通勤(1)

 レンガ調の広々とした歩道がところどころ丸くくり抜かれ、すくすくと伸びた若木が枝を広げている。初夏の日差しが木漏れ日となって降り注ぐ。風がそよぐたびに葉擦れの音がし、道行く人々の心を癒す。

 というようなイメージが当初の計画だったと思われる道だった。今は、野放図に育ちすぎた街路樹が空を覆い、毛虫とそれに食われた穴だらけの葉を年中落とし続けていた。地下に張った根が歩道を押し上げて歪ませ、レンガ調のタイルはあちこちで割れたり浮き上がったりしている。


 うだる暑さと共に、不快な湿気が立ち込めていた。


 元は新興住宅地として、山を切り開いて整地された地区だ。その後、ローカル線が延びて駅が新設されてからは、駅ビルに直結したショッピングモールと、小さめのオフィスビル群ができた。そして、その時がこの地区の活気のピークだった。今ではどこもかしこも「テナント募集」の張り紙がされ、長年の湿気で波打ち、黄ばんでいる。


 三倉がスマホのナビに従って訪れたマンションも、エントランスに並ぶポストの半数以上が養生テープで封をされ、ひっそりと静まっていた。

 住所を間違えたか、ナビが誤作動を起こしたかもしれない、と三倉は不安になったが、「308室/(株)RPA」と表示されたポストを見つけ、ほっと息を吐いた。

 エレベータはひどく狭く、いちいち動作が遅かった。びっくりするほど大きく盛り上がった丸い階層ボタンは、奥まで強く押し込むと淡いオレンジ色に点灯した。

 三階の、清潔だが錆びついた通路にはシンプルなドアが並んでいた。オフィスとして使われている部屋ばかりでなく、普通の住居になっている部屋も多いようだった。もっと多いのは、空室だ。

 308室のインターホンを鳴らすと、しばらくの沈黙の後に急にドアが開いた。かなり背の高い、痩せた男が顔を出し、

「ああ、いらっしゃいませ」

と言った。


 不思議と耳に残る、男性にしては高めの声だった。


 白い衿付きシャツに淡いベージュのチノパンという格好で、のっぺりとした色合わせなのにどこか洒落て見えた。細縁の銀色の眼鏡が、照明を反射してチラチラと光る。若者とはもう呼べない年齢のようだが、顔つきにも表情にも年を積み重ねた徴が見当たらず、浮世離れした雰囲気があった。細面で、腕や足も長い。どこか、栄養が足りないまま伸びすぎた植物を思わせる体型だった。


「どうぞ、どうぞ、暑い中ありがとうございます。依頼の方ですよね? ご予約は?」

 細身の男は明るい口調で言いながら、三倉を中に招き入れ、上り框にスリッパをさっと並べた。

「あ、すみません、予約はしてないんですが……」

「ああ構いません。今ちょうど手が空いてましたので、すぐお話をお伺いできます。どうぞ」

「すみません」三倉は靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。


 やはり普通の住居を事務所に転用したようで、廊下の途中にトイレと浴室と思われるドアがあり、突き当たりにもドアがあった。

 三倉は男に促されるまま、突き当たりの部屋に入った。


 ダイニングキッチンにあたるはずのその部屋は、オフィスらしい応接間に改装されていた。ニスでよく磨かれた木製のローテーブルを挟んで、飾り気のない革張りのソファが一組置かれている。

 細身の男は三倉をソファに案内し、「お茶をお持ちしますので」と言ってスライド式の間仕切りの向こうに引っ込んだ。

 三倉は外の熱気と湿気で汗だくになっていたことに今更ながら気づき、鞄とジャケットを足元に降ろしてから、ハンカチで額を拭いた。ワイシャツもスーツのズボンも、汗でべっとりと身体に張り付いていた。しかし、その不快なベタつきはエアコンからの冷風でみるみる引いていった。


 やがて、木製の盆に冷えた麦茶と茶菓子を乗せて入ってきたのは、先ほどとは別の男だった。こちらもかなりの長身で、体格はがっしりとして精悍な顔立ちだ。歳は三十手前くらいに見える。張りのある肌だが、どこか青白く生気に欠けていた。

