ダンスステップ

 ともあれ、その価値観が自分の唇よりも尊重されるべきものなのかとも律は思ったのだ。自分の唇に、俺はそんなに高い値段を付けんのかよ、とも思ったし、他の誰がどう在ろうと知ったことか、とも。

 状況を考えたら、まあ比較的冷静だったのではないか……、と律はこの夜のことを後から振り返って思うのである。

「……お前は、なに、ええと、LGBTQ+の、Gなの」

 くすりと笑って「Bですね」と訂正した。

「女の人とお付き合いさせてもらったこともありますよ」

「多分だけど、歳上だっただろう」

「三摩くん、意外と鋭いって言われませんか? ……うん、そうです。小学生の時には中学生の、中学生の時には高校生の彼女がいました」

 羨ましいことだ、……というか、小学生の時分から彼女がいたというのは進んでいる。

「じゃあ、高校の時には大学生か」

「はい。家庭教師の、……その人が男の人でした。僕のことおんぶしてくれたんですよ」

 小さい頃は誰でもおんぶしてくれた……、という主旨の話を、さっきへべれけ状態のときに矢束はしていた。歳上に好かれそうだと思ったのは、こいつがこの通り小さいし痩せているし、だから端的に言って「可愛い」という評価を男ながらに受けてきたことが、別に「鋭い」つもりもない律にも容易く想像出来たからだ。矢束自身、それを甘いものとして受け止めてきたのだろう。

 例の怪しげな「王子様」が、矢束にとって憧れの存在となることは自然な成り行きだった。こいつは男ながら「王子様」には成り難い自分を理解しているのだ。

「だから、久しぶりにね、誰かにおんぶしてもらえて、すっごく嬉しかったんですよね。もう二十歳だし、たぶんもう、僕はそんなに可愛くないし」

 はにかんだような微笑みは、当人が思うほど可愛くないわけでもないように思った。コンパクトに纏まった身体にこの顔が乗っかっていれば、まあ、律の感覚では成人男性に向ける言葉として相応しいものではないのだが、矢束蒼という人間を「可愛い」という言葉で評してやることはそれほど難しい話でもない。

 無論、性的な眼差しを彼に向けようという気持ちは全く起きないのだが。

「ごめんなさい、でも、ありがとうございます。殴られてもいいやって思ってしたんですけど。三摩くん優しいんですねぇ。誰かがそう言ったことなくっても、僕はそう思いました」

 矢束が身体の上から降りた。

 動揺を気取られるのは癪なので、本当は心臓が跳ね回っているのだけれど、強いて隠して平静を装う。

「女だったらなあ」

 ゆっくりと上体を起こして、ひくひくっと笑って見せる。

「女? 僕がってことですか?」

「いや、逆にさ、俺が女だったら、いまみたいの、急にされたら犯罪だろうし、手ぇ上げてもって思ったんだけど」

「男同士でも犯罪ですよ。僕にたまたま腕力がなくって、いまみたいな不意打ちしか出来ないだけのことで、……例えば力があったら、三摩くんにもっと嫌なことしてたでしょうし」

 嫌なこと、か。酒をもう一口貰った気分だと思っているよう装うのは、単なる強がりだ。

「せっかく友達が出来たと思ったのに」

 それは俺の科白じゃねーのか、と言い掛けて、ちょっと驚く。今日初めて会って、話をして、酒を呑んだだけの矢束を、もう友達だと思っていたらしい自分を、律は全く自覚していなかった。

「でも、我慢できなくなっちゃって。本当にごめんなさい。……よかったら、口直しに麦茶をどうぞ」

 暁星点描の後味が残っている。まだそれを洗い流したいという気持ちにはならなかった。

「逆に、お前が女だったらなあ、今のは、多分何の問題もなかったと思うんだけど。こう思うのは、差別的か?」

「……かも知れないですけど。そうですね、僕も女の子に生まれてきたらよかったんです。そうしたら今でもお願いすれば三摩くんにいつでもおんぶしてもらえましたねぇ」

 物憂げな沈黙が少し、白っぽい部屋を埋めた。

「お前は……、『王子様』探すのか、明日からも」

 矢束は髪を掻き上げて、少し唸る。

「そう……、うーん……、そうですね、やっぱり……、はい。お礼言いたいですし」

 そいつに、「おんぶしてください」って頼むのか。なぜそう問うてみたくなったのか、律にはいまひとつわからなかった。ただ確かに判るのは、酒瓶を部屋に持って帰ったとして、それか空になるまではきっと、矢束のことを思い出してしまうだろうということ。あいつは「王子様」を見つけられたかなぁと、もう何も関係ないことを考えて無駄な憂鬱を味わうことになるだろうということ。

