第33話

「そのうち泣き止むから。ここまで来たらもう、戻っても仕方が無いって、桃家もわかってるだろうし」


 トメはそう言って、俺を彼女から引き剥がした。彼の片腕の中では、腐敗を再開させた死体が甘い異臭を放っていた。それを七竈の前に落とす。そのまま黙り込むトメと七竈の隙間は、嫌に近く見えた。蝉の声と車のエンジン音がうるさかった。


「捨てるんだろ。早く行ってこい」

「重い。お前が持て」

「俺が彼女を義理は無いから」


 冷たく言い放つトメに、七竈はムッと唇を結んだ。そうやって、彼は茂みの中へと、自らの母の左腕を持って進んだ。七竈がずりずりと重そうに引き摺るものだったから、俺は反射的にその冷たい肉の端を掴んだ。右腕を引く。軽くなったからなのか、七竈は少しだけ眉間の皺を和らげていた。俺達の背後では、美也子が桃家を宥めていて、トメはジッとこちらを見ていた。俺が振り返っていることを理解した上で、彼は深く頭を下げた。それは俺に対する礼儀ではなかった。後で理解したことではあるが、あの下げた頭は、七竈の母親に対するものだったらしい。ただ、当時はそれがわからなかったので、俺は彼に小さく会釈を返した。

 雑草に阻まれた視界は、昨日よりは開けて見えた。眼鏡を通した分、輪郭は明瞭であったし、目を細める必要も無かったからだった。それ故、マンホールの穴は昨日のそれとは大して変わらない筈だというのに、より一層の深さを増して見えた。

 虚空の穴の前、死体を包む布を取り払う。七竈の母親は、相変わらず美しかった。ただ、その皮膚は腐敗の色を纏い、灰色に侵されていた。七竈がその皮膚に手の甲を滑らせる。


「このまま首を落として書斎にでも飾っておけば、父さんに怒られないで済むかな」


 年相応の子供らしい口振りで、彼はそう溢した。それに対してどんな反応を向けるのが正解か、俺にはわからなかった。そうやって俺が黙っていると、七竈は再び母親の腕を引いた。その先には、暗い穴があった。


 ずるずるずる。死体で草木を薙ぐ。そうして、頭と肩を、暗い暗い、穴に落とした。


 重力で滑って行く肉の塊は、地面に頭皮を引っ張られたせいか、ミチミチと音を立てて縫合を解き、再びその脳を撒き散らした。否、それは脳ではなく、恐らくは替わりに詰め込まれた綿花だった。それらが穴の中で舞うと同時に、穴の中からじっと見つめられているような感覚を覚える。頭から落ちた女の肉塊は、何をどうしたのか、体育座りのような体勢で、穴の底で固まった。力の入っていない四肢や肩を黒く濁った腐敗液に漬ける。衝撃か何かで開いた瞼は、光を宿していなかった。血溜まりの中で歌うように大口を開けていた彼女の姿を思い出す。生前どんな人であったのかは知れないが、あまり良い母親ではなかったことだけはわかる。その美貌が、男を誘惑していたという事実は、死してなお、腐敗してもなお美しいと思えるという現状に裏付けされていた。

 ふと、その暗い瞳が俺を見たような気がして、汗が背を伝った。夏の熱に焼かれて炙り出されるような汗ではない。冷たく不快な脂汗が、額と頭皮から噴き出しては、体を濡らした。それらを追いかける形で、胃液が喉奥を擽る。虫刺されのような痒みから始まって、酸味を含んだ呼気が気管を満たした。

 手で抑えつけていた吐き気が、口いっぱいに広がった。それから一秒もしないうちに、胃酸と朝食をマンホールの中にぶちまけた。美しい女の顔に、その空虚な黒い瞳に、俺の吐瀉物が降りかかる。


 ――――気持ち、良いね。


 誰かがそう言った気がした。一瞬の甘美に脳を焼かれて、俺はその場で蹲った。穀物と胃酸の発酵臭が、マンホールの中で腐肉と混ざる。夏の熱がそれらを溶かして、辺りに散っていく。


「おい」


 真夏の熱気に乾いた唾液を垂れ流していると、鈴を鳴らしたような清廉とした声が、耳に届いた。恐る恐る顔を上げる。ゴミでも見るような目でこちらを見ている七竈を想像した。


「行くぞ」


 そう言って、七竈は俺に手を差し伸べていた。その顔は不快感を示してはいるが、俺に向けたものでは無いということは、その目線で理解できた。

 細く柔らかい彼の手を取る。ふらつく足元に注意しながら、何とか立ち上がった。白いワンピースの裾が、俺の足に触れた。


「やっていることは、一般的な葬儀と変わりない」


 草木をゆっくりと掻き分けながら、七竈は俺の顔も見ずにそう言った。


「現代日本では火葬が一般的だが、かつては土葬が普通だった。海外には鳥葬や風葬という文化があって、死体を外に野晒しにするらしい」

「……この辺りの村も、少し前までは土葬だったんだよ。火葬場が無かったから」

「なら話は早い。死体をマンホールに投げ捨てるのも、土葬を執り行うのも、その行動に然程違いは無かっただろ?」


 振り返った七竈の表情は、幾分か晴れ晴れとしたものだった。明るい少女のように、僅かに口角を上げる。薄い桃色の唇が可愛らしく跳ねていた。


吐瀉物ゲロだって、腐敗具合が違うだけで、その辺の土と内容分は変わらない」


 気にすることはない――とは言わずに、彼は再び廃屋に向かって顔を背けた。ただ、その言動が、何処か俺を心配してのそれだったのは、理解が出来た。多分、元気付けるだとか、そういった高尚なものではないが、彼なりに気を使ってくれたのだろう。


「とりあえず、次だ、次」


 駆け足になる七竈を、俺は追った。視界が開けた先では美也子が待ち構えていた。


「お別れは終わった?」


 メソメソと未だ泣き止まない桃家を尻目に、美也子はそう言って七竈の髪を手で漉いた。


「幽冥のゲロを供えてきた」


 悪びれもなく言い放たれた事実は、美也子の目を丸くさせる。その視線がこちらに向いた時、俺は咄嗟に顔を背けた。


「あら、大丈夫? もう気持ち悪くない? お水を飲ませてあげられれば良いのだけれど」


 そう優しく言う彼女の言葉に引き寄せられて、俺はゆっくりと顔を正面に戻した。にっこりと微笑む彼女は、今までに出会った女性の誰よりも、母性を溢れさせていた。


「トメは」


 そんな母性すらもなかった事のように、七竈は美也子の手から離れ、廃屋を指差した。


「中に居るんだろ」


 僕達も入るぞ。そう言って、七竈は裸足のまま軽やかに駆けて行った。割れた硝子が土に紛れていた。だが、それらを全て避けて、彼は傷一つ付けないまま廃屋の中へと入っていった。そのぴょんぴょんと跳ねる姿は、酷く子供らしく、幼い妖精のように見えた。

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