第2話 そして君とのボーイミーツガール

「全然今日の英語の予習やってねえなー」


 時刻は12時。昼休みの時間。前の席の海斗が背もたれに深くもたれかかりながら、そう言った。成績が自分と同じくらいだった海斗は、高校も僕と同じところに行った。そして奇しくもクラスも同じだった海斗は、高校生になってもこうして良く僕に絡んでくる。


「大丈夫? 今日の英語五限でしょ? 僕の予習写してもいいよ」

「いやお前の力は借りない。意地でも自分の力だけで終わらせる」

「そう? ならいいけど」


 そして海斗は、うなり声を挙げながら自分の机に向かう。別に気にせず写せばいいのに、僕は内心でそうつぶやく。彼はいつも、なぜか人からの施しをあまり受けない人だった。


 新出単語の一つ一つを必死で日本語に解読している親友。そんな必死な彼の背中を眺めていると、僕の後ろから声がかかった。


「平谷くーん。今日掃除当番変わってくれない?」

「いいけど、何かあったの?」

「部活が忙しくってさ。ごめんね」

「そっか。バスケ部大変だもんね。頑張って」


 クラスでも身長が周りより頭一つ抜けている彼は、『ありがとね』と言って自分の席に戻っていった。海斗は、そんな僕を冷ややかな目で見つめる。


「お前。少しは断るってことをしたらどうなの?」

「そう? だって実際部活忙しそうだし別にいいんじゃない?」

「まあお前がそれでいいならいいけど」


 今回のように海斗はよく、僕に対して、もっと人の提案を断ればいいのにと勧めてくることがある。確かに、僕は人の頼み事を聞いている方であるとは思う。傍から見たらその行動は、僕が人の提案を断り切れず、無理して引き受けているように映るのかもしれない。


 しかし、僕が頼みごとをよく引き受けるのは決して断れないからという理由ではなかった。言うなれば面倒なのだ。誰かの頼みごとを断ることによって、低い評価を下されることが。掃除、ノート取り、プリントのコピー。そんなものは人の評価を気にすることに比べたら、大した手間ではない。


 海斗が予習をしているのを見て、なんとなく自分も不安になり、英語のノートを開く。おそらく自分が今日指されるであろう場所を、日付と席順から予想し、自分の和訳が間違っていないか確認する。あ、しまった。ここのtoの訳し方、多分間違えている。恥をかく前に、気づくことができてよかった。そう思いながら、筆箱からシャーペンを取り出そうとすると、閉じていた後ろの教室のドアが、急に開いた。


「うわ、不良女じゃん」


 僕の席の近くに座っている誰かが小さな声でそうつぶやく。後ろを注目していた何人かの生徒も、彼女の姿を見て、まるで軍隊のように一斉に前に向き直る。彼女は、そんなクラスメイトを歯牙にもかけず、大きなあくびを一つしながら自分の席に座った。


 彼女の名前は星見京子。このクラスで随一の問題児だ。肩のあたりで切り揃えられた短い髪は金色に染まり、その隙間からのぞく右耳のピアスが太陽を反射して輝いている。一昔前の学園ドラマに出ているのが想像できるくらい絵にかいたような不良。それが彼女だった。


 だが、実際彼女が学校で不良らしい行為を働いたことはない。仲間とつるんで弱者からお金を巻き上げることもなかったし、授業中大声で騒いで、教師の授業を妨げるようなこともなかった。


 彼女が行う悪事と言えば、時々大幅に遅刻しているのに、誰にも何も言うことなく堂々と教室に入ってくることぐらいだった。その後の彼女は、むしろ他のクラスメイトと比べておとなしい方で、誰ともつるむことはなく、独りでいつも静かに授業を受けていた。


 きっと悪い人ではないのだろう。それが彼女に対する僕の印象だった。クラスメイトの大半は、彼女に対してあまりいい印象を抱いていない。それにクラスの担任は、髪を一向に黒に染めない彼女を目の敵にしている。


 だが、それは彼女のことを、彼女を覆っている外側だけで勝手に判断しているからである。きっと実際に星見さんの内側まで目を凝らして、彼女の評価を定めようとした人なんていないのだ。


 しかし、だからこそ僕は彼女のことが不思議でたまらなかった。人に低い評価を下されてしまえば、自分に不利益が生じる。それなのになぜ彼女は、あのような誤解されやすい身だしなみで自分を着飾って学校に来るのだろうか。


 人の評価を気にしない、そんな彼女のことを僕は理解することができなかった。彼女の生き方はきっと今までの僕と真逆だった。


 鐘の音を模したチャイムが、スピーカーから流れだす。昼休みの終了を告げる合図に、生徒たちは、一斉に自分の席に座りだす。チャイムの音から少し遅れて入ってきた白髪の英語教師は、星見さんの方を一瞥しながらも、何も言わずに授業を始めた。