 そして、「暁星点描」より美味い酒を呑むことはもうこの先だいぶ待ってもなかなかないだろう、これはとても確かな想像だった。

「……お前、身体、……トレーニング、するの」

 少し、矢束の顔がこちらに向いた。

「……僕、トレーニングのためのトレーニングが必要なぐらいの身体じゃないですかね。僕が夕方見たときに三摩くんは、なんかすごく無茶なことやってたみたいに見えました」

「ブルガリアンスクワットな」

「僕がやったら膝曲げた瞬間にバランス崩してひっくり返りそうだなって思いました」

 いくらなんでもそこまでは……、と思ったけれど、実際軽い身体だった。よく知られている通り、見た目は同じような体型であっても、筋肉量が多い方が数値上は重たくなるので、してみると矢束はかなり筋肉量に乏しい。

「……今夜は、もう酒入ってるから無理だけど、お前がやる気あんなら明日からやるか」

 それがどれほど矢束にとって意外なことだったのかは判るつもりだ。矢束は律に絶交されるどころか殴られることをも覚悟して先程の「暴挙」に出たのだろうから、まだこうして律が部屋にいて、一緒にいる明日の話をされることなんて想像の埒外にあったに違いない。

 男にキスをされたけど、別に嫌じゃなかった……、と思う自分がいることは、正直意外であるし、ちょっと認め難い気もする。

 しかしながら、不快な気持ちはいつまで経っても湧いて来ない。俺もまだ酔ってるんだろうか? 律は自分の中を覗き込んでみるけれど、そういう感覚もない。元々酒には強い方だ。

 ちょっと変わった友達が出来た。その友達は、酒に弱くて、おんぶして欲しいと駄々を捏ねる。油断するとキスをしてくる、そんな男である。しかし、話してみると自分とまるで違う価値観の持ち主で、目下のところ正体不明というかだいぶ不審者な「王子様」を探し求めている、……そんな男である。

「……僕、また迷惑掛けるかも知れないですよ」

「どんな」

「……言わすんですか、それを、僕に……」

「セックスの相手になれとかそういう?」

「……三摩くんは」

「デリカシーあんまない方だろうね」

「みたいですね。ええ、そうです。キスをして嫌われなかったから次は、そういう悦びを僕は、三摩くんに求めるようになるかも知れないですよ。そんな男が側にいて、三摩くんは大丈夫なんですか」

 友達、を英語にして、性、を頭につけてこちらも英語にする。

「そうだなぁ……、男とやるのかー……、それはあんま想像出来ないけどもなぁ……」

 独り暮らしの部屋のわりに広々としたベッドに目が行く。

「最近までそういう相手がいたのか」

 こっくり、矢束が頷く。

「発展場……、って三摩くん判ります?」 

 判るけれど、意外だった。そういうところに入って行けるほどの度胸があるようには、あまり見えないので。

「めちゃめちゃ緊張しました。けど、したかったので、家からもう、テンション上げて、……何日も我慢して」

「我慢ってのは、オナニーを?」

「……はい。それで、えいやって行って。でも、やっぱりあんまり合わなくて、長続きしませんでした。先週、もうこれっきりにしようって向こうから言われて。ベッド、その人のために広いのに買い換えたんですよ?」

 傷心の彼の前に、「王子様」が現れた。

「昔から、少女漫画……、っていう言い方もいまあんまり良くないのかな、『女性を主なターゲットとして想定された漫画』って言えばいいのか、好きで、読んでました。僕より少し歳上の、女のいとこがいて、そのいとこは三姉妹で、よく一緒に遊んでたので、あまり抵抗もなかったですし、女性の価値観……、とまでは言わないですけど、漫画の中で理想とされているものを、僕もわりと同じように理想的なものだと思って育ってきたふしがあります」

 キラキラの王子様(でなくても、男が人間である以上当然のように身に纏う垢や体臭から切り離されたもの)に対しての憧れが、ずっと矢束の中には根付いていたということだ。

「じゃあ、たぶんだけどお前はその……、高校のときの家庭教師とそういう関係になることに、あんま抵抗はなかった?」

 矢束は首肯した。

「『可愛い』って言われて、すごく嬉しかったことを覚えてます。女子に言われるのは、なんか恥ずかしくて嫌だったけど、その人に言われたときは……、さっき、甘いお酒を呑ませてもらったでしょう。あのとき、その感覚を思い出しました」