 安そうな生地のプリントTシャツにくたびれたジーパンという服装も相まって、ややとうの立った大学生のようにも見えた。


「うちにちゃんとしたビジネスマンが来るのは珍しいことです」長身の男は丁寧な所作で麦茶と菓子を並べてから、三倉の向かいにゆっくりと腰を下ろして言った。

「そんな、ビジネスマンだなんて」三倉はもう一度ハンカチを額に当てた。「私はただの、くたびれた会社勤めでして」

「会社に勤められてるなんて素晴らしいことですよ。今の時代には」長身の男は静かに言った。それから名刺を差し出し、赤潮あかしおと名乗った。

 三倉も慌てて自分の営業用の名刺を渡した。

 赤潮の名刺は、四隅に植物の葉を模したような変わった紋様がある以外には、特徴のない簡素なものだった。株式会社RPA、赤潮 洋輔、あとはこの建物の住所と電話番号だけだ。

「さっきご案内をしたのはかわと言います。名乗ったか分かりませんが。あともう一人だけおりますが、今日は居ません。まあ趣味の延長みたいなダラダラした会社なんです。会社とも言えないかもしれませんね。一応登記はして維持してますが……会社の体裁を維持するだけでも金を取られるんで、実際後悔してますよ」長身の男、赤潮は表情の少ない顔とは裏腹に饒舌だった。「チラシを見ていらした? それとも、どなたかのご紹介で?」

「あ、ええ、チラシです。昨日、飲み屋の、ええと店名が……」

「居酒屋なら『テンテン』ですかね。それか『とりま亭』」

「ああ、そこです、とりま亭です。そこのトイレのチラシを」

 三倉にしてみれば、ほとんど酔った勢いで決めたことだった。手書きの文字でつらつらと文章が書かれただけの、胡散臭い張り紙だった。素面の時にあれを見て、そこに書かれた住所を訪ねてみようとは思わなかっただろう。そもそも素面ならあんなものに興味を持たなかったはずだ。

 一夜経ち、酔いはさすがに冷めていたが、寝不足で頭はぼんやりとしており、まだ夢の続きにいるような心持ちだった。


「私生活のルーティンを自動化してもらえるというのは本当ですか」三倉はやや前のめりになって切り出した。

「そうですね。全部ではありませんが、大抵のことなら」赤潮は気負った様子もなくごく普通に返した。

「それはその、どういった仕組みで……」

「まずどんなご依頼なのかお聞きしてもいいですか?」赤潮は言いながら、ジーパンのポケットから小さな手帳と筆記具を取り出した。

「もしできるなら、通勤を自動化してほしいんです。毎日、平日の朝と夜、片道四十分ほど電車に乗ります。途中で乗り換えが一回か二回。行きは必ず一回ですけど、帰りは時間が合わないと二回乗り換えます。あの、そういったことって自動化できるのかなと」

「できますよ」赤潮はあっさりと言った。

「ほんとに?」

「通勤だけでいいんですか? 玄関を出てから職場に着くまでと、帰りは職場を出てから玄関に着くまで。それか、朝の身支度とか食事とかも、ひとまとめに自動化しておきます?」

「そんなことができるんですか」

「まあ何でも大抵はできますよ。自動化といっても、ロボットが代わりにしてくれるわけではありません。あくまで、身体を動かすのは、三倉さんご自身。傍目には三倉さんがいつも通りに支度して、いつも通りに通勤しているように見えます。ただご自身にその認識がないだけです。三倉さん本人の感覚としては、覚えがないうちにいつの間にか支度を終えて、職場に到着している。目が覚めたらもう職場に着いている。そんな感じになりますね」

「何だか、怖いような気もします」

「危ないことや変わったことがあれば、つまりルーティンから逸脱することがあれば、その時点で三倉さんの意識は通常に戻ります。自動運転がキャンセルされて通常運転に戻るわけですね。例えば電車が事故ったり、事件に巻き込まれたり、思わぬ知り合いと出くわしたり……そういう変わったことが起きれば、その時点でスッと目が覚めます。もっと些細なこと、人とぶつからないように避けるとか、つまづきそうになって姿勢を整えるとか、いつも会う知り合いに挨拶を返すとか、その程度のことであればルーティンの範囲内として自動運転は続行します。まあちょっと慣れないうちは変な感じがするかもしれませんが、使い慣れると便利ですよ。何より体力が節約できますから。人は身体を使うより頭を使うほうがずっと疲れるんでね。気疲れというやつです。通勤電車なんてのはその最たるものかもしれませんね、確かに」


