情熱

 あれは冬の夕方だった。どんよりと曇っていた。何ひとつ面白みのない一日が終わって、帰りのバスに乗るために地下鉄駅前のバスプールへ向かった。駅には小さめのショッピングモールが繋がっており、その日はなんだかその入口のあたりが騒がしかった。イベントなのか事件なのか、いずれにしろ関わりたくないと思いながら足早にそこを横切ろうとした。

 エレキギターとベースの力強い音が身体の中心へ飛び込んできた。自分では声を出していないのに、飛び込んできたその音が私の喉の奥を震わせていた。


 叩き起こされたような気分だった。私は一瞬前までの疲れを忘れてふらふらと店内に入った。


 吹き抜けになった催事用広場にステージが作られ、そこで男が歌っていた。首から下げたエレキギターは巨大なネックレスのようにただ揺れており、彼はマイクを両手で掴んで歌に熱中していた。目元がギリギリ隠れそうな、ふわっとした金髪を振り乱し、頬に汗が流れていた。真冬らしくない薄手のグレーのシャツに、ぼろぼろに擦り切れたデザインのブラックジーンズ。縦に裂けたような生地の向こうに、細く角ばった膝が見えた。

 伴奏は事前に録音されたもののようで、ドラムとベースは一応という感じで同じステージに上がっていたが、ほとんど目立たなかった。少なくとも私の視界には入っていなかった。


 地方都市のしょぼいモールということもあって、観客は微妙な人数で熱量も低かった。最前列がまだ空いているのに、あえて後ろの方の観覧用ベンチに座る中高年が多かった。私は他の客の視界を妨げていないか確認しながら、ちょっとずつ立ち位置を移動して、最前列の右端に出た。


 遮るもののなくなった私と彼の間に、見えない線が繋がったように感じた。

 私が最前列に出た瞬間、男は一瞬だけ私に目を合わせ、確かに力強く頷いた。


 サビが始まった。


『僕達は 誰も知らない 夜明けの道へ向かう』


 急に涙が溢れそうになった。私はそのことに驚き、狼狽えた。その歌詞のせいだったのか、力強い曲調のせいか。あるいは、華やかな舞台の上にいる彼が思いがけずこちらに目を向けてくれた衝撃のためだったのか。


 ファンになろう。

 ステージ前の立看板に書かれたバンド名とイベント名を目に焼き付けながら、私は心に誓った。

 今日この日から、彼のファンになろう。何年も何年も、この命の続く限り、一生。

 この先なにがあっても、どんな変化が起きても、この瞬間の衝撃と感動を思い出すたびに情熱が甦るはずだ。

 永遠に。

 私は彼を推し続ける。





「まあ結局、十年も持たなかったわけですけどね」

 井崎と名乗った女はティーカップを湯呑みのように持ち、熱いストレートティーを音を立てて啜った。

 ショートカットの黒髪にオフィス向きのシックなシャツとスカート、それにシンプルで暖かそうなカーディガンを羽織っており、化粧がやや濃いという以外には特に目立つところのない女性だった。

 応接間はガス暖房の温風で快適に温まっており、とりあえず外の大雪を忘れられる空間だった。はめ殺しの窓の向こうには、磨りガラス越しにもわかるほど大粒の雪が降り続いていた。


