第1章 朝陽 と あさがお

第 1話 憂鬱な前日

「よーし、今日の配信はここまでにしようかなー」


 ゲームのコントローラーを机に置き、大きく伸びをする。仰々しい声が正面のデスクトップパソコンに跳ね返り、誰もいない部屋にこだました。背骨の辺りからポキポキと奇妙な音が聞こえるのは、二時間以上もイスに座っていたせいだろう。


「そして、明日はついにこのチャンネル初のオフ会! 僕は有名ってわけじゃないから参加してくれる人がいるか不安だったけど、三人も来てくれるんだって。超嬉しい」


 千円もしない安物のマイクが、僕の声を拾おうと必死に背伸びをしている。そこに向かって発した言葉がうわずっているのが、自分でもわかった。なんだか今日は朝から落ち着かない。うずく身体を紛らわそうと太ももをさすっていたせいで、その部分だけがやけに熱かった。

 横長のモニターが、煌々と僕を照らしている。四角に切り取られた青白い光のなかに、リスナーによって打ち込まれたコメントがいくつも現れた。


【用事がなければ行けたんだけどなー】

【土産話よろしく】

【三人って全員男? まさか女の子がいるなんて言わないよな】


 普段の配信に比べて、今日はコメントの量が多かった。来場者数も百人ほど増え、四百近い数字になっている。おそらく僕と同じように、リスナーも高揚しているのだろう。オフ会という珍しいイベントに、みんな興味を引かれている。上へと流れていくコメントを読み上げると、僕は得意げに返答をマイクに乗せた。


「聞いて驚くなよ? 女の子二人来るわ」


 言葉が電波の向こうに届いた瞬間、コメントの流れが一気に加速した。コメントを送ったリスナーの数が増えたのだ。

 黒々とした活字が、噴火したように湧き上がっている。それらを囲む白い枠は、怒りや嫉妬で塗りつぶされていた。コメント欄からは音は聞こえないはずなのに、その光景はひどくやかましかった。


「まあまあ、落ち着けって。なんか勘違いしてる人いるみたいだけど、不純なオフ会じゃないからね。集まって少し遊ぶだけ。たとえ来てくれるのが男でも女の子でも、なにも変わらないから」


【ウソつけ!】


「ウソじゃないわ。あー、すでにめっちゃ緊張してきた。僕、オフ会って開くのも初めてだし、参加したこともないんだよね。だからここ一週間くらいずっとそわそわしてて、よく寝れてないんだけど」


 ディーテという名前でゲーム実況を始めてから約三年。リスナーからの提案を受け、僕はオフ会を開くことになった。

 初めは楽しみだけだった感情も、当日に近づくにつれていろんな感情が混ざっていった。そして、明日でこの複雑に絡み合った感情ともお別れになる。


「というわけだから、明日はせっかくの休日だけど日中は配信はなしで。でも、みんなもオフ会の土産話を早く聞きたいだろうから夜に配信するわ。時間はそうだなー、二十一時くらいにしようかな。今日と同じくらいの開始時間で」


【おう。楽しんでこいよ】

【振り返り楽しみにしとくわ】

【夜の配信、反省会にならないといいな】


「もし死にそうな声で配信してたらそのときは慰めてくれ」


【イヤだ】

【逆に笑ってやるよ】


「ほんとひどい奴らだな。まあ、めいっぱい楽しんでくるよ。今日も配信来てくれてありがとね。それじゃ、おつー」


 お疲れ様、略して「おつ」。配信界隈定番の挨拶で締めると、呼応するように【おつ】の二文字が画面に連なった。

 配信を閉じようと、手のひらをそっとマウスに添える。摩擦熱を帯びていたせいか、それはやけに冷たく感じた。

 初めはたどたどしかった配信の閉じ方も、いまやずいぶんと慣れたものになった。迷いなくカーソルを這わせていると、流れる【おつ】のなかにふと一つのコメントが目に入った。


【おまえ、明日の配信なかったら女リスナーを持ち帰ったとみなして、家特定して突撃しに行くからな!】


 なにも知らない人が見たら一一〇を押してしまいそうな物騒な文字列。でも僕にとってそれは、ごくごく自然ないつものノリのコメントだった。

 男子学生のたまり場みたいな僕の配信。いい意味でお互い遠慮がない。


 それにしてもすごい熱量だなと笑みがこぼれる。

 リスナーを家に連れてくる度胸なんて、僕にあるわけがないのに。そんな自虐を脳内でつぶやき、配信を閉じた。


 ネットとの繋がりが切れた途端、唇のすき間から細長い息が勢いよく放たれた。疲れがにじむ吐息が、夜の空気に混ざっていく。穴の開いた風船のように背中はしぼんでいき、顎が机にピタリと張り付いた。視界の端から端を、白いキーボードが埋め尽くしている。


