第13話 消失

 それからしばらく屋台を回り、ある程度の食事を買うと、僕らは花火を見る準備を始めた。草むらに各々が持ってきたブルーシートを敷き、僕が少しだけ気を使って、星見さん、海斗、僕の順番で座る。動き出しが遅かったため、花火が良く見えるスポットからはずいぶん離れてしまったが、まあ見えないよりはましだろう。


 レジャーシートを引き終わり、もうすぐ花火があがろうとするとき、星見さんがたちあがった。どうやらお花を摘みに行くらしい。こういう場合は変な輩に絡まれないよう、一人にさせないほうがいいのだろうか、そのようなことが僕の頭をよぎる。


 しかし、表に出さないようにはしているものの、今少しだけ機嫌の悪い海斗を一緒に行かせても話が続くとは思えないし、僕が一緒に行けば、きっと一層海斗の機嫌を損ねることになってしまう。僕ら二人は星見さんを見送り、お菓子などを広げて、彼女を待った。


「なあ、なんであの時、くま撃ち落としたんだよ」


 プラスチックコップにコーラを三人分注ごうとしているとき、海斗が僕に言った。


「やっぱり、ダメだった?」

「だって俺が撃ち落としたかったし」


 彼は一層口をすぼめながらそう言った。まるで叱られたことに納得のいっていない子どものようだった。一応彼の名誉のために書いておくが、海斗は、決して僕に対して怒りを抱いているわけではない。くまを撃ち落とせなかったのは自分が悪いし、それを僕に撃ち落とされたのも、僕が悪いことをしたわけではない。彼はそれが十分すぎるほど分かっているからこそ、そのもやもやをどこにもぶつけられず、こうして僕に言うことで発散しているのだ。


 僕は理不尽にただ怒りの感情をぶつけてこない海斗の優しさを感じながら、努めて申し訳なさそうな顔を作って、彼のコップにもコーラを注いだ。


「ごめんって。でもあのまま続けてたら海斗は、倒れるまで挑戦し続けるでしょ。そうなったらきっと星見さんも気を遣っちゃうと思ったからさ」

「ああ、まあ、確かにそうかもしれないけど」


 彼は、納得しつつも不満気な表情を浮かべながら、コップのコーラをのどに流し込んだ。


 ――嘘だ。決して僕はあの時、それほどまでに考えを巡らせてはいなかった。


 親友を騙したことに対する罪悪感だろうか。純粋に感情を表に出せる親友への劣等感からだろうか。胸からこみあげる赤黒い感情が、僕のことを責め立てる。


 そうだ。僕がくまを狙った時、星見さんのことが好きな海斗の気持ちなど、これっぽっちも頭になかった。ここで撃ち落としたら、きっと格好良く見てもらえる。彼女の期待に応えられる。なにより星見さんの中での海斗との評価の差を広げることができる。


 自分の中に確かにある悪魔のささやきのようなそのよこしまな感情が、銃の狙いを変えさせたのだ。そして、幸か不幸か、その銃の弾は、正確に的を捉え、撃ち落としてしまった。


「ごめん。遅くなった。まだ花火始まってないよね」


 仲違いしたわけではないが、特に話すこともなく海斗と無言で時を過ごしていると、星見さんが戻ってきた。僕は、堆積している感情を、どうにか押し殺し、その言葉に笑顔で応じる。


「うん。まだ大丈夫だよ。でももうすぐで始まるかな」


 その言葉が終わるや否や、体の奥から震えさせるような、花火の音が響いた。暗闇の中を、一筋の光が、うなりをあげて空を目指す。そして、その小さな光は、己のゴールへと到達すると、その命を振り絞り、すべての人が息をのむような大輪の花を咲かせる。見せ場が終わり、稲穂のように地に垂れる炎たち。人々を感動させるために生じるその一瞬の命は、きっと一片の悔いもないものなのだろう。


 暗闇の中、僕はなんとなく自分の隣へ顔を向ける。次の種がまた花を咲かせ、その方向にいる花火に見とれた海斗と星見さんの顔が照らし出される。


 ――僕もきっと後悔しない選択をしなければいけない頃なんだろうな。


 このままではいられない。僕はそれを強く感じた。きっともうこの感情は隠し通せる類のものではない。自分で選択したにせよ、仲睦まじげに隣で話す海斗と星見さん。その二人を見ていると湧き上がるこの心のとげとげを、僕はきっともう、なかったことにはできないのだ。