 

 六時限目終了のチャイムが鳴り、帰りのホームルームも終了する。部活がある生徒は、同じ部活の生徒とだべりながら、のんびり部活に向かう。部活のない生徒も、次々に自分の友人と放課後の約束を取り付け、教室からいなくなっていく。


「よし、やるか」


 青春溢れる若者たちの喧騒もようやく収まったころ、僕は、一人のんびりと掃除を始めた。


 人から掃除当番を任されるのは決して今日が初めてではなかった。今日頼んできたバスケ部の彼以外にも、バイトや親の手伝いなど様々な理由で、僕に掃除当番を託す人は、たくさんいた。だからこそ、僕は、このクラスの中で誰よりも、この教室の掃除を効率よく行える自信があった。


 掃き掃除でごみを集める。交代制の掃除当番により、毎週誰かは、ここの掃除を行っている。それにもかかわらず、教室には、週一で掃除がなされているとは思えないほどに埃が落ちている。僕は、それをしゃがみながら、丁寧に少しずつ塵取りに運び込む。


 すると、箒を持っていた右腕に誰かの爪でなぞられるようなかすかな痛みが伝ってくるのを感じた。どうやら、また腕になにやら文字が刻まれたようだ。


 さて、どうするか。僕は迷った。僕はいつもなるべく傷跡を学校の中では確認しないようにしている。もし、他の生徒にこの傷を見られて、妙な自傷癖があると思われるのは耐えられないからだ。とはいえ今は、他のクラスメイトの姿はない。


 そしてやはり、自分としてもどうせ買う予定の少年誌を立ち読みしてしまうように、結末がすぐわかるところにあるのに、それを見ることを後回しにするのは難しい。


 しばらく迷った後、僕は羽織っているブレザーを脱ぎ、袖を肘上までまくった。すぐ見て戻せば、誰かに見られることはないだろう。するとやはり、自分の二の腕あたりに、文字のような切り傷を見つけた。

 

『じぶんのいけんをいえ』『なにかんがえてるかわかんない』これは昨日国語のグループ討論で同じグループの人に思われていたことだ。昨日風呂場で見つけたもので、さっき刻まれた傷ではない。僕は、さらに肩ぎりぎりまで袖をまくり、そこに視点を走らせると、裏側にこんな言葉があるのに気付いた。「ほんとうにべんりなやつ」


 ――まあそう思われるよなあ。


 僕は、顔を引きつらせて自嘲の笑みを浮かべる。きっとこれはさっきのバスケ部の彼の言葉だ。もちろん彼も、掃除当番を僕に託したことにより、僕に対して感謝の感情を覚えていないことはないのだとは思う。


 この傷跡の性質上そういった言葉が刻まれないだけで、彼はそれ程タチが悪い人間ではないはずだ。ただそれでも、自分が人のために行った親切を、人のためを思って行動したという事実を、『べんり』という言葉で片付けられてしまうのは、やはり心にくるものがあった。


 しかし、僕は今まで生きてきた経験上良く分かっていた。もし便利と思われるのが嫌で掃除当番を断っていても、ここには『うつわのちいさいやつ』とか『そうじくらいいいだろ』とかそういった言葉が刻まれるだけなのだ。さらに相手からの自分の評価も下がる。


 それならば、まだ便利と思われる方が気分的には楽なはずだ。僕は、自分の心の痛みに、理論をぶつけ折り合いをつけながら、まくったシャツの袖を戻そうとした。しかし、その時僕はようやく、教室のドアにいる一人の人物の気配に気が付いたのだ。僕は、慌てて顔を挙げた。


 窓の風に吹かれて金色の髪がゆらりとなびく。髪の隙間から覗くピアスの銀色が、夕日を反射し、赤く鋭く輝く。ドアのところにいたのは、星見さんだった。


 星見さんは、僕の腕のあたりを見つめて、しばらく目を丸くしていた。僕は彼女に対して、必死でかける言葉を探した。「これは昔僕が大事故にあった時の傷で」「一年前、強盗に襲われたことがあって」どのような嘘をつけば、過度な同情も憐みも受けることなく、この傷の存在を受け入れてもらえるのだろうか。


 ところが彼女は、僕が彼女に対して何か言う前に、ほんの少しの笑みを浮かべてこう言った。


「いいねその傷。かっこいいじゃん。タトゥーみたいで」


 そして彼女は、僕の言葉を待つわけでもなく、すたすたと自分の机に向かった。そして中にあった筆箱らしきものをとると『じゃあ』と言って去っていった。


 きっとこの小さな事件からもし僕と彼女の出会いを何かの物語とするのなら、ボーイミーツガールというジャンルにでもなるのだろう。

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