第20話

だからと言って、決して無理を強要されることはありませんでした。その…月毎のお客様に当たったりした場合は、学校の制服だったり、大学生の時は、それなりのワンピースを着て行ったこともあります。

そう言えば、私が初めて本裁ちの着物で、祖母のお芝居見物にお供した時のことなんですけれど、…いいですか、お話しても?…あれは中学に上がったばかりのことでしたし、確か出し物は『中村会』でしたから、四月のことだったと覚えています。

お太鼓結び、…ええとすみません、お分かりになりますか?…ええ、そうです。あの、背中に背負う帯結びです。あれを初めて締めてもらって、しばらく経つうちに、何だか苦しくて仕方なくなってしまったんです。

幸い家を出る前で、まだ時間には余裕があったので、その事を祖母に訴えると、祖母は私を、衣装箪笥と大きな姿見のある自分の部屋に連れて行って、手早く私の帯を解いて、箪笥の引き出しから、何本が正絹の、博多だとか西陣だとかの、織りの半幅帯、…お太鼓を結ぶ帯の、幅が、先程の背中に背負うお太鼓の部分の、その半分の幅で、だいたい十五センチくらい、長さが四メートル前後くらいの、…よく、浴衣一式セットに付いてくる、作り帯じゃない帯がありますよね?あれと同じ形のものです。もっとも、祖母が出してきたのは、浴衣に用いる単衣帯とは違う、いわゆる小袋帯、…ちゃんと袋になっている、…って、分かりにくいですよね…?…二重になってる、って言うか、…言うなれば、ちゃんと裏がついている、ってことです。それに加えて、浴衣用の帯よりもっと地と織りの質の良い、しっかりした作りのものでしたけれど…。

それを三本くらい、箪笥から選んで取り出してきて、てきぱきとした様子で、ひとつひとつ着物や私の顔との映り具合を確認して、そのうちの一本を選んで、きつくなりすぎないよう注意しながら、私に締めてくれました。

ご存じかも知れませんが、帯枕…お太鼓結びをふっくら形作るための小物です。帯枕は、お太鼓の中に入れて、体の前で紐で結ぶんですけれど、半幅帯は、その帯枕を使わない結び方がいくらもできるんです。つまり、胴体を締め付ける紐が一本いらなくなるので、着ている方はその分楽な訳です。

その上で祖母は、帯揚げ…本来は、さっき申し上げた帯枕を包むための細長い布ですね。それと帯締め…こちらは、帯を締めた上から結んで、帯がほどけないようにする紐です。大抵組紐なんですけれど…。

とにかく、その二つを私の帯回りに結んで、前から見れば、お太鼓を結んでいるように私に装わせて、更に箪笥から、…祖母が昔に着た物か、それとも母に着せるために作った物かは分かりませんけれど、縹色の地に、友禅染の胡蝶が群れ飛んでいる図柄の羽織を出してきて、その上から重ねるように言いました。

…お分かりになりますか?早い話、どの方向から見ても、一見したところでは、きちんとお太鼓を結んでいるように見えるんです。

羽織は洋服のカーディガンみたいな扱いで、基本的にどこで着ていても構わないものなので、隣や周囲の席の方の目も誤魔化せますし、それに、祖母が言うには、「羽織を派手にすれば、誰も帯にまで目が行かないから」って。その時の祖母は何だか、今にもこっそり舌を出しそうな、いたずらっ子みたいな表情でしたけれど…。

それ以来、祖母のお供の時は、半幅帯が定番になりました。帯結びも「矢の字」やら、「貝の口」やら、「歌留多結び」やら、…要するに、どれもボリュームの出ない、平べったい形になる結び方です。また、そういう結び方だと、背もたれのある椅子に座った時に、背中が帯結びで圧迫されないので、非常に楽なんです。

流石に、歌舞伎座やら演舞場やらにたむろする、「着物に目敏い」小母様方には、全く見咎められなかった、なんてことはなかったと思いますけれど、何しろ私の隣には、「こうと」な身なりの祖母がついていましたから、影でどうこう言われる分はともかく、直接面と向かって「変だ、可怪しい」なんて言われることはありませんでした。

…ええ、祖母も、「他人が腹の中で考えてることにまで気を磨り減らしてたら、その暇に肝心の自分の人生が終わっちまう」って。…うふふ、本当に似た者同士の祖母と孫、…って言うよりは、多分に私が祖母に影響されてるんでしょうね。

「他人を変えるのは至難の業だ。だから、それに掛ける労力を、自分を良くする方に使った方が良い。それが結果的に他人を変えることもある」って、…ええ、これも祖母が。その伝で言えば、その、祖母の持つ、他人を日の光の差す方へと向くように変える力の影響を、一番身近にいた私は、ずっと受け続けていたってことなんでしょうね。…私は結局、祖母のような「女傑」にはなれていないし、それにこれからもなれそうにないけれど、でも、「女傑」の精神や考え方に、日々間近に触れられたのは、自分にとって、すごく勉強になることだったって思っています。

……ええ…?…女傑は一日にして成らず、ですか?

…うふふふ、そうですね。これから私が歩む先が、いつか「女傑の道」に繋がってたら…。今の私にはそんなこと、全然、それこそ想像も出来ませんけれど…。

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