 ここまで言うつもりがあったのかどうかは判然としない。矢束は少し恥ずかしそうに笑った。律は「可愛い」と言われたことがない。無愛想な顔だという自覚もある。

「でも、『可愛い』っていうのは、さっきの駅にいた人みたいなことを言うんですよきっと。あの人すごく可愛かった。あんなに可愛くいられたらいいのになぁって思います。三摩くんもですけど、僕も目付き悪い方なので」

 余計なことを一つ言われたが、それはいい。さっきの、涙袋の端が紅い男。確かに整った顔で、パッと見た感じでは未成年に見えた。あれを「可愛い」という言葉で表現する感覚は、律にはなかった。しかしあいつも多分、歳上の女にモテるタイプだ。

「抵抗は、本当にぜんぜんありませんでした。その人は、優しくて、カッコ良くって、大人で。大好きだって思ってたので、ほんとに、ぜんぜん」

「俺は別に優しくもないしカッコ良くもないし、大人がどうもわからんが」

「矢束くんは優しいですよ」

 他の二つについてはノーコメントか。

 性格が悪いのではない、正直な男なのだろう。自分が思うところに対して、それを表現することに躊躇いがない。ゆえにこそ、さっきもリスクを承知の上でキスをしてきた。自分が律にとって危険な存在たりうることを隠して「友達」と面をしていることに、不誠実さを感じてしまうのだろう。

「……俺と、やりたいの?」

 ちょっと意表を衝かれた顔をした。

「僕は、男ですよ?」

「そうだな」

「三摩くんは、男と出来ます?」

 したことがないから判らん、としか答えようがない。少なくとも、何年も何年もその欲を自分の中に温めた末に初めて女を抱くときには、「判らん」なんてことはなかったわけだ。

「お前は、両方知ってるんだよな。どっちが気持ちいいとかあんのか」

 膝を抱えて、「すごいラディカルな訊き方しますよね」と、ちょっと非難が向いた。それでも正直な男は、正直なことを言う。

「僕は、……判りますかね、あの、される方、つまり……、女の人の役の方なんですけど、だからその、女の人とする時とは、全然違うので、単純な比較はできません。だから、全く別物なんです。でも……」

 恥ずかしそうに、深呼吸を一つ挟んだ。

「気持ちいい、っていうか、好きです。ぎゅーって抱き締められて、キスをされて、すごく、すごくすごく大事にされながら、その人と一つになるの、好きです。僕とした人は、……わりと、その、『気持ちよかった』って言ってくれるので、僕自身の身体もたぶん、そこまで悪いものではないんじゃないかと」

 そっちか、そうだよな、こいつは多分そうだろうなって思った。律は膝を抱えたままの矢束の横顔を改めて見る。

「俺もなぁ……、わりとキスすんのは好きだ。友達とキスしたのは初めてだったし、あと、そう、男とすんのも初めてだったけど」

「すみません」

 時代、というものに、ちょっとばかり律は思いを馳せた。

「十年とか二十年とか前だったら、俺もうちょっと怒ってたのかなあ。お前が言ってたみたいに、お前のこと殴ったりしてたのかなぁ。……人による気がすんだよな、俺暴力嫌いだし、でも、どうなんだろ」

 社会において、同性愛者に対しての頑ななまでの差別意識というものは、このところ少し薄れてきているのかもしれない。とはいえそれは旧弊な、しかし実のところせいぜいここ百年程度で一旦「禁忌」というレッテルを貼られた程度のものに過ぎないとも言える。声の大きな差別主義者の扇動はいまも止まないけれど、それに抗しうるだけの理知を人々は身に付けつつある。だから差別主義者の差別発言は、それが露わになるたび確実に炎上するだけの土壌が出来ている。

 その土の上に自分の足で立つ律は、だから、

「もう一回キスしてみろよ」

 と言うことが出来るのだ。

 矢束は丸裸の驚愕を隠さなかった。二〇二二年にもなお残る、化石めいた価値観の存在を、きっと矢束は律以上に実感しているのだろう。

「三摩くん、さっき僕は言いましたよ、三摩くんに迷惑掛けるかも知れないって」

「お前さ、言おう言おうと思ってたけど、もう敬語やめろよ」

「は?」

「とりあえず、もう『友達』なつもりだから。そりゃ歳は俺の方が一個上だけど、学年は同じなわけだし。そこで敬語使われると、なんか線引かれてるみたいで嫌っつーか」

「えー……、えぇ……? でも僕敬語じゃない人とキスしたこと一度もないんですけど……」

 これまで全部歳上だったからということなのだろうけれど、妙な括りである。抱えていた膝を解いて、そのまま膝で歩いてすぐ側まで来た矢束の口が、開いたり閉じたり。開いているときには、「えー、あー……」と、あまり意味があるとは思えない音が漏れている。