 ローテーブル越しに向かい合う位置に腰掛けたあかしおは、いつものように、手帳と筆記具を持って時おり何かを書きつけていた。

「十年も続けばすごいと思いますけどね」


「九年半ですよ」と、井崎は被せるような勢いで言い返した。「春まで粘ればね……晴れて、出会って十年、デビュー十二周年でしたのに」

「俺は何かのファンになって半年以上続いたことはないですね」と、赤潮は言った。

「ええ? そんなに次々と違う推しが見つかります?」

「いえ、違う人に行くわけじゃなくて。何枚か続けてCD買ったり、ライブに行ったりして、その後しなくなるというだけです」

「うーん。普通ですね。普通ってそんなものですよね」

「それで、ご依頼は」と、赤潮は聞いた。

「いや、もうちょっとだけ聞いてください。私がミラポンを推すのを何故やめたのかって話を」

「ミラポン?」

「『たそぐれ』のボーカルのミライ。渾名はミラポンです」

「はあ」

「ご存じないですか? 無茶苦茶炎上してたのに」

「なんとなく最近名前を見たような気はしますが。ニュースの内容までは」

「裁判ですよ」井崎は熱い紅茶をもう一口、ズッと音を立てて飲んでから、カップをソーサーに戻した。「曲をパクられたっつって、後輩バンドを訴えたんです」

「訴えた側ですか。それじゃ、言い方アレかもしれませんが正義側というか、被害者なんじゃないですか?」

「そりゃ、法的にはそうかもしれませんけどね」井崎の声は一段高くなり、ローテーブルの方へぐっと身を乗り出した。「ファンの間じゃずっと周知の事実で、もう何年前の話だって感じですよ。後輩の方はちゃんと対価を払って許可を得ていたと言ってて、でもそれも酒の席での口約束だし。お互い、言ったもん勝ちです。泥沼ですよ。まったく情けない。こんなことになるくらいなら声優とデキ婚した時点で潔く解散すりゃあ良かったんです。もしくはゲス不倫がバレたときに。それかドラムのクソ男がヤクで捕まったときに」

「修羅場が多いですね。ロックバンドでしたっけ?」

「まあ一応はね、ロックの括りでしょうけど。けど今どき、昭和じゃないんですから、ワルっぽいのがロックだっていうような時代じゃないんですよ。誰もロックにそんなもの求めてないんですよ。それでも私はあらゆる不祥事に耐えて忠実なファンでい続けた方だと思いますよ? 自分で言うのもナンですけどね」

「じゃあ、裁判も我慢してやっては」赤潮は苦笑いして言った。

「いや、もう心が折れました。今までの積み重ねもあるし、とにかくもう駄目です。だってミラポンはずっとね、パクるならパクればいい、っていう主義の人だったんですよ。パクって売れるんならそれがそいつの実力だし、俺の作ったものがそのタネになるんなら光栄なことなんだ、とか言ってね、そういうことずっと言ってきた人なのに。それが急転直下の手のひら返しですよ。ありえない。ダッサすぎ。もうマジ無理」

「まあ、それはそれ、なんでしょう。ああいう世界の人達って、見た目は華やかでも結構金に困ってたりしますし」

「けどそれをファンに見せるなって話なんですよ。こっちは偶像に貢いでるんですから。都合の良いときだけ汚い素顔を晒さないで欲しいんです。すっぴんで表に出てくるなっての。わかる?」

「大変ですよねえ、今どきの有名人は」赤潮は言いながらふと立ち上がった。


 井崎はソファに座ったまま長身の男を見上げた。「まったく真面目に聞く気ないですよね」


「ちょっとお待ちくださいね」赤潮は微笑みながら、応接間の奥の方へ向かい、壁と同化していた引戸の向こうにいなくなった。

 間もなく、木の盆を持って戻って来た。


 赤潮はソファに掛け直し、ローテーブルの上に小瓶を二つと、ガラスの器、ティースプーンを置いた。小瓶にはそれぞれ、赤い粉と青い粉が入っており、コルクの栓がされていた。


「なんですか? それ」

「手続きです。自動化の」赤潮は赤い粉の小瓶を開けて、その中身をガラスの器に入れた。器にはあらかじめ少量の水が張ってあり、赤い粉が混じるとペースト状になった。

 赤潮はティースプーンを取って、サリサリと音をたててそれを混ぜた。

「水を小さじ二杯と、赤い粉を混ぜて、一分待ちます」

「待ってください。それが呪術ですか?」

「そうです。超常現象を呼び起こして、利用します」

「まだ、依頼をしてません」

「ご依頼をどうぞ」赤潮は器から顔を上げてじっと井崎を見た。


 精悍な顔立ちに、深い色の目。さっぱりとして機嫌の良さそうな表情だったが、どこか真意の読み取れない顔をしていた。


「なんでそんなに急かすんです?」井崎は苦笑いした。

「あなたみたいな人はずっと喋りますもの。先に用事を済ませましょう」

「でも、どんなことなら自動化できるんです?」

「まず、言ってみてください。それで、できるかどうか考えますから」

「犬の散歩も自動化できるって、チラシに書いてあったんですけど」

「できますよ」

「じゃあそれをしてください」

「犬の散歩?」

「そう」

「飼ってるんですか?」

「飼い始めたんです。もうミラポンのファンを辞めたから。新しい趣味を持とうと思って」

「なるほど」赤潮はもう一つの小瓶の栓を抜き、青い粉をガラスの器に足した。


 赤いペーストと青い粉が混じり合い、やがて紫色の塊ができた。


 赤潮はそれを手に取って丸め、テーブルの上に静かに置いた。

「この塊は放っとくとそのうち無くなるので、気にしないでください。後で同じ粉をお渡しするので、家でご自身でもやってください。水を小さじ二杯と、赤い粉を混ぜる。一分待って、青い粉を混ぜて、それで丸めて終わりです」

