第38話

 うとうと、瞼が重かった。山道の揺れに慣れると、エンジン音が心地よく感じた。それは七竈も同じだったようで、彼は俺の肩に頭を乗せて、口を開けて寝ていた。


「昨日の夜、あまり眠れなかったみたいなの。少しでも寝かせてあげて」


 運転席から、美也子がそう言った。七竈を揺らそうとしていたトメの手が止まった。心地よさそうに眠る七竈は、こんな状況だというのに、どうにも緊張感が無かった。反して、助手席で魘される桃家は、眠っているのか覚醒しているのかわからない程、上の空な寝言を呟いていた。精神的に参っているというか、現実と虚構が曖昧になりつつあるのだろう。夢と現の境の上で、彼女はトメに対する恨み言を垂れ流していた。それらの単語を繋ぎ合わせ、時折トメが「仕方がないだろ」と、小さく鼻で笑っていた。


 そうして車内から死臭が失われる頃、僅かに覚えのある風景が車窓を彩った。

 青々とした木々の間にある、錆びたトタン屋根。金属と油の臭い。それらが染み付いて、草の一本も生えなくなった凸凹の地面。かつて煙を振り撒いて空を汚した煙突は、今や一本しかその役割を果たしていない。


「工場、一つしか稼働していないのね」


 訝しげにそう言ったのは、意外にも桃家だった。彼女は周囲に目を配りながら、錆びた鉄板に触れようとする七竈の手を叩いて落としていった。


「廃工場側が広いのは有難い。葦屋の方と決裂しても隠れていられる」

「見たところ、管理自体が杜撰みたいだし……心配しなくとも、適当に了承してくれそうだけどね」


 トメと美也子がそうやって声を合わせていると、遠くから足音が聞こえた。それはしっかりとこちらを認識しているらしかった。ペタペタとサンダルと皮膚の間で鳴る汗のぬめりけが耳障りに近づく。咄嗟に桃家が七竈を身に寄せた。

 トメの背中が小さくなったことで、自分の足が、動かなくなっていることに気づいた。その足音の発生源が誰であるか、俺は無意識に理解していたのだ。


「見ない顔だな。ここで何をしているんだ?」


 低く響く重音。逃げ出してしまいたいのに、何人たりとも逃げることを許さない眼光。恵まれた体格を持て余したその男は、ジッとトメを見下ろしていた。


「ここは私有地なんだよ、学生さん。遊び場じゃあないんだ。別荘地で合宿ってんならね、知らないところにまで入ってきちゃ駄目だろ?」


 一方的に論を仕立てる男を、トメと美也子は黙って見上げていた。足がすくんでいる桃家の視線は、ずっと男が持っている錆びた鉈に向いていた。


「ここが工場の敷地だということくらい、わかっている。その上で僕達はここに『逃げ』て来たんだ」


 男に恐怖の一つも見せないで前に出たのは、七竈だった。彼は軽やかに男の前に出て見せた。ヒラヒラと透けるワンピースの裾に、男の目線が途切れる。その一瞬の緩みを見て、俺はトメの後ろに隠れた。


「兄ちゃん姉ちゃんを巻き込んで、お遊びとは感心しないな。

「遊びに来たわけじゃない。言っただろう。逃げて来たと」

「お勉強からか? 夏休みのお戯れにしちゃ、大掛かりだな?」


 ハッと鼻で笑う男に、七竈は大きく溜息を吐いた。心底面倒そうに、彼は腕を組んで、再び口を開いた。


「はぐらかすな。不愉快だ」

「餓鬼が一丁前に胸を張って何言ってるんだ?」

「とっとと出て行けと言うなら、何故その鉈を僕に振りかざさない」

「お望み通りにしてやろうか?」


 ケタケタとヤニ塗れの歯を見せながら、男は鉈を大きく振り上げる。桃家が前に出ようとしたのを、瞬間的にトメが止めた。

 七竈の脳天を、鉈がかち割る――――その手前で、男の動きが止まった。


「お前は僕が誰かわかっている」


 鉈の腹を手で退けて、七竈は静かにそう言った。


「この姿の僕を見て、男だとわかるのは、最初から僕の存在を知っている人間だけだ」


 ワンピースの裾で手遊びする七竈は、ひらりと身を翻した。それを目で追う男は、鉈を地面に投げると、共に表情を落とした。睨むこともなければ、笑うこともない彼は、眼球だけを七竈に向けていた。


「こいつらは澤桔梗という男に従っていた学生だ。それくらいはわかっているな。


 澤桔梗。その名前を反芻した男――父は、眉間に皺を寄せて、頭を掻き毟る。息が詰まった。苛立っている父の姿は、俺の胃袋を刺激した。酸っぱいものが込み上がって、口を手で塞いだ。


「……面倒事はごめんなんだよ。あんただって自分の価値をわかっていてここに逃げ込んだんだろ、坊ちゃん」

「澤桔梗は今日中に僕を探しに行動を起こすだろう。そしてこの工場にもやって来る。どこでも良い。これだけ広ければ身を隠すのにはぴったりだ。匿って欲しい」

「だから、面倒は嫌なんだって。神を作るだのなんだのに、葦屋うちは手を引いたんだ。あの綺麗な七竈邸おうちに帰って、飯食ってクソして、眠れば良い。パパが守ってくれるだろ?」


 父の知らない一側面を見た気がした。同時に、何かが崩れるような音が頭の中で響いた。父がこんなにも理性的な人間だとは考えついていなかった。目の前にいる子供の一人が自分の息子だと気づかない程に見る目が無いというのに、こうも面倒を回避するのにだけは口が回るというのか。そんな父と言葉を交わす七竈の精神が、羨ましかった。


「おそらく父さんは明日まで帰って来ない」

「肝心な時に使えねえ男だな、アイツ」

「それでも急いでこちらには向かっている。最短で明日だが、いつになるかはわからない」

「そうかい。頑張って逃げろよ。街にでも出れば警察が保護してくれるんじゃねえの」


 面倒臭そうに言う父を睨んで、七竈は口を結んだ。数秒の沈黙の後、彼の目線が俺へと移る。そして、七竈は俺の腕を掴んで、父の前に引っ張り出した。その様子を、父は不思議そうに眺めていた。


「僕達が警察に行って訴えられるのは、澤桔梗のことだけではない」


 そう言って、七竈は俺の眼鏡を外した。袖で隠れていた腕と、上半身の傷を空気に晒す。それらを見て、父の表情が一瞬動いたのがわかった。反射的に、背中を仰反る。一秒もしないうちに、父は俺の頭を掴もうと手を前に出していた。ギリギリで避けた自分の体は、それ以上動かず、トメによって背後に投げ捨てられた。


「髪を切ると見違えるよな。わかるよ、眼鏡をかけた姿を見た時は、僕も一瞬誰かわからなかった」


 俺が土の上で身悶えているうちに、七竈はそう言って、俺の眼鏡で手遊びに興じていた。ぼんやりとした視界の中で、父の表情はわからなかったが、どうも、先程とは比べ物にならない殺気を放っていることだけは理解出来た。


「街の警察は、村の派出所の警察よりもずっと優秀だろうな」


 なあ、そうだろう。上目遣いで嘲笑する七竈は、父の腕が届かないギリギリで舞っていた。

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