 すべての花火が打ちあがり、人の波が干潮のように引いた後に、僕らもレジャーシートを畳んで帰路に就いた。星見さんは帰り道に寄りたいところがあったらしく、帰り道は僕らと別々になった。


 花火大会が終わると屋台や提灯の光はすっかりと消えた。僕と海斗は、ぽつりぽつりと等間隔に位置する街灯の光を頼りにゆっくりと歩きだした。単純なことに、星見さんの隣で花火を見て、すっかり機嫌を直した海斗は、僕に向かって上機嫌で話し始める。


「なあ、今日の星見さんの浴衣かわいかったな。俺、本当に今日誘ってよかったよ」


 誘ったのは僕だけどね。そのような水は差さずに、僕は彼の話に同調する。


「そうだね。本当に浴衣姿、似合ってたね」

「まあ射的は、誰かさんより格好つきませんでしたけどね」

「それは悪かったって」


 軽口をたたきあいながら、僕らは、数十分ほどの道のりをのんびりと歩いて帰った。彼と話すのは、やはり他の誰と話すよりも、気楽で、楽しくて、自分がこの親友にどれほど心を許しているのか実感するのだった。


「なあ、和也、ありがとな」


 彼が急に改まってそのようなことを言ってきたのは、もうすぐ彼の家に着くほど歩いたときのことだった。僕は、そのまじめな雰囲気がなんだかおかしくて、少しだけ笑みを浮かべながら、尋ねる。


「何? 急にどうしたの? 何を感謝しているの?」

「いや、きっと和也がいなかったらさ。こんなに好きな人と関わることはないんだろうなあって思って」


 ちくりと、心にとげが刺さる。しかし、そんな僕の心の痛みには気付くことなく、彼は、言葉をつづける。


「俺さ。知っているとは思うけど今まで好きな人ができても何もできずにいたんだ。度胸なしだからさ。かなわなくても、遠くで見つめているだけで満足してたんだ。でも、今回の恋愛は、多分初めて和也に頼ったんだよ。そしたら、勇気の出せない俺の代わりに、食事会や花火大会にも誘ってくれて、おかげで少しは好きな人と話せるようにはなれた。本当にさ。俺は和也みたいな友達を持てて幸せだったよ。俺、絶対にこの恋成就させてみせるから」


 ちくりちくりと、確かな痛みを伴って、鋭い針が心に刺さる。クラスメイトの評価よりもずっとずっと大きな痛み。俺は和也みたいな友達を持てて幸せだった? 違う。そんなはずはない。僕は、彼を利用しているんだ。彼の恋を手伝っているということを言い訳にして、僕もきっと無意識のうちに星見さんと確かに距離を縮めようとしていた。それなのに、彼はそんなことなど何も知らずに、目の前の恋敵に、感謝の言葉を口にしている。


 言わなければならない。まぶしすぎるほど純白で、焦がれるほどに無知なこの親友に僕は真実を告げなくてはならない。


 僕は、胸の内からはち切れそうなほどこみあげる感情を、言葉にしようとした。しかし、それはどれほど放出しようとしても、のどのところで押し戻されてしまうのだった。この言葉を言ったら、僕はたった一人の親友を傷つけてしまうかもしれない。僕を理解してくれるかけがえのない存在を失ってしまうのかもしれない。


 ――きっと透明になっちゃうよ。


 その時、脳内で、彼女の言葉が響いた。


 そうだ。それでもここで自分を押し殺すべきではないのだ。ここで僕が彼に感情を表に出さなければ、その瞬間に僕という色は消えてなくなってしまう。一度そうなりはじめてしまったら、きっと僕は、彼の親友である『僕』さえも分からなくなってしまう。それだけは、絶対に嫌だ。


 言葉を押し出そうともがいている間に、僕らは交差点に着いた。車線が複数あるわけでもないし、それほど車通りも多くない小規模な交差点。このまままっすぐ進めば家がある僕とは違い、海斗はこの交差点を渡らなければならない。今の信号は青。海斗は、僕の方を向いて、手を振る。


