第29話

…あ、そうでしたね。「いらち」の話でしたね。失礼しました。楽しくてつい…。

あのですね、これは伍代さんならご存じかも知れませんが、米朝師匠、その筋では有名な「いらち」だったんだそうです。…ねえ。あんなに品の良い高座なのに、意外ですよね。

息子さんの米團治師匠が、エッセイで書いていらっしゃるんですけれど、ホール落語なんかで、武庫之荘からちょっと遠出をする時なんか、少しでも道中の段取りが悪いと、すぐ米朝師匠の「いらち」が顔を出すんですって…。あ、そのエッセイですか?私、米團治師匠の、東京での襲名披露の時、そちらの物販コーナーで、その時持っていた自分のお小遣いと、祖母からもらったお弁当代やらを足した手持ちのお金、帰りの交通費と、最低限のご飯代だけ残して、ほぼ有り金叩いて買ったんです。…ええ、もう、それこそ、若かったから出来たんでしょうね。あ、その時は中等部の、確か二年生でした。十一月の初め、日にちまでは覚えていませんが、その日が月曜日だったのを覚えています。

ええ、一人で行ったんです。米朝師匠も、高座には上がらないけれど、出演されるって聞いて。生の米朝師匠、拝見するなら今しかないって思いました。

祖母はね、お教室、そんなことでお休みするわけにはいかないから、って。本当に律儀な人だったんです。お芝居や寄席は、必ずお教室がお休みの日って決めてました。そうしないと必ずずるずるべったりになるから、って。でも「普段はそうそう物ねだりをしないあんたが、どうしても行きたいって言うのを止めるわけには行かない。それに、確かに、こんな機会は滅多にあるこっちゃない。切符は必ず取ってあげるから、一人で行って来なさい。もう幼稚園児じゃない、仮にも本断ちの着物を着るお嬢さんなんだから」って。

当日はね、一旦家に帰って、着替えてから行こう、って思っていたんですけれど、祖母がね、「学校から真っ直ぐ行きなさい。一旦家に帰っていたら間に合わないかも知れない。出先は何があるか分からないからね」って。私、お祖母ちゃん、それじゃ「学問のすゝめ」じゃなくて「不良のすゝめ」だよ、って言って、二人で笑ったんですけれど。

なので当日は、祖母にチケットと、お弁当代と交通費、それに何かあった時のために少し余分に、って、封筒に入れた二千円をもらって登校しました。お話ししたように月曜日でしたから、抜き打ちの荷物検査があったら困るって思って、以前に友達から聞いた手口でしたけれど、チケットと封筒のお金は、生理用品を入れるポーチに入れて、その上に、当時普段学校で持ち歩いてた、お財布だの携帯電話だの、手鏡やらリップクリームやらの小物だのを入れる、巾着袋の中に隠しました。うちの学校では、体育の授業なんかの時以外は、貴重品の管理は自己責任、ってことになっていましたから…。それから、午前の中休みに一人で教室を出て、お手洗いで中等部の校章外して、購買で高等部の校章買って、購買から出てまたお手洗いに入って、中学の校章を付け直して…。ええ、偽装工作の一環、です。私、当時、老けて見える…って言うのか、年より上に見られるのはしょっちゅうでしたから。それに、購買の小母さんだって、中高合わせた全校生徒の顔なんかいちいち覚えていなかったでしょう。

…ええ、私、お話したかも知れませんけれど、中学に上がる頃にはもう今の背丈がありましたし、私服で祖母と歩いている時は、近所の祖母の知り合いの方に、高校生か、時には大学生に見られるのなんて日常茶飯事でした。

え、…いいえ、大学生くらいで、やっと人から年相応に見られるようになって、院に通っている頃には、まだ大学の方に籍があるんじゃないのか、って訊かれたこともあります。…あの、何でそんなことを?

あ、そうなんですね?そういうの、「大人びて見える」って言うんですね?そうなんだ…。まあ、とにかくそう言う訳で、子供の浅知恵でしたけれど、校章は、どうせ高等部に上がれば買うことになるんだし、それが少し早まっただけだからって、自分を納得させることにしました。

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