第56話

 温室を出て、これから城下に向かうという星零を玄関まで見送るため、リチラトゥーラは彼とともに回廊を歩いていた。

 戻る道中、二人は絶え間なく会話を続けていた。とても楽しそうに話してはいるが、リチラトゥーラの気はどうやら星零には向いていないようだった。

 彼女は先ほどの突風について気になっているようで、星零が心配そうにリチラトゥーラを見つめていた。

 ふとリチラトゥーラが星零に振り向こうとした、その時——。



 音が、して。弾けて、消えた。



 静寂が痛みを運ぶ。何が怖いのか、無意識に肌が震えた。凍てついた風が雪夜国を舞い、風邪の吹き抜けた先、巨大な影が二人の世界を支配した。


 宵闇に光る一筋の月明かり。その中央にぼんやりと灯る紅の双眸に思わず息を飲む。

 星零はその場に立ち尽くし、リチラトゥーラはただこの時間が現実であることをしばらく受け入れられずにいた。


 何故なら紅の双眸を持つ影の正体を、彼女は知っていたから。


(…………ずるいわ。わたくし、を忘れようと、していたのに)


 月明かりが影を捉える。影の輪郭は次第に形を帯びていき、それは竜を現した。グルグルと喉を鳴らす竜がゆっくりとリチラトゥーラに顔を近づける。竜の正体を知っているから、リチラトゥーラはそのを受け入れた。



「……お願い……。連れて行って——



 リチラトゥーラが竜に何かを囁いた瞬間、竜が彼女に向かって“ふぅ”と小さく息を吹きかけた。途端、リチラトゥーラの体は突然なんの前触れもなく傾いた。


「リチラトゥーラさま‼」


 リチラトゥーラが地面に倒れる——ことはなく、竜のかいなに抱かれた。眠る彼女をジッと見つめている竜は、星零の存在に気づいていないのか、その場に落ち着いている。

 今が好機であると踏んだ星零は竜からリチラトゥーラを奪還しようと、隠し持っていたに触れた時、星零の手は何者かによって止められた。

 誰だ、と勢いよく振り返れば、そこにいたのは、スニェークノーチ国・国王そのひとであった。


「国王陛下……⁉ どうしてっ」

「……」


 国王は何も言わず、愛娘を攫わんとする悪王を見る。

 悪王たる紅の双眸を持つ竜は、チラリと横目に国王と対峙し咆哮をひとつだけ放つと、そのままリチラトゥーラを腕に抱きその場を飛び立った。

 その時、雪が舞った。

 雪というにはあまりにも温かく、まるで春の訪れを連想させる何かが彼らの前に舞い上がった。



 同時に、それは雪夜国の『春」が奪われた瞬間でもあった。

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