私は立ちあがった。

 あきらめるのはまだはやいんじゃないかって、そう思ったから。だって、クルミモチとかは、クルミをけっこう粉々こなごなにしてるし、あのクルミだって、食べられないこともないんじゃないか、ってね。これは前向きな気持ち。


 そして、それとは別に頭の片隅かたすみで、……くつでなんどもまれて、ちょっときたなそうだけど……、そもそもクルマのタイヤだってきたなそうだし……、……それに……カラスたちは、なまゴミ食べてもヘーキなくらいなんだし……ギリギリセーフだよね……、とか、そんなひどいことも考えていた。これはずるい気持ち。


 ずるいことはダメだけどさ、誰にも迷惑めいわくをかけない自分の心のなかだけの問題だったなら、もしそれで誰かがよろこんでくれるなら、べつに気にせずやっちゃえばいいよね。結果オーライだよね。その人にとってなにが幸せなのかは、その人に聞かなきゃわかんないんだし。とかいろいろ考えて、私は自分の心を納得なっとくさせた。


 そして私は決心した。粉々こなごなになったのをかき集めて、ダメもとでカラスさんのところへ持っていこうって。

 ……ただカラスさんをおこらせるだけかもしれないけど、あんがい気にせずによろこぶかもしれないし……、……とりあえず、やれるだけのことはやってみようと、そう思った。


 私はスーツの人に近づいていった。


 近づくうち、その格好かっこうがはっきりわかってくる。

 スーツを着てるから、もっと年をとっているかと思っていたけど、あんがい若い人っぽかった。たぶんママとおんなじくらいかも。

 でもやっぱり、スーツを着てる人だけあって、身だしなみはちゃんとしているみたいだった。

 かみをワックスでぴっちり固めて、ネクタイをしっかりめて、銀色の腕時計をして、革靴かわぐついてる。

 でも、ちょっとおかしなところがあった。


 スーツの人は、右肩から白色のふといタスキをかけていて、そこには、ピンク色のまるっこい文字で、『ベビーシッターバンザイ』とデカデカ書かれていた。

 それに、ネクタイのまんなかあたりに、女の子がしてそうな、ラメ入りピンクのかわいいヘアピンをつけていた。


 まあでも、そんなにおかしくもないのかな……?

 そういう会社の人なのかもだし。ヘアピンもけっこうかわいいし、センスがいいと思う。もし友だちがかみにしてたら、『かわいいねー、どこで買ったのー?』って聞くと思うもん。


 私は気をとりなおして、ベビーシッターの人にさらに近づいた。けど、急にまた『月末げつまつ月末げつまつ』って動きだしたら怖いから、ちょっとだけ距離を置いて、私は立ち止まった。

 ……人に話しかけるには、ちょっと失礼な距離かなって思うけど……、やっぱり怖いものは怖いから、私はそのままベビーシッターの人に声をかけた。


「……あのぅ。すいませーん」


 ベビーシッターの人は完全に無反応だった。ただ、ぼんやりした表情で、自分の足元に目を落としつづけていた。

 それならと私は、いつビックリしてもいいようにおそるおそる歩いていって、ベビーシッターの人のすぐ目の前に立ち、彼に向けて手を振ってみた。それでもまったく反応がない。それどころか、どんなに手を振っても、手のひらを目で追うことすらしなかった。


 これじゃらちかない、かってにクルミを持っていっちゃおうと、ベビーシッターの人の足元を探すけど見あたらない。

 彼の右足に注目すると、靴底くつぞこと地面のあいだから、クルミのから欠片かけらがはみ出ていた。ダメになったクルミに、ちょうど右足を乗せているらしい。どけてもらおうと思って、私は彼に声をかけた。


「あの……! すいません!」とけっこう声をはりながら、彼の顔のすぐ近くで手を振っても、効果はなかった。……もしかして立ったまま死んどんのか? なんて一瞬思うけど、さすがにそれはないよね。もしそうなら、どんだけ足腰強いんだって話だから。


 おでこにデコピンしてやろうかとも思ったけど、さすがにそれは怖くてできなかった。

「あの、じつはわたしのパパ、ケーサツの人なんですよ」と、ウソを言ってみてもムダだった。


「……そのなかでもめっちゃえらい人で、裁判さいばんとかも強いし、……探偵たんていもしてるし……。……うう……うぅ……ぅぅ……」


 この人、なんでこんなに私を無視むしするの……? ちょっと涙目になりかけるけど、……それよりもなんかだんだんとムカついてきて、それはおさまった。私は『ああ、もういいや!』と思って、足を無理矢理むりやり動かしてやることにした。


 私は気合きあいを入れるために、いったんベビーシッターの人をギロッとにらんでから、彼の足元にしゃがみこんだ。

 そんで私は、彼の右の足首を両手でつかんで、動かそうとした。……んだけど、いくら力を込めてもビクともしなかった。まるではしらを相手にしているみたい。


「……あの……すみません……。足をどけてくれませんか……すこしでいいので……。あの……! すみません……! あの! ちょっと……! …………うーん…………」


 ……ていうか……やっぱり無理矢理むりやりなんてダメか……。失礼すぎだよね……。なにやってんだ私……。

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