 三倉は黙って、昨日居酒屋のトイレで見たチラシを思い返した。あれを見てすぐに、通勤を自動化してみたい、と考えた。酒でぼんやりした頭の中で、その考えだけが異様に冴えてギラギラと光っていた。自分の知らない間に通勤が終わっていたら。目が覚めれば職場にいて、そして帰りは目が覚めれば家に着いている。もう、足元のおぼつかない老人や、子連れの女が入ってきたときに、自分が席を譲るべきか悩まなくて良い。逃げ場のない車内で非常識な乗客に遭遇して腑が煮え繰り返ることもない。左側通行の階段をしつこく逆走しようとする変人と睨み合わなくて良いし、鞄が当たったとか手が当たったとか騒ぐタイプの輩に怯える必要もない。


 夢のようだ。話がうますぎて不安になるほど。


「お代は、幾らくらいになるんですか」三倉は恐る恐る聞いた。

「今言った内容だとこれくらいですね」赤潮は手帳の新しいページに数字を書き、三倉の方に向けて見せた。

 三倉にとって安い額ではなかったが、生活を便利にする家電をひとつ買うと思えば、悪くはない金額だった。

「朝起きてから身支度をして家を出て職場に着くまでと、職場を出てから家に帰るまで。まとめて自動化してこの価格です。これは本日ではなく、次回来ていただいたときに使い心地を確認して、そのときにお支払いいただきます。とりあえず三日から一週間ほど試していただいて、ルーティンの確定と試運転、その間は無料です。その時点で不具合などがあれば、またお代を頂かずに調整をして、数日の試運転を。で、三度目にご来店いただいた時に、ご納得いただけてればそこでお支払いを。だいたいこんなルールです」

「はあ、後払い式というわけですか」

「我々にとってはそういうことになりますね。お客様にしてみれば、仕様が確定したときに料金を払って、その後はずっとルーティンを自動化して暮らせるわけなんで、ある意味先払いというか、完成品を一括購入するみたいな感覚です」

「その自動化は、一生続くんですか」

「条件が変わらない限りはずっとです。三倉さんの場合なら、その仕事を今の形で続ける限りは、ってことになりますかね。あるいは、通勤方法をすっかり変えてしまうまでは。条件が合わなくなれば自動運転は勝手に止まって、そのうち消えます。ただけっこう、この停止の条件は曖昧なので、ルーティンをやめる際には一度またここに来て頂きたいですが」

「なるほど……」

 三倉は気持ちを落ち着けようとして、麦茶のグラスを取った。グラスの表面に並んだ水滴が、三倉の震える指を濡らした。

 グラスが指先から滑り落ちそうになり、三倉は「あっ」と小さく声をあげてもう片方の手を添えた。

「ああ、すみません……すみません。ちょっと動揺して……」

「いったん、通勤の電車、だけにしてみましょうか」赤潮は落ち着いた声色で言った。「電車に乗り込んだ瞬間から、降りる瞬間まで。乗り換えがあるから、最初の電車に乗った瞬間から、最後の電車を降りる瞬間まで、ですね。それで来週まで試運転をしてみて、具合が良さそうなら駅構内や駅までの道のりも追加で自動化していきましょう。毎日のことですから使う側にも『慣れ』が必要かと思います」

「あ、ありがとうございます……そんなことも、できるんですね」

「だいたい何でもできますよ」赤潮は自慢げな雰囲気もまったく見せず、静かに言った。


 それから赤潮は三上の通勤のルーティンについて幾つか質問をし、手帳にメモしていった。路線や時間帯には特に興味がないようで、「途中で食事や飲み物を買うことがあるか」「人と話す機会はあるか」「鞄はいつも同じものを使っているか」等、三倉にとってはどういう関係があるのか分かりづらい質問ばかりだった。

 赤潮はメモをし終えてから数秒それを読み返し、一瞬だけ考え込む顔をした後、「少々お待ちくださいね」と言ってすっと立ち上がった。

 先ほどの間仕切りの向こうにいなくなり、戻ってきた時には二つの小瓶とガラスの器を持っていた。器には透明な液体が少しだけ入っていて、飾り気のないティースプーンがひとつ差してあった。


 小瓶は首が細く、コルクの栓がしてある。片方には赤い粉が、もう片方には青い粉が入っていた。どちらの粉も、清潔な砂のように粒が揃い、ところどころにキラキラと光る白い粒が混じっている。


