カラスさんはそのあともギャーギャーなにか言っていたけど、私は構わず走りつづけた。


 坂をのぼっていくほど、カラスさんの声が遠のいて、夕日が近づいてくる。光に意識を向けているせいなのかな、自分の足音さえ遠くに聞こえて、それもだんだんと遠のいていく。

 まるで、ほかの誰かさんの足音みたいだ。それもプールのゆかで鳴るような。プールのなかで聞くような。それならいまの私は、水のなかに沈んでいくみたいなのかな?


 夕日はほんとうに沈みかけだってのに、ありえないくらいまぶしかった。昼間の太陽の明るさのまま、色だけをオレンジにしたみたいに。あたりはすべてオレンジ色。まぶしすぎて、道も町並みも光にとけて、もうただ私には、まぶしいことしかわからない。それくらいまぶしい。


 だけど、直接見ていても目はまったく痛くなかった。あべこべに、じんわりあったかくて気持ちいいくらい。それだけじゃなくて、体まであったかくなっていくような、かるくなっていくような、眠くなっていくような、すごくやさしい光だった。


 あんまりまぶしいせいで、坂の終わりはぜんぜん見えなかった。

 でもね、もうそろそろのはず、私にはそれがわかる、だって私は、このに生まれてから今日までのあいだに、なんどもなんどもこの坂をのぼってきたんだから。

 ママのお腹のなかにいるうちにも。パパともいっしょに。ママの押すベビーカーに乗って。そして、自分自身の足で。


 すぐに目が慣れて、夕日のまぶしさはおさまっていくんだと思っていた。けど、少しもそうならない。それどころか、かえって明るくなっていく。

 まるで日の出みたい。こんなに世界がオレンジなのに、おかしい。オレンジの日の出だ、おかしいー。オレンジの朝がくる、おっかしぃー。まぶしい。こんなにまぶしい夕日は初めて。


 あわいオレンジがどんどん頭のなかに入ってきて、折り重なってくなって、もう頭のなかはオレンジでいっぱい、オレンジ一色、もうオレンジだけ、オレンジ、オレンジ、もうオレンジのことしか考えられない。


 ぜんぜん止まらない、まだまだ明るくなっていく、こんなんじゃ、これから先、ずっと明るいままだ、オレンジが終わらない、まぶしいのが消えるのなんて、ずっとずっと未来のことだ。


 でもなぜか急に、光のむこうに抜けられそうな感覚。あと少し走れば光の先に行けるって、そう感じた。ううん、それがはっきりとわかる。


 そこはきっと、こことはちょっとだけ違う場所。


 あ、もしかしてそこは、ほんとうの『あべこべまち』なんじゃないかな。


 『あべこべまち』は、私の頭のなかだけのものじゃなかったんだよ。ただ、夕日のひかりのむこうにかくれていただけだったんだよ。そうだよ、だって、想像っていうにはリアルすぎるんだもん。

 私はずっと考えてた、『あべこべまち』のことを。そうだよ、ホントにあったって、少しもおかしくない。ぜんぜんおかしくない。


 ほんとうの『あべこべまち』はきっとさ、なにもかもが『あべこべ』なんだよ。ぜんぶぜんぶなにもかも。物とか人とか、気持ちとか思い出とか、事実とか後悔こうかいとか、すべてがあべこべで正反対のところ。


 そこへ行ったら、私はどんなふうになっちゃうんだろう。もちろん『あべこべ』な私。だけどさ、『あべこべ』な自分なんて想像つかないよ。わかんない、ぜんぜんわかんない、むこうでの私が、幸せなのか不幸なのか、それさえも。

 だけど、行かなきゃわかんないよね。そうだよ、だってわかんないんだもん、なにをどう感じるのかさえ。でもやっぱり、ほんの少しだけ怖いなって感じる。


 だけど、そこでなら、いままでの失敗を、すべてなかったことにできるかもしれない。もしそうなら、たとえ不幸せになっても、私は納得なっとくできるのかな、これでよかったんだって、こっちに来てよかったって、もとの世界から逃げてきてよかったって。


 むこうはきっと、くしものがなくならない世界、落とし物が落ちない世界、夕日が逃げない世界。


 ほんの一瞬、むこうの景色が見えた。いまの私には理解できない、ありえない景色だった。

 おかしな夢の景色。

 覚えておけないくらいめちゃくちゃな、思いだそうとしてもただ頭がムズムズするだけの、それで、いつのまにか消えちゃう景色。きっと、覚えていてはいけない景色なんだ。たぶん、たぶんね、たぶんそうだと思う。


 それくらいにむこうはおかしな世界ってことなんだ。

 でも大丈夫、すぐに慣れちゃうよ、あっちへ行けばね、世界のすべてがそうなんだからさ、すぐにあっちが現実になる。

 そしてきっと、こっちでのことは忘れちゃう、そんな気がする。まるで夢みたいに。ホントの世界と夢の世界がわっちゃうなんて、やっぱり『あべこべ』だ。


 みんなのことを忘れて、その事実さえ忘れちゃっても、やっぱりなんとなく、悲しいって気持ちは残る気がする。そうはいってもそっくりな世界だから、そこまで悲しくならないのかな。だってあっちには、『あべこべなみんな』がいるんだろうから。


 それに、あっちではあっちで悲しいことが起こるはずだもん。あっちで感じる悲しいがいそがしくて、ホントの世界のことなんて、きっと考えていられないよ、そんなひまなんてない。目の前の悲しいに比べたら、昔の悲しいなんて、それこそ夢みたいなものじゃん。きっといつか、あっちでの悲しいのほうが大事になる。


 だから、すぐに慣れちゃう。そうしたら、もう、理解できないとか、不思議とか、違和感いわかんとか、そんなのはなくなっちゃう。


 悲しいことなんて、ひとつもないんだ。あっちの世界に行ったってヘーキなんだ、私は大丈夫なんだ。


 自分のなかでそう納得なっとくした瞬間、高いところから飛び降りたような感覚。体が一瞬浮かびあがるような、お腹のなかに空気が入りこむような、首のうしろから自分自身が抜け出ちゃうような。


 私は感じた。あとほんの何歩か進めば、光のむこうにたどり着くって。


 そして、ホントにもうすぐでゴールってときに、後ろから、カラスさんの鳴く、「カー!!」って大声が聞こえた。


 思えばそれは、初めて聞く、あのカラスさんのカラスらしい声だった。


 ……そんで、それを聞いた瞬間、……光の向こうから、……あきらかにヤバそうな、……すっごくうるさい音が聞こえてきた……。

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