 とエイミーが返す。

「でもさっ」と二人の後ろを着いてきていたオリヴィアが口を開いた。

「ジェーンが、怒ってるところって、どんな感じなんだろ? 全然想像つかないね」


 エイミーとミラが顔を見合わせて、同時に小さく吹き出した。

「確かにね」とミラ。

「全く想像つかないし」とエイミーも言う。


 他愛無い会話。そのようなやり取りをしていると、エイミーは、先程まで命のやり取りをしていたという夢みたいな現実が、やはり夢であったかのような錯覚を覚えてしまいそうになる。

 そうこうしているうちに、三人は馬車のところまで戻って来た。すると、いつも通りの張り付けたようなにこやかな笑みを湛えたジェーンの隣に、見知らぬ中年男性が立っているのに気付いた。


 黒を基調としたスーツは、彼の体型に見事に合っていることから、職人による上等な仕立服であることが窺えた。整髪料で丁寧に撫でつけられた白髪交じりの頭には、煙突型のシルクハットが載っている。白手袋をした右手には、小さなオペラグラスが握られていた。

 オペラグラスを上着のポケットへしまうと、彼はエイミー達に向かって拍手をした。それは、さながら壊れかけの蒸気機関がポンプから発するような、湿度を含んだ不快な音の連続。


 突然の新参者の登場に訝しむエイミー達をよそに、目の前の紳士然とした男は、一しきり拍手をして満足したようであった。


「なんともまぁ」バリトンの利いた声を男が発した。

「まさか、これほど完膚なきまでに敗北を喫するとは思ってもいませんでした」

 男の値踏みするような視線は、エイミー達へと向けられてはいるが、その発言は彼女達に対して発したものでは全くないのだということが、その声色から窺えた。


 男が感嘆の溜息をついた。

「それにしても、自我を残したヒト型の状態で、よくここまで飼いならせるものですな。私にはとてもじゃないが、真似などできない。薬と調教でようやく実戦投入できるケダモノばかりだと考えておりましたが――」男は一度言葉を切ると、諦めたように首を振った。

「いや、やはり私には無理だ。首輪も鎖もなく、放し飼いに近い状態で手元に留め置く度胸も勇気も、私には到底持ち得ない」


「なぁっ⁉」

 勝手にぺらぺらと雄弁に語る男の態度にしびれを切らしたエイミーが、ジェーンに向かって発した。

「ジェーンっ‼ 誰だよ、このおっさんは⁉」


 だが、ジェーンがそれに答えるよりも先に口を開いたのは、またもや男の方であった。

「これは驚きました。もしかして貴女は何も教えてはいない、と」

 ジェーンに対して、心底信じられないという内心を身振りで示す男。その様は、芝居がかっているようにすら映る。


「一体どういうことなんだよ、ジェーン⁉ このおっさんは何を言ってやがんの?」


 エイミーが放つ疑問の数々に、男がますます満足そうに頷いた。

「なるほど、なるほど。――やはり流石と言うべきでしょうかな。神に仕える方は、私のように金の勘定しか頭に無い俗物とは一線を画するようですな。自身の手足のように使役する彼女らに何も教えないというのは、まさに、右手でなした善行を左手にすら知らせてはならないという教えを徹底していることに他なりませんからな。そこまで徹底なされているとは、改めて敬服いたします」

 得心がいったというように、自己完結して勝手に何度も頷く男。それを受けて、ジェーンが典麗な所作でお辞儀を返す。

「過分なご評価、大変痛み入りますわ」


「おいっ、ジェーンっ!」

 エイミーが、ずかずかとジェーンに詰め寄った。

「説明しろって言ってんでしょ⁉」


「もちろんご説明致しますわ、アミーリア」

 笑みを崩すことなく、ジェーンが述べる。その整った顔が、手にした角灯の灯りで薄気味悪く照らし出される。

「こちらの紳士は、貴女方が今宵対峙したサラマンダーの所有者です」

 華奢な白い手で男を指し示す。

「いかにも」と男は答えた。

「彼らは、私の所有する中でも自慢の二体だったのだがね。――現に、前回のジェーン女史との手合わせの際には、そちらの手駒だったエルフの少年少女達をあっという間に全滅させたわけだが、今回は見事にその意趣返しを受けてしまった、というわけですな」