 キスをするのは律だって好きだ。一番簡単に幸せになる方法だと言ってもいいと思っている。だから「したい」と思うことはたくさんあった。自分が思われるのは、恐らくこれが初めてのことである。

 恭しさの行き届いた指先が頬に触れた。

 ごく、静かに、……もう酒の余韻もない、先ほどより高い温度の唇が重なる。こいつが特別に柔らかいのか、それともこれぐらいの年齢なら男女で唇の柔らかさに差なんてないのか、……女としかキスをして来なかった律には判らない。

「……三摩くん」

 矢束の頬の紅さは少年そのもののようだった。

「頑張って……、みる、タメ口、上手く、言えるように……」

 はにかんだように笑う顔は、ちっとも悪くない。

「周りに誰かいるときはするなよ。そういうのは趣味じゃねえから」

「……ん。僕も、恥ずかしいから」

 人前でべたべたひっついて「おんぶおんぶ」と駄々を捏ねていた男が言っていい台詞ではないように思う。

「ごめんね、僕、歯磨いてなかった」

「磨いて来い。そしたら、もう一回してやる」

 抱き付かれている。誰かさんをおんぶして来たのだから、汗臭くても仕方のない律の身体にしっかりと両手を回して、……はぁ、と矢束が溜め息を吐いた。その吐息は震えていたし、心臓が早鐘のように打っているのも伝わって来た。

「歯ブラシってさ、俺の分あったりする?」

 律の言葉が内包する意味を、矢束は正確に読み取って、小さく頷いた。こんど彼が見せた顔は、ほとんど泣きそうな表情を浮かべたもので、

「やばい……、やばいよう」

 声は理性の底から切り離されそうなところを、どうにか踏み止まっているかに聴こえる。なんだか俺のせいで気の毒なことになっていないか。

「おんぶはしてやったけど、抱っこもして欲しいのかお前」

 律の問いに、ぎゅっと抱き着いてから腕を緩めて、律が立ち上がってから「ああでもやっぱりして欲しい」なんてまた抱き着き直す。成人男性は甘えてはいけない、なんてルールはない。理想的な男性像というのが、ごく少数の人間によって捏ね上げられて、大多数に斯く在れと求め、そこから外れた者は落伍者であるので幾らでも糾弾し差別してよい……、と言われて成るのが男の生きる世界であり、「弱者男性」などという言葉を用い出してしまう者がいる背景ではないかと律は考えている。この考えの正しさはどうあれ、二十歳の男である矢束のことを文字通り「抱っこ」してそれほど苦もなく洗面所まで運んで行ける律は矢束を友人として肯定する。矢束のベッドにはなかったようだけど、ぬいぐるみを抱いて寝ていたって嗤うには当たるまい。男だって甘えたい。

「ああ……、ああ、もう……、もう、心臓が破裂しそうだよ、嬉しくって泣きそうだよ……」

 未使用の歯ブラシは洗面台のコップに立っていたものとは色違いで、ついこの間までこの部屋にしばしばやって来ていた男のためのストックだったのだろう。恋愛は性格の合う合わないのある話だから、上手くいかないことがあっても仕方なかろうけれど、これまで見た限りの矢束は甘えん坊でとても正直なばかり。これから問題点が幾つも見つかってしまうのかもしれないが、それはそれで仕方がない。狭い洗面所で並んで歯を磨いて、……かなりに丁寧に磨いたつもりなのに律が口を濯いでも、矢束はまだしつこく磨いていた。

「もういいよ。別に臭いのきついもん食ったわけでもねーし」

「んう」

「泡」

「んん!」

 慌てて矢束が口を抑え、泡を吐き出して濯ぐ。不慣れな時間に律も緊張していないわけではなかったが、矢束は震えている。

「しねーのか」

 ほとんど泣いているみたいな声で、

「する」

 と応じた矢束が、少しだけ背伸びをして、唇を重ねて来た。何のために歯を磨いたと思ってんだと舌を出す。律のシャツの背中が握られ、縋るように舌が絡んできた。礼儀程度に絡め返して、冷たい口の中へ舌を差し入れただけで、身体に震えを催す矢束は、とてもとても初々しい。