「じゃあ、またな海斗」


 海斗は、進む方向へ向き直り、ゆっくりと歩き始めようとする。


 ――違う。だめだ。このままじゃ。言わなきゃ。海斗に。


「海斗」


 僕は、喉の奥から何とか彼の名前を絞り出す。海斗は再び僕の方へと向き直り、不思議そうな顔を浮かべる。そんな彼の目を見据えて、僕は、彼に、言葉をぶつける。


「本当は僕も好きなんだ」

「え?」


 まるで想像もしてなかった様子で、彼は呆然とした顔で僕の顔を見つめる。僕は、一度深呼吸し、再び彼に自分をぶつける。


「僕も、海斗と同じくらい、星見さんのことが好きなんだ」


 心臓の鼓動が高鳴る。ドクンドクンと、僕の命の源であるその臓器は、まるで命の危機に直面したかのように、絶え間なく血液を回す。


 海斗は、皿のように丸くした目を戻した。そして、怒りとも悲しみとも取れないような視線を僕に送り、彼は何か言葉を発しようとした。


 しかし、その声は唐突に鳴ったクラクションにかき消された。


 ――あれ? なんでクラクションが鳴ったんだ? 車?


 ゆっくりと僕の頭は今の状況を整理する。けれども、当然僕以外の時間は、僕に合わせて動いているわけではない。不意に現れた鉄の塊は、金切り声のように高くうなるブレーキ音とともに、僕の目の前の少年を、いとも簡単に跳ね飛ばした。


「え、海斗――」


 それからのことは気が動転していたためあまり記憶にはない。でも、血だらけになって意識を失った海斗を見て、泣きそうになりながら救急車を呼んだのは、おぼろげに覚えている。そのあとそれを見た人が駆けつけてくれて、確か心臓マッサージやAED等を施してくれた。


 海斗は、横断歩道の直前にいた。決して、道路の真ん中にいたわけではないのだから本来ならば、そんな場所に立っていても轢かれるはずなどないのだ。だが、海斗を轢いた黒の軽自動車は、どうやら歩道に乗り上げてきていたようだ。飲酒運転だったらしい。


 人生で初めて乗った救急車。その中で様々な機器につながれ、眠るようにベッドで目を閉じている親友を眺めながら僕は考える。


 ――どこで間違っていたのだろうか。


 サッカーがうまくて、容姿がととのっていて、そしてなんだかんだ優しい、僕の自慢の親友。彼は決して、こんな罰を受けなければならないほど不道徳な人間ではなかったはずだ。そんな彼が、どうして。


 そのとき不意に、横断歩道でこちらを振り向く、彼の姿を思い出す。そうだ。僕があの時、彼を呼び止めなければ良かったのだ。そうすれば、彼は横断歩道を渡り終えて、車に轢かれることはなかった。こんな絶望的な理不尽に、直面せずにすんだのだ。全部全部、僕が、彼に、自分をぶつけようとしたせい。


 その瞬間、血液がとてつもない熱を宿したかのように、鋭い痛みが体中に駆け巡った。僕は思わず顔をしかめて、声にならない声を上げた。そして、周りになるべく気づかれぬよう体を小さくして、静かに痛みが治まるのを待った。


 ――なんで? なんだよ? なんだこれ?


 立て続けにいろいろなことが起きすぎて疲弊しきっている頭を、僕は、どうにか回転させる。すると、ある可能性が頭をよぎり、僕は恐る恐る、自分の袖をまくる。そこには、血のにじんだおびただしいほどの傷が刻まれていた。


『なんでこんなめにあわなきゃなんないんだよ』『なんであのときよびとめた』『おまえもほしみさんすきだったの』『だましてたの』『おれのきもちりようしてたの』『うらぎりもの』『ひきょうもの』『さいてい』『ひとでなし』『おまえなんかしんゆうでもなんでもないよ』


 傷の間に見える日焼けのない肌に、ぽつぽつと鳥肌ができる。これ以上直視できそうにもなくて、僕はゆっくりと袖を戻し、口を強く結んで静かにうつむいていた。そうでもしていなければ、今、必死で体の内側に押し込めて蓋をしている、名前もわからないほど、色々なものがぐちゃぐちゃに混ざって真っ黒になった感情が、自分の何もかもを支配してしまいそうな気がしたからだ。


 僕は、もう一度、恐る恐る親友の顔を見る。僕の目に映る親友の表情は、腕に刻まれた苛烈なる感情とは対極で、安らかで、穏やかだった。


 ――そっか。もう終わっちゃったのか。


 「終わり」、そんな言葉が、僕の脳内を不意によぎった。一体何が「終わる」のか僕は、具体的な言葉にすることができなかった。けれども、僕はこの傷を見た時、漠然と心の中で終わってしまったのだと思った。僕が今まで大切に持っていたかけがえのないもの。そのうちの一つが、今日この日に、確かに消失してしまった気がした。

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