 数百人に見られていたゲーム実況者のディーテも、誰にも見られていなければただの高校二年生、彩風あやかぜ朝陽あさひへと戻る。

 間抜けに開いた口から、だらしない声が漏れている。マイクが繋がっていないのをいいことに、止めることはしなかった。


 配信が終わるとこうしていつもぐったりしてしまう。地面にうなだれる四肢は、持ち主に手放されたマリオネットみたいだ。やはり多くのリスナーを前にして、無意識のうちに気を張っているのだろう。

 ただ、今日の疲れはいつものそれに比べて遥かに大きい気がした。


 重たい頭を起こし、ヘッドホンを外す。開放された鼓膜に触れた空気は、ずいぶんと静かなものだった。

 ヘッドホンが机に置かれる音。イスがきしむ音。喉を通る呼吸音。

 ひと気がないこの空間では、一つひとつの音がどれも鮮明に聞こえる。

 イスを回転させながら部屋を見渡すと、姿見からのぞく視線と目が合った。丸まっていた背筋をぐっと伸ばす。姿見のなかのくたびれた背中も真上に伸びた。


 配信中もずっとこの部屋には僕しかいなかったのに、数百人を前にしていた感覚が脳内にこびりついている。配信は楽しい。だけど終わったあとのこのギャップには、やっぱり寂しさを感じる。

 配信歴はもうずいぶんと長いのに、いまだに慣れない。リアルでも配信の話をできる相手がいたら、きっと楽しいだろうなとは思う。だけど、リスクを考えれば配信をやってるなんて誰にも言えるはずもなかった。

 彩風朝陽がディーテであることを知っている人間は、僕以外誰一人としていない。


 机に手を付き、重たい腰を上げる。少し横になろうとベッドに向かうと、その上は数時間前まで着ていた制服によって占拠されていた。投げ飛ばされたであろうズボンが、見るも無惨な形にねじれている。

 あれ? 学ランがない、と辺りを見渡すと、リビングに脱ぎっぱなしだったことを思い出した。


 洋服や教科書に空の箱。様々なものによってすでに散らかっていた床にズボンを投げると、その下に隠れていた本屋の袋が現れた。なかには、今日の学校帰りに買ってきた新刊の漫画が入っていた。配信が終わるまで楽しみにとっておいたものだ。


 綺麗になったベッドに横たわり、取り出した漫画を上にかかげた。電気に被さるようにすれば、眩しくない。

 本編に入る前に表紙や帯をじっくり見てから、ページをめくる。冒頭から始まった格好いいバトルシーンは、前巻から待ちに待った展開だった。敵と台頭する主人公の台詞がどれも熱い。

 しかし、読んでも読んでもまったく頭に入ってこなかった。両手に挟まれたすべての展開が、スルスルと脳の表面を上滑りしていく。まるで友達から「これ超面白いから見て!」と無理やり押し付けられた動画のようだ。


 つまらなかったわけじゃない。漫画の内容を理解できるほどのキャパシティーが、いまの僕には残っていなかったのだ。

 代わりに頭のなかを満たしていたのは、明日のオフ会についてのシミュレーションだった。つまり、妄想。待ち合わせ、昼食、カラオケにボウリング。まだ会ってもいないリスナーとのやり取りが、自分の意志に反して目まぐるしく展開されていく。

 それらが脳内にずっと居座ってるせいで、それ以外の思考ができそうもなかった。


 残念ながら面白くない動画と化してしまった漫画を枕元に置く。天井は直に見るには明るく、目の上に手を被せた。LEDのぼんやりとした白い光が、指のすき間からのぞき見える。それはどこか神々しく、夢と現実の境界線を曖昧にさせた。


 先程の配信で何回も挙がった「オフ会」というのは、オフラインで行われる会合のことだ。普段はオンラインで繋がっている人とオフラインで集まり、主に遊んだり飲み会などをして親交をさらに深めるらしい。


 オフライン。それはつまり直接顔を合わせて会うことを意味している。

 そしてその「オフ会」を、明日僕が開催することになっていた。改めて認識すると、自ずと身体の奥から苦いものが込み上げてくる。



「はあー、オフ会かー。行きたくねー」

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