 お前の方が慣れてんじゃねーのかよ、二分近くのキスの間、時に声さえ漏らして震える矢束を観察しながら、律はずっと不思議な気持ちでいた。

「……嬉しい?」

 矢束の息は上がっていた。いつ零れたのか判然としない涙の跡が、その頬にあった。

「……嬉しい……、嬉しいっていうか、なんか、立ってらんなくなりそうだった……、三摩くんは、キス、上手いって言われない……?」

「さあ……。お前だって下手じゃねーよ、っつーか、上手い方だろ多分……、おい嗅ぐな嗅ぐな汗臭ぇだろ」

 胸が涼しく感じられるぐらいにすーんと嗅いで、

「このにおい好き」

 矢束は笑った。

「三摩くんに、おんぶしてもらってるときも、……いいにおいだなってずっと思ってた。でも、あんまり嗅いだら嫌だろうなって、だから……、少しだけ嗅いでた」

 控えめに言っても汗臭いはずなのに、矢束の目には嘘がなかった。この男はきっと臭いと思ったらきちんと言うだろう。

「だから、いましっかり嗅げて嬉しかった」

 そこまで、きちんと言うのだから、

「……お前は、なんだろ、えー、俺で勃つの?」

 頷かれても最早驚くには値しない。

「だから、……言ったでしょ。迷惑になるって」

「まあ、お前が勃つのはお前の自由だし、それで迷惑になるとは思わんけどな」

 まだ律には実感が湧かない、ということはつまり、これから先に待ち受けているものが何かあるとして、それを期待するべきか、それとも警戒するべきかもいまひとつ判っていないということだ。解っているのはただ、とりあえずこいつとこの後もうしばらく一緒にいたとして、ケツがいてえと嘆くことにはならないらしいということぐらいで、ある意味ではそれだけ解っていればあとはもう、全体的に「よう判らんけど嬉しそうだな」ぐらいの態度でいてもそう大きな問題は生じないはずだ。

「……もう、帰っちゃう?」

 シャツを握ったまま、矢束が問う。

「迷惑掛けるかも知れないって言ったの、お前の方だろ」

 問い返した律に、矢束は答えない。鏡に、強張った横顔を見る。

「俺が何とも思わなかったとしても、お前が凹むんだろ」

 なお、矢束は答えない。

 律にも、このまま帰って明日この男と会うときに自分がどういう顔でいるか、まるで想像出来なかった。

「……オナニーの後って、凹むよな。それが良ければ良いほど、凹むよな」

 女がどういう感覚なのかは、女になったことはないし、女にそれを訊けるはずもないので、律には判らない。けれど矢束が自分の吐き出した欲を拭くときに感じるであろう震えるほどの罪深さは、律には自分のものとして捉えることが出来た。

 もっと言えば。

 自分が今夜、独りの部屋で同じ感覚を味わうことになるだろうということは、ほとんどもう確信出来ているのだった。

「……俺に、何が出来る?」

 律がキスをした口を丸く開けて、矢束が見上げた。実際の身長差よりももう少し、矢束は小さく見えた。

「三摩くんが、……三摩くんが、何かをしてくれなくってもいい……。僕は、三摩くんに、……何かをしてあげられると思う。三摩くんがもしも……、もしも、それを望むなら、僕はそれに応えられるし、そのためのものは、全部、この部屋にある……」

 じゃあ、それでいいんじゃねーの。

 初めて、律からキスを試みた。もう少しぐらいの逡巡や抵抗があってもいいと思うのに、柔らかい唇が重なって離れるときの音は、これまで律が数を重ねて来たどんなキスとも変わらない。

「……じゃあ、俺を勃ててみりゃいいじゃん。そしたら、……判るだろ、お前だって男の身体してんだから、……勃ったら、どうしたくなるかぐらい」

 矢束の口は開いたままだった。頬に触ってみる。律の頬はマスク生活が始まった直後には随分荒れて、その余韻は今もなお残っているが、矢束の頬は白くてつるつるしている。洗面台の隅に、高級そうな洗顔フォームと化粧水と乳液が並んでいた。

「……いいの?」

 上目遣いなのだろうということは判った。確かめるために、前髪を持ち上げてみた。矢束は居心地悪そうに視線を逸らす。何となく、この男が目を隠したがる理由に辿り着いた気がした。

 矢束も大概、目付きに険がある。鼻から口、頬の線などは優しげでどこかしらあどけなさのようなものが漂うのだが、視線は切れ味鋭い。この男が欲しい言葉をもらおうと思ったなら、確かに隠しておいた方がいいかも知れない。

 そうだろうか?

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