「えっと、どういうことです?」井崎は真顔になって聞き返した。

「自動化の手続きです。手順を書いた紙を渡すので、深く考えずその通りにしてください。これは科学ではないのでね、仕組みを追求することには意味がありません」


 応接間に沈黙が流れた。


「で、終わり?」井崎が聞いた。

「終わりです。来週あたりもう一度来ていただいて、そのとき自動化の様子をお聞きしますね。うまくいっているようなら、その日にお支払いをいただきます。今日はお会計はありません」

「うん、ほらね、帰らせようとしてる」井崎はまたティーカップを手に取った。「私の話はまだ途中だったんですけど」

「けどうちは、お話を聞く店じゃないのでね」

「そう都合良くはいかないでしょう。ひとのプライベートに踏み入ってお金取ってるんだから、話くらいは聞くべきじゃないですか?」

「………犬はなんていう名前なんです?」赤潮は再び手帳を取り出して開いた。

「名前を先に聞くんですね。名前はチーズです」

じゃなく?」

「なんでですか」井崎はツッコミのような勢いで返した。「そんな悪趣味なことしませんよ。もうミラポンを忘れたいんですよ、私は。というか忘れたんです。全部ゴミに出しましたよ、今まで集めたグッズも」

「犬種は」

「え?」

「小型犬なら、散歩なしで飼ってる人もいますよね。この時季なんか特に寒いし」赤潮はちらりと窓を見やった。

「うーん、豆柴ですからね。かなり活発だし、寒さにも強いみたいだし。季節関係なく散歩はさせたいですね」

「なるほど」

「もう、自動化は終わったんですか? 散歩の内容とか回数とか、私何も話してないですよね」

「それは大丈夫です。手続きは完了しています。今後は毎回、気付くと終わっていると思います」

「ほんとに?」

「うまく自動化できなかった場合は、お金は取りませんので。とりあえず一週間お試しください。それと、この自動化は単に『いつの間にか終わっていた』という感覚を提供するものですから、実際に散歩しないで済むわけではないのでご注意ください。例えば、朝に早起きして散歩するのなら、前日はそれを見越して早めに寝ておく、というような、体力的なところやスケジュールの調整は引き続き必要です」

「わかっていますよ。犬は可愛いし大事ですからね。ちゃんと責任持って死ぬまで飼いますよ」

「井崎さんにとってこの自動化はどんなメリットがあるんです? これは個人的な興味で聞くだけですが」

「小型犬って十年以上生きるらしいんですよ。今は可愛くって仕方ないけど、十年もそれが持つのかな、って思っちゃって。ミラポンですら十年続かなかったのに。私って熱しやすくて冷めやすいんだと思うんですよ。だからね、最初に熱し過ぎないようにしとくのが大事かなと思って」

「飽きたなら、欲しい人に譲ればいいのでは」と、赤潮は言った。「譲渡したい人とされたい人をマッチングするサービスが沢山ありますよ」

「飽きたくないんですよ。飽きたくないからこういう依頼をしに来たわけです。面倒くさいなって思いながら飼うのは嫌だから」

「でも、もう思ってるじゃないですか?」

「ある面ではそうですけど。でもまだ飼いたいんです。可愛いんですよ」

「まあ、だいたいわかりました。あの、もし無理じゃなかったらですけど、次回その犬を連れて来ていただけませんか?」

「え? ここに?」

「そう。そのチーズちゃんの顔が見たいです。特に見たからどうというわけじゃないんですが」

「犬が好きなんですか?」

「別に好きじゃないですね」赤潮は謎めいた笑みを見せた。「特に嫌いでもありませんが」




 横殴りの大雪がマンションの外壁の半分以上を白く塗っていた。半屋外になっている通路にも足首が埋まるほどの雪が積もっており、エレベータを降りて308室のドアの前に来るまでに赤潮は四回溜息をついた。

 ドアの前にはダウンコートで着膨れた長身の男が背中をだいぶ丸めて立ち、湿った煙草を一本咥えていた。手袋を片方だけ外し、ジッポライターを握っている。金髪に近い色の髪は、今はニット帽ですっぽり覆われ、銀縁の眼鏡は真っ白に曇っていた。

