第4話 親友の隠し事

 土曜、日曜と二日の休日を終えて、僕ら高校生は月曜日を迎えた。朝八時、今日はあいにくの雨日和で、かすれた炭のような灰色の雨雲が空を一面に覆っていた。上昇する湿度が、学校の始まる月曜日特有の空気と相まってじめじめとした空気を醸し出している。


「うわあ、月曜から雨かよ。憂鬱だな」


前の席にいる海斗が僕に話しかけてくる。僕は、窓を眺めながらその言葉に答える。


「そうだね。昨日は結構晴れてたんだけどな。やっぱり雨の日は、サッカー部は朝練ないの?」

「まあグラウンド使えないしな。今日の朝練は休みって監督に言われた。放課後は筋トレになると思うけど」

「そうなんだ。今年は県大会優勝できそうなんでしょ? 頑張ってね」

「ああ、まあやれるだけのことはやる」


 海斗は、スポーツとかを全くやってこなかった僕とは違って、小、中、高とずっとサッカーをやっている。僕は、サッカーについては良く知らないが、フォワードという点を取るうえで大切なポジションを担っているらしい。海斗は、一年生ながらもすでにうちのサッカー部のスタメンに選ばれていて、大会でも活躍を期待されているらしい。僕はいつも、そんな幼馴染のことを誇りに思っていた。


 しばらくすると、ガラガラと教室の前のドアが開いた。時刻は八時二十分。一限が始まるにはまだ早い。だが、ほとんどの生徒はもうすでに登校してきている。誰だろうかと思って、なんとなくドアに視線を向けていると、そこから入ってきたのは、星見さんだった。彼女が遅刻もせずに、朝から登校してくるのは珍しいことだった。


『え、あの不良女今日登校してくるの速くない?』

『朝帰りなんじゃないの?』


 ひそひそと、クラスメイトのつぶやき声が耳に入る。さすがにそれは聞こえてるんじゃないだろうか。中には、そのくらいの声量を伴う声だってあった。表情には出さないが、さすがに不快な気分ではあった。


 そんな状況でも、彼女は以前と同じように、大きなあくびを一つした。周囲の人間のひそひそ声など、聞こえていないようだった。 


 ――私はきっと強くなりたかったんだろうなあ。


 ふと僕は、彼女の言葉を思い出す。本当は彼女もこういったつぶやきが聞こえているのではないだろうか。そのうえで他の人がどんなことを言おうとも、自分の道を歩こうとする、彼女は、そんな強さを追い求めているのではないだろうか。


 そこまで僕が思いを巡らせていると、宙ぶらりんだった僕の視線と、彼女の視線がぶつかった。彼女は僕と目が合うと、さっきまで張り詰めていた彼女自身の空気を緩めて、僕の席に寄って来た。


「おはよう。平谷君。元気だった?」

「おはよう。星見さん。元気だったよ」


 今までに起こりえなかったような変化に、周りのクラスメイトがざわつく。今日はいつもよりずっと多くの傷が刻まれることだろう。彼女に対して今浮かべている笑顔が微かにひきつる。彼女は、そんな僕の表情を覗き込み、意味深な笑みを浮かべて、僕の前に、あるCDを置いた。


「はいこれ。この前言ってたCD貸してあげるね」

「あ、ありがとう」

「別にいいよ。いつ返してくれてもいいからね。聞いたら感想教えてよ」


 そう言うと彼女は小さく手を振り、自分の席に戻っていった。クラスメイトの数名が、近くにいる彼らの友人に耳打ちする。『え、なにあれ』『平谷のやつ、あの不良と仲良かったんだ』言葉の内容は、大方こんなものだろう。腕に刻まれなくとも、彼らの心が発している言葉を、僕は十分に感じ取ることができた。人の感情を予測し、一つ一つ頭に思い浮かべる。そんな行為は、自分がいつも脊髄反射のようにやっていることだった。