 男は、腹の底から心底楽しそうに、くぐもった笑い声をあげる。

「お言葉ですが、サー

 ジェーンがにこやかに言う。

「貴方のサラマンダー達に灰に変えられてしまった、わたくしの愛しい子供達は、今回の戦いでも存分にその召命を果たしましたわ。――と言いますのも、あの子達に持たせた武器は、あの時の灰を素材に造り上げたものなのですから」

 ジェーンが慈しむような視線をエイミーの左腰へと向ける。

「――本当に、善き働きでしたわ」


 ――コイツらは一体何を言ってんの?


 エイミーの理解が及ばない会話。

 否。無意識に理解を拒んだのだ。


 ジェーンに言われるがまま、半ば暗中模索で戦っていた彼女達にとって、それはまるで、目の前に垂れ下がっていた緞帳の向こう側を一瞬だけ垣間見たかのような心持ち。

 エイミーの足元に広がる地面が、全て海綿スポンジに変わってしまったような現実味のない夢遊感。


「つまり――」

 背後からゆっくりと歩み寄って来るミラが発した、玲瓏で、驚くほどに落ち着き払った声が、エイミーを無理やりに現実へと引き戻す。

「見世物にされてたってわけなんでしょ? 私達は」

 目の前に佇立するジェーンと男を見やる彼女の紺碧の瞳は、エイミーが背中に悪寒を覚えるほどに、諦観が混じった冷たい色をしていた。


「ほう」と男が感嘆の声をあげた。

「当たらずといえども遠からず、といったところですかな。――普通は、所有者がわざわざ見物に来ることなど、ないのでね。ましてや、毎回丁寧に引率するような奇特な人物は、ジェーン女史以外には、まずいないだろう」

 男は見せびらかすように、ポケットから先程のオペラグラスを取り出した。

「もっとも、こんなところまでやって来る私のような老いぼれもまた、かなりの物好きの部類に属する、と自負してはいるがね。無理もなかろう。クラーケンウェル監獄での最後の公開処刑以来、実に十五年、こうして代替物を定期的に摂取しなければ、どうにも気が休まらないのだから。昔は、見通しの良いマンションのバルコニーを借り切って、このオペラグラスで覗いて堂々と楽しんだものなのだがね」

 ひとしきり昔語りをして満足したのか、男はジェーンの方を向いて、慇懃に一礼した。

「では、今宵はこれにて失礼させていただきます。明日からまた、新しいサラマンダーとなり得る活きの良い悪漢を調達するべく、ニューゲート監獄に手回しをしなければなりませんからな。どうやらミスタ・カベンディッシュもご自慢の大蛇を失ったとかで、早速、方々に手回しをしているようなので、なるべく早く動かなければ、雑魚を掴んでしまうことになりかねん。――そうそう、ちなみに次回の定例連絡会は、バーニカット夫人御自慢の庭園で催される予定だとか。その時にでも、ケダモノ共を飼い馴らす秘訣など、是非ご教示賜りたく存じます。それでは、御機嫌よう」


 男は洗練された所作で回れ右をすると、エイミー達が乗って来た馬車の隣に、いつの間にか停車していた別の馬車へと姿を消した。

 彼が去った後に残されたのは、黒衣の女一人と、怪物と化した少女三人。

 いつも通りの柔和な笑顔のジェーン、そんな彼女に真っ向から侮蔑の視線を向けるエイミー、怯えた小動物のように姉の服の裾を掴んで、目尻に涙を浮かべるオリヴィア、そして何を想い、考えているのか、全く分からない紺碧の瞳で、霧の合間から覗く月を静かに見上げるミラ。


「じゃあ……」オリヴィアが震える声で呟いた。

「今日のトカゲも、この前の蛇も全部……元は私たちと同じ――っ」

 最後まで言い終わる前に、オリヴィアが口元を小さな両手で押さえて、大きくえずいた。その指の隙間から、消化し切れていない固形物の混じった吐瀉物が、地面へと滴り落ちた。


 霧に覆われた帝都の夜に、白白明けの朝が訪れる兆しは、未だ見えない。


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