「なにしてんの。かわさん」赤潮は歩み寄りながら無感動に言った。「ほぼ不審者なんだけど」

「ごめん鍵忘れちゃって」

「また?」

「そう、こんな日に限って」

「もう車にずっと入れとけよ。あと禁煙」

「まだ吸ってないよ。でも通路は外だから良くない?」

「駄目だって。通路も警報鳴るんだよ」

「ええー」

 玄関を開けると外と全く変わりない温度の空気が出迎え、赤潮は深く五度目の溜息をついた。


 応接間のガス暖房をつけ、支度を整える間にあっという間に三十分が過ぎた。


「今日、犬が来るはずなんだ」赤潮はソファの端に収まってノートパソコンを開きながら言った。

「犬? え、ここに?」向かいのソファでスマホを弄っていた瑠璃川は顔を上げた。

「そう。豆柴のチーズ」

「チーズ?」

「そういう名前だと聞いた。でも、この天気じゃ無理かな」

「依頼人の犬? それか、犬の依頼人?」

「なんだよそれ」


 チャイムが鳴ったので赤潮は立ち上がって玄関へ向かい、瑠璃川は引き戸の向こうへ湯を沸かしに行った。


 井崎は寒さのためか、かなり青ざめた顔で現れた。ショートの髪は片側だけ酷く濡れて乱れ、グレーのフェイクファーのロングコートにも雪が貼り付いていた。

 赤潮は井崎に小さいタオルを渡し、替わりにコートを受け取って応接間の隅のフックに掛けた。


「すみません、連れて来れませんでした」井崎はソファに掛けると開口一番に言った。

「この天気ですから」

「天気もそうなんですけど、噛み癖が始まって。家具を全部かじるんで、しつけが終わるまでは、お出掛けはちょっと」

「いえ、ご無理を言ってしまって申し訳ないです。そういうのよく分かってなくて。言ってみただけなんです、正直な話」

「言ってみただけ?」

「犬が実在するのかどうか、少し疑っていたものですから」

「は?」


 眉をひそめた井崎の前に、引き戸の向こうから出てきた瑠璃川が静かにティーカップを置いた。「ふふ。赤潮君、すっかり懲りてるね」


「彼が瑠璃川と言います」赤潮はややうんざりしたような顔をしながら、井崎に紹介した。「前回ご挨拶してませんよね? こちらも俺と同じく、術師です。だいたいこの二人で依頼を受けてます」

「なぜか僕の依頼人に多いんですけど、の依頼する人がいるんですよね」瑠璃川はティーカップの隣に小さなミルクポットとスティックシュガーを並べながら言った。「犬飼ってないのに、飼ってるていで、世話を自動化したいと言ったりするようなお客様が」

「ええ? 私、そんなこと疑われてたんですか?」井崎の声は裏返りそうになった。

「申し訳ありません。もう疑ってないです」赤潮は口早に言った。「ややこしくなるからさ、お前もう下がっててくれる?」

「ごゆっくり」瑠璃川は曖昧な笑みを浮かべて会釈し、奥の部屋へ消えた。


 井崎はスマホを素早く操作して、赤潮に画面を見せた。

「連れて来れなかったんで、替わりに動画撮ってきたんですよ。これ、昨日の散歩から帰ってきた直後のです」

「ああ、散歩ってそっちなんですね」と、赤潮は言った。


 画面には肩掛けのポーチのようなものを下げた井崎と、そのポーチに潜り込んで顔だけ出している子犬が映っていた。


「まだ赤ちゃんですから。『抱っこ散歩』で外の景色に慣らすんです。春になったらリードデビューです。これで信じてくれましたか?」

「大丈夫です、俺は自分が掛けた術が使われていなければ見てすぐわかりますから。今日ここに来ていただいた時点で、井崎さんが先週の依頼通りの術を使ってくださったことはわかったので、犬も本当だったとわかりました」

「つまり先週の時点では本気にしてなかったと」

「もしかしたら、と思っただけです。そういうお客様がたまにいるもんですから」

「他の非常識な客のことなんか私は知りませんよ」

「そりゃ、そうですよね。すみません」


 井崎はティーカップを両手で持ち上げ、小さく溜息をついた。「なんだかな。犬のことなんて、真剣に考えるのは飼い主だけなんだなって、今ようやくわかりました。他人は気にしちゃくれませんね。他人だから当たり前だけど」

「……はい」と、赤潮は曖昧な返事をした。

「推しは私が降りても他の誰かが推してくれる。あんなことになってもまだ付いてくファンはいるし、ほとぼりが冷めれば過去の不祥事を知らないご新規さんがまたファンになるんだし……でも、ペットは本当に自分だけですね。私が真剣にならなかったら他に誰もいない」


 赤潮はそれには相槌を打たず、「術を解きましょうか?」と言った。「本日で解除して終わりにするなら、試用期間のみということで、お代はいただきません」

「いえ、まだ解除しないでください」井崎は手に取ったティーカップを飲まずにソーサーに戻した。「だって私は、またミラポンの話ばかりしてるし。忘れることができてないんですよね。忘れたいのに」