 だが今回は、自分にとって一つだけ不思議なところがあった。彼らの反応を予測し、その心と向き合っても、不思議と気分が悪くなることがなかったのだ。いつも傷が浮かび上がるまで確定もしない他者の評価に向き合って、なんの改善方法も見つけられないことに、憂鬱な気分になるはずなのに。


 ふと僕は、席に座っている星見さんの方を見た。彼女は机に肘をつき、手に顔をのせて、呆然と雨を眺めていた。窓越しに見える真っ黒な雲が、さらさらと金色に輝く彼女の髪を、一層明るく際立たせていた。


 四限終了後のチャイムが鳴る。弁当を忘れ購買のパンを求める者たちは、一斉に教室を飛び出して廊下を駆ける。先生に見つかって怒られないといいけど。そんないらぬ心配を掲げながら、僕は自分の弁当を机に出した。


「なあ、和也。今日五限移動教室だったよな。そこで食べようぜ」


 唐突に海斗がそのような提案をしてくる。確かに五限は、地学講義室で行うと言っていた。別に断る理由がないので、僕は海斗の提案に応じる。


「別にいいよ。でも珍しいね。今日の午後の分の予習は大体終わってるの?」

「あーまあ、ちょっと残ってるけど、今日は他の場所で食べたい気分なんだ」

「そっかじゃあ行こう」


 机の上に出した弁当を再び包む。ロッカーにある次の授業の教科書を二人で取りに行き、講義室までの道のりを二人で並んで歩く。


 ――きっと何か話があるのだろうな。


 道中に二人でたわいもない話をしながら、僕はそう考えていた。海斗が教室を離れて二人になろうとするとき、それは決まって何か彼が僕に話したいことがある時だった。


 僕らが入った地学講義室には、僕たち以外に他の誰の姿も見当たらなかった。講義室には、天体の軌道が書かれた掲示物や、日本の場所が赤く縁取られた世界地図があった。よくよく考えれば、もし五限の時間が生物だったのなら、僕たちは人体模型が飾られている場所で昼食をとっていたのかもしれない。これを考えると、つくづく今日の五時間目が地学でよかったと思う。


 海斗と僕は、授業の際に座るであろう出席番号順に並べられた席に前後に座った。海斗は僕の机に弁当を向き、姿勢を横にして、弁当を開くと、言った。


「和也、星見さんと仲いいの?」


 海斗が言葉を言い終わるや否や、僕はすぐに彼がなぜその言葉を発したのかについて考えを巡らせた。あんな女と仲良くするのはやめとけよ、と友人として忠告されるのだろうか。あるいは、あの女のことが好きなの、と妙な勘繰りでもされるのだろうか。


「まあ、土曜に偶然会って話すようになっただけだよ。それが仲良くなったことになるのかは、ちょっと分からないや」

「へえ、そうなんだ」


 海斗は、そのように相槌を打った。無理に無関心を装っているかのような妙な相槌だった。しばらくお互いに無言で弁当をつつく。一品、そして一品と、おかずが自分の口に運ばれていく。ふと、海斗の手元を見ると、かれの弁当にまだハンバーグが残っていることに気づいた。僕は、込みあがってくる笑いをかみ殺しながら、海斗に尋ねる、


「海斗、今日は一体何を隠してるの?」

「え? なんでわかったんだよ」

「わかるよ。だって、好きな食べ物を先に食べるタイプの海斗が、まだ弁当のハンバーグ残してるんだよ。他のことに関心が向いてるとしか思えない」

「うわ、まじか。やっぱ和也は良く見てるなあ」


 目の前の親友は、自分の心の内を僕に看破されて決まりの悪そうな顔を浮かべる。海斗は、思っていることが人よりも表情や行動に出やすいタイプだった。そしてそんな海斗だからこそ、普通の人と違って、僕は彼と一緒にいても疲れることがなかった。なぜなら彼の思っていることは、どの道隠しきれはしないので、彼の気持ちが推し量れずに苦悩する必要がないからだ。