「この手順は三倉さんにも後でしてもらいますから、見ていてくださいね。まあ何も難しいことはありませんが」

 赤潮は言いながら、小瓶の栓を抜いて赤い粉を器に入れ、スプーンでよく混ぜた。赤い粉は先に入っていた液体と混じり合って、粘り気のありそうなペーストになった。

「赤の粉と水を混ぜて、そのまま一分」赤潮は壁掛け時計を振り返った。「まあこの一分はカップ麺の『三分』と一緒で、多少ズレても問題ありません。だいたいでいいんです。何秒から始めましたっけ。二十秒くらいかな」

 学校の教室などによくあるような、シンプルな時計の秒針が一周するのを待ち、赤潮は次に青いほうの小瓶の栓を抜いた。先ほど作った赤い粉のペーストに青い粉を加え、スプーンで混ぜる。

 ザリザリと、シャーベットを崩すような音を立ててしばらく混ぜてから、赤潮はそれを全部掌に乗せてくるくると丸め、紫色の小さな団子にした。

「えっと……これを、食べる?」三倉はテーブルの真ん中にぽつんと置かれた紫色の球をじっと見つめた。

「いえ、食べられません」赤潮は少し笑った。「ほとんどデンプンと塩と着色料ですから、食べても無害ですけど」

「じゃあ、これは何の……」

です。自動化を始めるための。もうほとんどこれで終わっています。三倉さんにも同じ粉を渡しますから、家に帰って同じことをしてください。適当な容器に水を大さじ二杯入れ、赤の粉を混ぜて一分待ち、それから青の粉を混ぜる。手順の書いた紙を渡しますんで、その通りやれば大丈夫ですよ。出来上がったこの紫の塊は、適当にどっかに置いとくか、捨てちゃっていいです。捨てなくてもそのうち消えるんで。そもそもあんまり気にならないはずです。ほら、もう無いでしょう」

 そう言って赤潮はテーブルの真ん中を指した。


 今そこに置いたばかりのはずの紫色の球は、跡形もなく消えていた。


「えっ。あれ?」三倉はテーブルを見回した。

 麦茶のグラスと手付かずの茶菓子、赤潮が使った器とスプーン、二つの空の小瓶は変わらずそこにある。

 紫の球だけが見当たらない。

 こういうテーブルマジックを何かで見たことがある、と三倉は思った。


「我々の技術はちょっと特殊なんで、詳しくは明かせないんですが」赤潮は言った。「科学的な方法と非科学的な方法を混ぜ合わせて、いいとこ取りをするものです。タネを知ろうとして観察したり実験したりはしないでくださいね。それをされると非科学的な面、呪術の部分で失敗してしまいますから。通勤の自動化はあなたにとっては、それなりのお金を積むことも惜しくないほどの切実な問題だ。仕掛けを知ることよりも、自動化が成功することのほうが重要です。まあ普通にやれば失敗はありません。うまく行かない点があれば、次回来ていただいたときに調整をしますからご心配なく」


 三倉はしばらく言葉を失っていたが、やがてどうにか気を取り直し、「そうですね、とにかく数日やってみます」と言った。「このことは、人には話さないほうが良いんですね?」

「いえ、別に秘密にしなくて良いですよ。うちはいつでも新しいお客様は歓迎してますから、口コミで広めていただくのは助かります」

 そういえば、誰かの紹介でここに来たのかと最初に聞かれたな、と三倉は思い出した。

「実際これは割と人を選ぶ技術なんで、言えば言うほど広まる、とも限らないんですよ。私生活を自動化してしまうことには抵抗を覚える人も多いですからね。だから三倉さんみたいな方はここに来た時点でかなり珍しい方であり、我々にとっては貴重なお客様ということです」

「そうなんですか? 通勤が嫌な人なんて山ほどいそうですけど……」

「まあまあ、とりあえず使ってみましょう。本日は、これからお仕事で?」

「いえ、今日は外回りで……直帰で良いと言われてるんで、早めに上がってきたわけです」

「なるほど、もうこの後は家に」

「寄り道しなければ、そうですね」

「では家に帰ったら、なるべく早めにこれをやってください」赤潮は空になった二つの小瓶を示した。「それで来週の今日くらいの時間に、またお会いして調整をいたしましょう。一応、木曜日の十五時で予約にしておきますが、気になることがあればもっと早く来ていただいて構いません。適当に時間取れるときに来てもらえれば大丈夫ですよ。日曜日以外は、夜七時まで開いています」

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