「無理に忘れることもないんでは」

「楽しくないんですもの。悲しいんです。考えるたびに悲しい。だからもう、趣味として意味がなくなってるから。曲を思い出すたびに、悲しくて腹が立って、そんなことミラポンは望んでないし私にも何のメリットもない」

「でも、本人がどうであろうと、作品の良さはまた別じゃないですか?」

「そりゃそうですよ。名曲ばかりですよ。だから、結局、曲を思い出すたびに嫌な気分になって落ち込むのは私の問題じゃないですか。曲に罪は無いわけで。それにミラポンにも問題は無いでしょ。アーティストとして当然の権利を主張してるだけであって。私が勝手に神格化して、自分の思い通りじゃなかったって身勝手に怒ってるだけであって。私が忘れれば済むことじゃないですか……つまり……何の話でしたっけ? そうそう、散歩ですよ。散歩中に彼の曲が浮かんでくるんですよね。頭の中に浮かんできて、離れなくなっちゃうんですよ。それが嫌で」

「それなら、散歩そのものじゃなくて曲を思い出す時間を自動化した方が良かったですね。そういうふうに、調整しましょうか?」

「まあ、根本的には、そうかな……? でも、それも本質的なことではないような気がしますね」

「うーん。本質を言うなら、あなたに、情熱的に何かを愛し続けなればならないというプレッシャーを与えてるものは何なのか、というのは気になりますけどね」

「え?」井崎はソファの上で動きを止め、じっと相手を見上げた。

「俺の個人的な興味であって、術師としての領分ではないので」と赤潮は言った。


 それから赤潮は立ち上がって引戸の向こうへ行き、小型のカード決済機を持って戻ってきた。

「自動化の内容がこれで宜しければ、本日お支払いをお願いいたします。電子マネーとかも使えるんですけど、ご希望のはありますか?」


 井崎は無言でじっと赤潮を見上げていた。


「何か?」

「母親がね、言ってましたよ」井崎は苦々しい口調で言った。「犬飼い始めたって言ったら、『犬なの?』って」

「はあ」

「ほんとはね、結婚してほしいんでしょ。いい歳した一人娘がロックバンドなんぞに貢いで、それでやめたと思ったら犬で」

「犬は別に良いのでは? 結婚の妨げになるとは思えませんが」

「そういうことじゃなくてね……『結婚は?』って言いたいわけですよ。母はね。でも言ったら嫌なお母さんになっちゃうから、言えないわけです。うちの親はなんで。だから直接は絶対言わないんですよ。でもそれが逆にプレッシャーなんです」

「親と話す時間を、自動化しましょうか?」

「あなたはそればっかりですね。ああすれば良い、こうすれば良い。何でも解決して、それで終わり」

「まあ、そういう仕事ですから。職業病です」赤潮は微笑んだ。

「もういいですよ。今日はお金払って帰ります。ああ、雪止まないのかなあ」井崎は壁際のフックに掛かった自分のコートを振り返って少し顔をしかめた。

「お茶淹れ直しますから、少し休まれていっては? 確か昼には晴れるって予報だったはず」

「いえ、チーズが心配だから」井崎はソファから立ち上がった。「ただでさえ、仕事ある日は見てあげられないんで。トイレトレーニングもあるし、今が大事な時期なんです」

「なるほど。犬飼うのって大変なんですね」

「大変だからいいんですよ。でも散歩の自動化はやっぱり助かります」


 井崎は慌ただしく支払いをして帰って行った。



 赤潮が見送りから戻ると、瑠璃川はすでに先ほど客人の座っていたソファに寝転んでスマホを見ていた。身体には分厚い毛布を掛けている。

「ここ、お前の家じゃないんですがね」

「帰ったの? 犬の依頼人」

「うん、まあ。結局なんだったんだか」

「多分また来そうだよね。ああいう人は」

「今度来たらお前にパスしていい?」

「やだ」瑠璃川はきっぱりと言った。

「なんで」

「結論が無いもん。愚痴を言いたいだけ。他の店に行けっての」

「けど、うちはそれで売り上げてるんだから」

「みんな呪術に夢を見過ぎなんだと思うよ」瑠璃川はスマホを見つめたままぶつぶつと言った。「人生をやってくのは、結局自分なのにさ」

「まあ、そう言ってやるなよ。たまに楽するくらいはいいじゃん」

 赤潮は井崎の使った食器を取って、奥へ下げに行った。

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