 彼は、箸を止めてこちらを見ると、観念したように口を開いた。


「分かった。言うよ。あのさ、俺、星見さんのこと好きみたいなんだよ」


 彼のその言葉が、自分が予測した反応のどれにも当てはまらなくて、僕は、思わず目を見開く。そうだったのか。それはさすがに分からなかった。


「え、そうなの? いつから?」

「いや、実際一目惚れだったんだよ。入学式で見た時からかわいいなと思ってて、そこから目で追っていくうちに、なんか結構好きになってた」

「そこから一か月ぐらい好きだったのに何もできてないの? かわいいやつ」

「うるせえなあ。しょうがないだろ。何考えているかよくわからないんだから」


 東根海斗は、女子側から見ても決して不良物件などではなかった。すらりと伸びた長身に、きりっとした目。細く小さく整った輪郭に、どこかの国のハーフとも思わせる、通常の日本人よりもはるかに高く整った鼻。さらには、それにサッカー部のエースという肩書までついている。


 彼はむしろ、誰もが住みたいと願う高層マンションの最上階の部屋のような人間だった。だが一つだけ、この物件には、見逃すことのできない欠点があったのだ。それは、恐ろしく彼が、恋愛において奥手であることだ。


 彼は今回のように、今までで何度も恋をしてきたことがあった。そしてそのどの恋も、彼が何もできなかったというその一点が原因で、かなうことなく過ぎ去っていった。小学校の頃の同級生のえみちゃんも、中学校のころ、彼のサッカー部のマネージャーだったはるかさんも、きっとこの男がしっかり行動していれば、決してかなわない恋ではなかった。


 きっと彼は星見さんに対しても、入学してから、チャンスを見つけては何度も彼女に話しかけようとしたのだろう。そしてヘタレの彼はきっと、その度に何か理由をつけてはあきらめて、何度も次の機会を探ったのだろう。付き合いの長い僕には、彼のそんな様子がありありと想像できた。


「で、どうするの、今回の恋は。うかうかしてたらまた、好きな人に彼氏できちゃうよ」

「えーそれはやだなあ。でも、今回は俺、結構本気なんだよ。だから、もしお前が星見さんと友達だったら、仲を取り持ってもらおうと思ったんだけどなあ」


 なるほど。だから僕は、今日急に海斗と二人きりで昼食をとることになったわけだ。確かに今までの海斗なら、うだうだと理由をつけて、誰かに仲を取り持ってもらうなどということはしなかっただろう。そう考えると、海斗の言う通り、彼は今回の恋においては本気で臨むつもりらしい。


 正直僕は、人の色恋沙汰に関わるのは面倒に思うタイプだった。下手に問題に関与して、他人に妙な因縁をつけられるのは、僕の価値観の中で最も苦手とすることであった。しかし、例え自分自身の性格がそうだとしても、この十数年間で最も仲の良い幼馴染が、今までの自分の殻を打ち破って行動しようとしているのだ。それに手を貸さないのは、間違いなく親友失格だろう。


「じゃあ分かったよ。今度タイミングがいい時に、彼女の連絡先聞いてみるから、そしたら一緒に遊びに行こう」


 すると海斗は、目を大きくくりくりと開いて、こちらをじっと見た。そして一トーン高くなった声で、言葉を放つ。


「本当か?」

「うん。だから今回は頑張ってね」

「お、おう」


 彼は、かすかな笑みを浮かべながら、そのように頷いた。机の下で、彼が小さくガッツポーズしているのが見える気がする。きっと彼は今、あふれ出る喜びをそのまま表に出すことが恥ずかしくて、感情を必死で内側に抑え込もうとしているのだろう。全く本当に分かりやすいやつだ。


 その時、僕の胸のあたりで、何かの文字が刻まれたような気がした。もちろん実際に刻まれたわけではきっとない。僕の傷はいつも腕だけにとどまっていたし、それに、このちくりとした痛みは紛れもなく胸の内側にある心が傷を負ったものだった。それがどういった感情かは、僕にはわからない。しかし、僕は、なぜか彼女に海斗を紹介することをわずかに内心で悔いたのだ。僕は、海斗と無言で昼食をつつきながら、ぼんやりとこの胸の痛みの意味について考えを巡らせていた。

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